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2016年07月09日

第285回 警視庁(二)






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年七月二十二日、野枝と村木が警視庁を訪れ刑事部屋で大杉と面会をしている、ちょうどそのとき、ひとりの異様な男が刑事に付き添われて入って来た。

 薄い髪の毛を襟のあたりまで長く伸ばし、真ん中から分けていた。

 年のころは四十ぐらいだろうか、背が低く赤ら顔で低いだんご鼻、大きな下品な口、下卑て見えるたちの男だった。

 真夏だというのに、厚ぼったい冬服のフロックコートを着ている。

 そのせいか、顔中に豆粒のような汗を滲ませている。

 大きな帳簿のようなものを抱えたその男に、部屋にいたみんなの視線が集まった。

 伊勢神宮への寄付金を集めに来たなどと言って、わずかばかりの金を得て歩く、宗教気狂いなどによくある性(たち)の男のように、野枝には見えた。

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「あの男を知ってるかい?」

 野枝がその男から目を離すと、大杉が小声で言った。

「いいえ、あなたは知ってるの?」

「ああ、よく話すだろう、忠君愛国主義者でいろんな知名人の署名をもらって歩いているのさ。あれがその奉書でできた帳面だよ。ねえ、君、その人は忠君愛国主義者だろう?」

 大杉がそばに腰かけていた刑事に話しかけた。

「ええ、そうですよ」

「この先生はね、僕、知っているんだよ」

 大杉はこの男に一度、会ったことがあった。

 自分の主義に賛成してくれと言って、この男は大杉を尋ね、帳面を持ち出して署名を求めた。

 大杉は大いに賛同しますよと言って署名しようとその帳面を見ると、署名した人には伯爵だとか男爵だとか陸軍大将だとか、肩書きがついていた。

 大杉は自分は主義者だから、その肩書きを書こうとすると、その男はそれは困ると言って帳面をしまって大急ぎで帰って行ったのだった。





 大杉はわざと部屋中の人に聞こえるような大声でその話をし、

「ねえ、君、そうだよね」

 と、その男の後ろから声をかけた。

「やあ、大杉さん、これはしばらく。あ、こちらは奥さんですか、どうぞ奥さん、私の主義に御賛成下さい。私はこういう者です」

 男は野枝にいきなりハガキ大の名刺を突き出した。

 それには大きくT・Tという名前が書いてあり、たくさんの肩書きがついていた。

 そして男は狭いテーブルとテーブルの間に突っ立って、演説でもするような調子で手を振り体を動かし、しゃべり始めた。

「我が日本では忠君愛国ということを忘れては、決して万民幸福は得られない。万民はみんな幸福に生活しなければならない。しかし、今日、決して平等ではない、幸福ではない。それはなぜか? 今の日本では忠君愛国が蔑ろにされているからだ。そこで私は忠君愛国のために働いている。私はあらゆる天下の富豪を訪ねてこの主義のために五百万円の金を集める。そして愛国新聞を創(はじ)めてこの主義の宣伝に努める」

 男はそこら中に唾を飛ばしながら、流れる汗をふく間もなく、しゃべりまくった。

「今日の大きな日刊新聞はみんな駄目です。あんなものは愛国新聞を出せば、一挙につぶれます。これを御覧下さい。この通り数十万円の金が集まりました。××会社の××氏は二十万円を出してくれることになっています。私は御覧の通り、夏冬の洋服一着で通します。私はパンと水があればよろしい。私は集めた金を私的なことに使ったりはしない。私はただ愛国新聞のために金を集めている。私の主義にはどんな人でも反対することはできません。御覧下さい。こんなに立派な人たちが賛成してくれる。まったくこの日本人の心に忠君愛国の心がなかったならば、我々は安穏でいることができない。ねえ、奥さん、そうでしょう。どうですか、私の主義に賛成して下さい。ねえ、大杉さん、あなただって、私の主義には賛成でしょう」





 あまりに大げさな自己紹介に呆気にとられている野枝の前に、その男は大きな帳面を広げて、忙しくそれを繰って見せ、その間からさらに大きな鳥の子紙に一枚一枚「一千円也何某(なにがし)」「五千円也何某」というように寄付金高と氏名を書いたのを一束にしたのを見せたりした。

「僕は君が先(せん)にその帳面を持ち込んだときから、君の主義に賛成だと言ってるさ」

 大杉は人の悪い微笑を含みながら、ゆっくりとその男に言った。


 居合はす刑事連もそれから何時の間にか廊下から侵入して来た、Mもみんな笑ひながら此人の悪い○○○主義者と気狂い染(じ)みたしかしお人好しの忠君愛国家の問答に興味を感じてゐるやうに熱心に注意してゐました。

(「悪戯」/『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で『悪戯』/「アナキストの悪戯」の表題で『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p137)


「○○○主義者」は「無政府主義者」。

「そうです、そうです。大杉さん、ぜひ私の主義に賛成して下さい。あなたのその熱烈な力で我々の主義を説いてくれれば、たちまちの間にすべて人間はみんな我々の主義になります。あなたのような人が賛成してくれれば、実に心強い。あなたのその熱情と力は、滅多に得られるものじゃありません」

 男は他人の言うことなど耳に入らないように、が鳴り立てた。

 男の額からは汗がますます流れ落ちていた。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:04| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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