2016年03月11日
第8回 長崎(二)
文●ツルシカズヒコ
野枝の長崎時代について、叔母・代キチは岩崎呉夫にこう語っている。
さようでございますね、近ごろのボーイッシュ・ガールってとこでしたでしょう。
あんたはアメリカへでもいけば上等なんだけど、日本じゃお嫁の貰い手がないよ。
よくそんな冗談を申しました。
はじめのうちは千代子と張合ってムキに自分を主張しようとしていました。
躾けのことで喧(かまびす)しくいうと、すぐふくれて泣くのです。
声は決してだしませんで、ただポロポロ涙をこぼしましてね。
けれどとにかくハキハキして、役に立つ子でしたよ。
五つ六つのときから肩や胸なんかが、こう男の子みたいに張りましてね、固ぶとりで、着物が似合わないかわりに洋服だとぴったりするような子でした。
(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61~62)
キチは瀬戸内晴美(寂聴)には、こう語っている。
あの子は長崎にわたくしどもがおりました時、家が貧しゅう子だくさんでありましたのでうちへまいりました。
気のつよい、きかん気のごついおなごでござりましたが、泣き虫でもありました。
野枝はわたくしの身内でござりますもの、野枝のつらがるがごと、あるはずのありましょうことか。
本を読むのが大好きで、掃除とか裁縫とか女らしいことは好きではありませんようにござりました。
それでも女のつとめだからと申して、千代子と交替でむりにやらせるようにしたものでござります。
(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p22~23・岩波現代文庫)
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』には、こう記されている。
キチ曰く、「ノエは、あまり掃除やお裁縫が得手でなく、女子の務めとして、千代子と共に、無理にでもやらせましたよ」
「千代子の真似ばっかり、する子でした。千代子の読む本を読み、千代子と同じ髪型にし、二人とも水練が達者でしたので、よく鼠島に泳ぎにいってましたよ」
「手先の不器用な娘でしたので、女の勤めとしての針仕事は、とくにきつく教えました。聞かぬ気のところがあり、機嫌をほどくのに、苦労をしました。暇さえあれば書庫に篭っていました」
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p36~37)
野枝が西山女児高等小学校四年に在籍したのは、一九〇八(明治四十一)年四月から十一月までだったが、甘粕事件後に『長崎新聞』に載った記事の中で、同校校長が同校在学時の野枝についてコメントをしている。
見出しは「西山女児校にゐた伊藤野枝 成績は殆ど『甲』だつた ーー既に思想がませて大人染みてゐた 暑中休暇の日誌は実に美事なもの」。
……第一学期の成績は修身、国語、算術、歴史、地理、理科、手工、唱歌、体操の各教科は全部甲で唯図画、裁縫と行状が乙で学業成績は極めて優秀の方であつた、
当時の身長は四尺六寸九分、体重十貫十五匁、胸囲二尺二寸七分、背柱は正しくて体格は随分丈分であつた、
四月以降十月迄に僅三日間事故欠席したのみで熱心に能く勉強してゐた、
容貌はどちらかと云へば好くない方であつたが非常に文才のあつた事は未だに記憶してゐる、
野枝は当校在学当時から何となく思想がませて大人染て子供らしい処がなかつた、
夏季休業中の日誌を担任教師の吉田弘文氏(現活水女学校教師)に出したのを一読してみたが実に軽妙な書振で到底十四五歳位の小娘の書いた文章とは思へない程に巧く書いてあつた……
(『長崎新聞』1923年10月6日・4面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p435)
野枝の容貌について「どちらかと云えば好くない方であった」と校長はコメントしているが、叔母・代キチは「きれいでござりましたとも。はっきりした顔だちのよか女でござりました」と語っている(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23)。
十三歳の野枝の身長は一四一センチ(四尺六寸九分)、体重は三十八キロ(十貫十五匁)、胸囲は六十八センチ(二尺二寸七分)である。
ところで、野枝が不器用で裁縫が不得手だったという叔母・キチの発言があり、学校の裁縫の成績も「乙」であるが、野枝は本当に不器用で裁縫が苦手だったのだろうか。
まず、祖母・サトと父・亀吉が手先が器用で、野枝がその血を受け継いでいるとすれば、不器用でない可能性が高いのではないか。
そして、野枝は後年、ミシンを購入し洋服作りにハマっている。
野枝は裁縫が不得手だったのではなく、良妻賢母教育の一貫として押し付けられる裁縫に反発していたのだろう。
『長崎新聞』によれば、野枝は一九〇八年四月九日に西山女児高等小学校に転校し、同年十一月二十六日に退学。
同校を退学したのは、代一家が東京で事業を始めるため、上京することになったからである。
野枝は今宿の実家に帰り、周船寺(すせんじ)高等小学校に戻った。
西山女児高等小学校四年の二学期途中で今宿に帰ることになった野枝だが、その胸中はいかなるものであっただろうか。
翌年の三月には高等小学校卒業である。
卒業後の進路のことも考えなければならなかったはずだ。
井出文子は野枝の覚醒をこう捉えている。
今宿では、貧しくとも家族との一体感のなかにスッポリと浸っていられた。
父も祖母も兄妹も野枝の力量をみとめ……彼女はその小宇宙の女王様だった。
何ごとも自分の考えで自由にきめ、ものをいうことができた。
だが長崎ではそうはいかなかった。
親分肌の叔父と頭の切れる叔母、叔父が溺愛していた一人娘の千代子……野枝は不安定な他所(よそ)者だった。
一片の疑いもなく愛情の一体感で暮してきた肉親も、離れてみれば他人と同じである。
ここで大切にされているのは自分ではなく、千代子である。
自分はある意味で差別のただ中にいる。
この嫉妬と屈辱のどうしようもない悲しさのなかで、はじめて野枝に知覚されるのは、誰でもない「自分」であり、このとくべつの「自分」を知り、愛(いと)おしむのも「自分」でしかなく、その未来に責任をもち、その運命を背負うのもまた「自分」をおいていない。
……このときから野枝の内部に不敵な魂が根をおろしはじめる。
(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p26~27)
矢野寛治はこう指摘している。
この家では最も大事にされるのは千代子、ノエ自身は今宿の家とは違って中心になれない。
それは何のせいなのか。
自分が悪いわけではない。
貧しさか、ノエはこの代の家で新聞を、雑誌を、ほかの多くの本を読み下し、世の中、社会、お金というものを考えた。
今は居候の身にて、従順にしておかなければならない。
我慢と辛抱と没自我だが、唯一自我の発露は成績だった。
先ず勉強で千代子に優ること。
千代子は……気立て温厚温雅。
……模範の姉だったが、ノエの心の中に生まれついて何の苦労もしていない者への嫉妬が、その底の方で憎しみにもなっていた。
……千代子を面従腹背で当面の敵とした。
……代準介は境遇の悪さから賢(さか)しらになっている小娘ノエの根性を気に入っていた。
自分も十三歳から商売をし、生き抜いてきた男だからである。
ノエの余儀のない捻じ曲がりは、もちろんノエのエネルギーになっていく。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p39~40)
★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)
★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)
★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)
★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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