2016年06月27日
第262回 後藤新平様
文●ツルシカズヒコ
一九一八(大正七)年三月九日、野枝は筆を執り、内務大臣の後藤新平に宛てて「抗議状」を書いた。
前おきは省きます。
私は一無政府主義者です。
私はあなたをその最高の責任者として、今回大杉栄を拘禁された不法に就いて、その理由を糺したいと思ひました
それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはゐることゝと思ひますが……若しもあなたがそれをそのまゝ受け容れてお出になるなら、それは大間違ひです。
そしてもしもそんなものを信じてお出でになるなら、私はあなたを最も不聡明な為政者として覚えておきます
併し、とにかくあなたに糺すべき事だけは是非糺したいとおもひます
それには是非お目に懸つてでなければなりません。
お目に懸つての話の内容は、
一、今回大杉拘禁の理由、
一、日本堤署の申立と事実の相異、
一、日本堤署の始終の態度、
一、日本堤署及び警視庁の声明した拘禁の理由の内容、及ひ(ママ)日本堤署の最初の申立てとその矛盾に就いて
一、警視庁の高等課の態度の卑劣、
一、大杉と同時に同理由で拘禁した他の三名を何の理由も云はず未決檻より放免したこと、
まあそんなものです。
但し秘書官の代理は絶対に御免を蒙りたい。
しかし、断つておきますが、私は大杉の放免を請求するものではありませぬ
また望んでもおりませぬ
彼自身もおそらくさうに相異ありません。
彼は出さうと云つても、あなた方の方則で、何故に拘禁し、何故に放免するかを明らかにしないうちには素直に出ますまい。
また出ない方がよろしいのです。
こんな場合には出来るだけ警察だの裁判所を手こずらせるのが私たちの希ふ処なのです。
彼は出来るだけ強硬に事件に対するでせう、
彼は今、日本堤署によつて冠せられた職務執行妨害と云ふ罪名によつて受ける最大限度の処刑をでも平気で予期してゐるでせう。
私はじめ、同志の悉ても同じ期待と覚悟をもつて居ります。
あなたはどうか知りません
警保局長、警視総監二人とも大杉に向つて口にされた程、大杉から同志の人々が離れた事をよろこんでゐられたさうです。
しかし、今こそ、それが本当に浅薄な表面だけの事にすぎなかつた事が、解つたでせう。
そして、私はこんな不法があるからこそ私どもによろこびが齎らされるとおもひます
何卒大杉の拘禁の理由が出来る丈け誤魔化されんことを、浅薄ならんことを。
そしてすべての事実が私共によつて、暴露されんことを。
あなたにとつては大事な警視庁の人たちがどんなに卑怯なまねをしてゐるか教へてあげませう。
灯台下くらしの多くの事実を、あなた自身の足元のことを沢山知らせてお上げします。
二三日うちに、あなたの面会時間を見てゆきます。
私の名を御記憶下さい。
そしてあなたの秘書官やボーイの余計なおせつかいが私を怒らせないやうに気をつけて下さい。
しかし、会ひたくなければ、そしてまたそんな困る話は聞きたくないとならば会ふのはお止しになる方がよろしい。
その時はまた他の方法をとります。
私に会ふことが、あなたの威厳を損ずる事でない以上、あなたがお会ひにならない事は、その弱味を暴露します。
私には、それ丈けでも痛快です。
どつちにしても私の方が強いのですもの、
私の尾行巡査はあなたの門の前に震へる、そしてあなたは私に会ふのを恐れる。
一寸皮肉ですね、
ねえ、私は今年廿四になつたんですから、あなたの娘さん位の年でせう?
でもあなたよりは私の方がずつと強味をもつてゐます。
そうして少くともその強味は或る場合にはあなたの体中の血を逆行さす位のことは出来ますよ、もつと手強いことだつてーー。
あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。
九日
伊藤野枝
後藤新平様
(「書簡 後藤新平宛」/堀切利高『野枝さんをさがして』_p76~79)
「書簡 後藤新平宛」の解説によれば、現在、奥州市立後藤新平記念館に所蔵されているこの書簡は、巻紙四メール近い筆書きの書簡である。
封筒表書きには「麹町区丸の内 内務大臣官邸 後藤新平殿 必親展」(必親展は朱筆)と記され、裏書きは「三月九日」とあるだけで伊藤野枝の署名はない。
野枝は後藤の娘に言及しているが、後藤の長女・愛は実際に野枝と同じ一八九五(明治二十八)年生まれだった。
愛は鶴見祐輔と結婚し、鶴見和子、鶴見俊輔の母となった。
三月九日の午後、大杉は「証拠不十分」で起訴されることなく、釈放され帰宅した。
ゆえに、野枝が後藤に面会する必要性はなくなった。
この書簡の存在が明らかになったのは、堀切利高が『初期社会主義研究』(二〇〇四年/第二〇号)に寄稿したことによる。
二〇一六(平成二十八)年四月、『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』の著者、田中伸尚(のぶまさ)も後藤新平記念館を訪れ、この書簡を確認している。
書簡は長い巻紙で、学芸調査員の中村淑子(しゅくこ)さんに測定してもらったところ三・九一メートルもあった。
記念館が所蔵している後藤宛て書簡二八三二通の中では最も長い。
(書簡の封筒の)裏は……「三月九日」とあるだけで、差出人の名はない。
書簡の封筒は、縦に引き破られている。
後藤宛に来着した書簡はふつう秘書が丁寧に鋏などで開封する。
中村さんに訊いてみた。
「差出人がなく、親展とありますから、たぶん後藤が誰だろうと手でびりっと開封したのでしょう」。
(田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』_p207)
堀切利高は野枝からの書簡に後藤本人が目を通したのかどうか不明だと書いているが、田中伸尚の取材からすると、後藤本人が開封し目を通した可能性が高い。
この事件で三月に発行を予定していた『文明批評』の発行が遅れ、四月になった。
野枝は『文明批評』四月号(第一巻第三号)に「乞食の名誉」「獄中へ」「少数と多数」を寄稿したが、同誌は四月六日に発禁処分になり、四月九日に製本所で全部が押収された。
警視庁の妨害であったが、当局が発禁理由にした原稿は、野枝の「少数と多数」、大杉の「盲の手引する盲」、荒畑寒村の「怠惰の権利」だった。
野枝の「少数と多数」は『青鞜』一九一三年十一月号に掲載し、一九一四年三月に出版した『婦人解放の悲劇』(東雲堂書店)に収録された、エマ・ゴールドマン「Minorities versus Majorities」の翻訳の再録と思われる。
結局、『文明批評』はこの号をもって終刊になった。
野枝は『婦人公論』四月号(第三年第四号)に「背負ひ切れぬ重荷」を寄稿した。
野枝が周船寺高等小学校四年時(一九〇九年)のクラス担任だった谷先生が自殺をしたのは、野枝が上野高女五年生(一九一一年)のときの五月だったが、この谷先生の自殺について書いたのが「背負ひ切れぬ重荷」である。
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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