2016年06月03日
第233回 菜圃(さいほ)
文●ツルシカズヒコ
ようやくに、目指す島田宗三の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。
木立の中の藁屋根がはっきり見え出したときには、沼の中の景色もやや違ってきていた。
木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。
蘆間のそこここに真っ黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や菜の葉などが生々と培われてある。
道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。
見ると沼の中に降りる細い道がついている。
土手の下まで降りてみると、沼の中には道らしいものは何にもない。
蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のようにところどころ高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。
「あら、道がないじゃありませんか。こんなところから行けやしないでしょう?」
「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?」
「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか」
「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか」
「だって、いくらなんだって道がないはずはないわ」
「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?」
「向こうの方にあるかもしれないわ」
野枝は少し向こうの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっているところを指しながら言った。
「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか。ぐずぐず言ってると置いてくよ。ぜいたく言わないで裸足になってお出で」
「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ」
「ここでそんなこと言ったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?」
大杉はそんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋を脱いで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。
野枝はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人たちが歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるにちがいないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういうところを毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。
それでも大杉の最後の言葉には、野枝はまたしても自分を省みなければならなかった。
野枝はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って大杉の後から沼の中に入った。
冷たい泥が野枝の足の裏に触れたかと思うと、ぬるぬるとなんとも言えぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首まで隠してしまった。
その冷たさ!
体中の血が一度に凍えてしまうほどだ。
二、三間は勢いよく先に歩いて行った大杉も、後から来る野枝をふり返ったときには、さすがに冷たい泥水の中に行き悩んでいた。
「どう行ったらいいかなあ」
「そうね、うっかり歩くとひどい目に遭いますからね」
ふたりはひと足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿を探し出した。
そこは一反歩くらいな広い畑で四、五人の人が麦を播いていたのだ。
島田宗三の家への道を聞くと、その人たちは不思議そうにふたりを見ながら、この畑の向こうの隅から行く道があるから、この畑を通って行けと言ってくれた。
けれど、ふたりが立っているところと、その畑の間には小さな流れがあった。
とうていそれが渡れそうにもないので、野枝が当惑しきっているのを見ると、間近にいた年老いた男が彼女に背を貸して渡してくれた。
ふたりはお礼を言って、その畑を通り抜けて、再びまた沼地に入った。
畑に立っていたふたりの若い女が、野枝の姿をじっと見ていた。
野枝はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。
野枝は柔らかく自分の体を包んでいる袖の長い着物が、そのときほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。
足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。
女たちの目には、小さな流れひとつにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう?
だがいったい、どうしたことだろう?
まさかあの新聞の記事が嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人たちが、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう?
やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。
野枝はひとりでそんなことを考えながら、大杉には一、二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までもくる蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、ひと足ずつにようやくに運んでゆくので
あった。
「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね」
大杉は後ろをふり向きながら言った。
「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私たちならすぐ病気になりますね。よくまあこんなところに十年も我慢していられること」
と言っているうちにも、ひと足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も野枝は立ち止まった。
少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上滑りのする泥の中に踏みしめる力もない。
下半身から伝わる寒気に体中の血は凍ってしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、野枝はもう半泣きになりながら、大杉に励まされてわずかのところを長いことかかってようように水のないところまで来ると、そこからは島田の家の前までは、細い道がずっと通っていた。
木立の中の屋敷はかなりな広さだった。
一段高くなった隅に住居らしいひと棟と、物置き小屋らしいひと棟とがそれより一段低く並んでいる。
前は広い菜圃(さいほ)になっている。
畑のまわりを鶏が歩きまわっている。
他には人影も何もない。
大杉が取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいて行った。
正面に向いた家の戸が半分閉められて、家の中にも誰もいないらしい。
「御免!」
幾度も声高に言ったが何の応えもない。
住居といってもそばの物置きと何の変わりもない。
正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二、三枚閉まるようになったところが開いている。
他は三方とも板で囲われている。
覗いてみると、家の奥行きは三間とはない。
そこの低い床の上に五、六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。
もちろん押入れもなければ戸棚もない。
夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上がりかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャに置かれてある。
土間の大部分は大きな機で占められている。
家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。
けれどもその狭い畳の上には、他のものとはまったく不釣り合いな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。
机のすぐ上の壁には、田中正造翁の写真がひとつかかっている。
人気のない家の中には、火の気もないらしかった。
ふたりは寒さに震えながら、着物の裾を端折ったまま、戸の開いたままになっている敷居に腰を下ろした。
腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。
鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩き回っている。
木立ちに囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立ちの外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。
この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。
ふたりが腰をかけているところから、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向かって呼ぶ声がする。
返事をしながら、そっちの方に歩いて行くと蘆の間からひとりの百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。
挨拶を交わすと、それは島田宗三の兄にあたる、この家の主人であった。
素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。
気の毒そうにふたりの裸足を見ながら、主人は宗三は昨日から留守であると言った。
家の方に歩いて行く後から、大杉は今日訪ねてきたわけを話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。
「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから。実は弟もそれで出ておるようなわけでございますが」
彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。
「私どもがここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、なにぶん長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私ども少数の力ではかなわないのです。しかし、そう言ってここを立ち退いては、もう私どもどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。なんだか欲にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。ここにまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますようなわけで、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております」
「もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分延びますかな」
「そうです。まあひと月やふた月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし」
「そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどのへんです、その方の心配はないのですか?」
「今、ちょうど三ヶ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水が入ってきて、麦も一度播いたのを、また播き直しているところです」
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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