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2016年07月09日

第283回 正力松太郎






文●ツルシカズヒコ




 一九一九(大正八)年七月十八日、昼近くになっても大杉たちは築地署から帰ってこなかった。

 昼ごろ、野枝は日比谷の警視庁に行き特別高等課長に面会し、大杉たちがまもなく帰されることを確認した。

 午後二時すぎころ、大杉たちはみんな元気な顔をして服部浜次の家に引き上げて来た。

 野枝と大杉は疲れ切って本郷区駒込曙町の家に帰宅した。

 玄関を入るとハガキが一枚落ちていた。

「茂木久平の件につき……」云々という、警視庁刑事課からの召喚状だった。

 日付は十八日とあった。

 野枝と大杉は疲れていたので、その夜は早く寝た。

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 翌七月十九日、大杉たちは横浜の集会に出かけることになっていたが、朝起きると尾行が知らせに来た。

「今、警視庁から自動車をまわしますから、それで御出頭を願いたいと言ってきました」

 三十分もすると自動車が来た。

 野枝と大杉は急いで朝食をすませて出た。

 野枝はその日、芝区三田四国町の奥山医院に行く日だったので、警視庁の前まで一緒に乗せて行ってもらうことにした。

 野枝が奥山医院を出て服部浜次の家に着くと、服部の妻がいて、尾行が大杉からの言伝(ことづて)を持って来たという。

 今日は帰れないかもしれないという。

 警視庁で大杉に面会した服部浜次が帰ってきた。

「家宅侵入」「詐偽」で告発されるという。

 野枝はまったくなんのことなのか、理解しかねた。





「家宅侵入」とは本郷区駒込曙町の現在の家のことかもしれないが、それがなぜ家宅侵入になるのかーー。

 茂木が家賃をためて出て行ったことは知っている。

 家主と茂木との話はまだついていないので、久板らが留守をあずかっていた。

 そこへ野枝が病気になったので、中山から出てきて、どこか住む所が見つかるまで、久板の勧めにまかせて現在の家にいるようになったのだ。

 野枝と大杉は、家主と茂木の話がついたら後を借りたいと、駒込署の高等視察を通じて申し込んだ。

 一応は貸せないとの返事だったが、家主側の仲介者からもう一度家主に聞いてみようということになったと、尾行に聞いていた。

 野枝と大杉はまだ充分に交渉の余地はあると思っていたので、突然、そういう嫌疑をかけられることが解せなかった。

 それに、現在の家には何ひとつ世帯道具のようなものは運び込んでいなかった。

 どう考えてもそんなことに引っかかるとは思えなかった。

 そして「詐偽」ということも、野枝にはなんのことかまるでわからなかったので、ただ「へぇ」と言ったきりだった。





 ともかく、野枝は紙や手拭などを用意して警視庁に急いだ。

 正面の玄関を入って左へ階段を降りた左の方にタタキの廊下があった。

 野枝は前年の三月、大杉、和田、久板らが「どんだ木賃宿事件」で警視庁の留置場に入れられたときに、差し入れに来たので、見覚えのある廊下だった。

 そこの腰掛けに大杉がひとりで腰をかけていた。

「どうしたのです」

 野枝が近づいて声をかけた。

「家のことだよ。それと四、五年前からのチョイチョイの払い残りを詐偽だと言うんだよ。ずいぶん細かく調べてあらあ」

 大杉は笑いながら言った。

「だって、そんなこと問題になるはずがないじゃありませんか。みんなちゃんと話がついているんだし、家のことだって私そんなはずないと思うわ」

「でも、向こうでもものにするつもりなら何かにはなるだろう」

「あんまり馬鹿にしてるじゃありませんか。そんな古いことまで洗い出して」





「つまらないことでやられるのもおもしろいよ、ちょっと。なあに破廉恥罪ということにして、世間に対する僕の人格的な信用を落としてから、ぶち込もうということさ。きまってらあ」

「すいぶん卑劣ですね」

「それだけ慌ててるんだよ」

「で、もう調べはすみましたか?」

「ああ、これから検事局だ」

「じゃ、今日中に起訴か不起訴か決まるんですね」

「ああ、今日はたいてい未決にまわると思うが、なんなら夕方まで待ってごらん、夕方までにはわかるだろう」

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、警視庁の警務部刑事課長・正力松太郎が新聞記者を集めて「大杉は大正五年以来、取り寄せた米みその代金を払わず、また現在の家は家主が立ち退きを迫っても応じない」から、詐欺、恐喝での取り調べだと発表したという。

 正力が警視庁の警務部刑事課長に就任したのは、この年の六月だった。





 ちょうどそこへ尾行が来合わせた。

「ちょっと」

 野枝は尾行を呼び止めた。

「一緒に検事局に行くんでしょう?」

「ええ、行きます」

「じゃ、起訴か不起訴か決まるだろうから、わかったら私のところまで知らせてくれない? 私は服部洋服店で待ってるから」

「ええ、よござんすとも、すぐお知らせします。ですけれど、大丈夫ですよ、こんなつまらないことで……」

「そりゃわからないわよ、どうなるか。どうこじつけられるかしれないもの」

「そんなことできませんよ」

「まあいいから、とにかく知らせてちょうだい。検事局は地方? 区?」

「地方だそうです」





 やがて茂木もそこに来た。

 野枝は大杉と茂木が自動車に乗るのを見送ってから、服部浜次の家に戻った。

 服部浜次の家の帳場の籐椅子に、野枝はがっかりしたような気持ちで腰を下ろした。

 野枝は十五日夜、十七日、十八日とかなり激しい心遣いをし、体も動かした。

 疲れ切っていた。

 野枝は黙って結果を待とうとも思ったが、この卑劣な告発へ言いようのない屈辱と憤怒を感じた。

 普通は犯罪になどなるはずがないが、警視庁は大杉を危険視して、大杉と世間との交渉を絶とうとしているのだ。

 起訴になるならないにかかわらず、まず未決にでも投じるというのは、現在の警視庁の処置としては無理のないことである。

 とうていこのまま帰されることはあるまい、公判の開かれるのを待つより仕方がないと野枝は思った。

 野枝は憤怒が湧き上がるばかりだったが、手をこまねいていても仕方がないので、山崎今朝弥弁護士のところ出かけようと思った。

 すると折よく、山崎が服部浜次の家にやって来た。

 野枝がひと通り話し終わると、黙って聞いていた山崎が言った。

「罪にならんということよりは、予審にでもかけられると心配だな。予審にかけて一年も二年も長引かしといて、予審免訴にでもされるとこんな馬鹿らしいことはないからな。まあ、第一の心配はそれだ」

 地方裁判所に持っていくほどのものではない小事件を地方の検事局に送ったとすれば、警視庁でもそのつもりなのだと、野枝は理解した。





 私はもうすべてを成行きにまかすよりしかたがないと思つた。

 何時如何なる場合に陥穽にかゝるかしれない。

 或はどんな場合に生命を断たれるかさへ分らない。

 その覚悟がなくて大きな権力を持つ政府に異端視される生活にどうして甘んじて行かれよう。

 ……公判廷ではすべてが明らかにされる事なのだ。

 また多少の頭のある人々に、此の卑劣な陥穽が見えない筈はない。

 私は留守をまもつて、他の同志と一緒に、此処まで漸く築き上げてきた運動の此の基礎をくづされないやうに出来る丈けの働きをしなければならない。

 あの高い煉瓦の塀の中に拘禁されて一年も、或は二年三年と世間との交渉をたゝれる事は辛らい事には違ひなかつた。

 しかし、私の信ずる彼は、どんな境遇にでも打ち克つ意志は完全に持つてゐる。

 彼はその拘禁された二年三年と云ふ長い月日の中の一日でも決して無為に過ごす事はないだらう。

 さうして彼は彼で、何かを体得して出て来る。

 さう考へると私はひとりでに微笑ずにはゐられなかつた。

 体さへ丈夫なら何んにも心配することはない。

 一つも案じる事はない。


(「拘禁される日の前後」/『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p94~95)





 四時ごろになって、茂木が帰って来たが、この人は大杉とはまるで違ったタイプの男だった。

 夕方になって同志の一団は横浜の集会に出かけて行った。

 七時近くなった。

 尾行からはなんの連絡もなかった。

 野枝は早く結果を知り、家に帰ってひと休みしたかった。

 魔子も病気のせいか、機嫌が悪い。

 八時、九時、十時……長い長い時が経過していった。

 十時を打つと、近藤憲二がたまりかねて検事局に向かった。

 また一時間が経過した。

 誰からもなんの連絡もない。

 十二時近くにようやく尾行が来た。

 まだ決まらないという。

 電車がなくなりそうだから、自分は警視庁の人に後を頼んで帰るという。

 そこに近藤憲二が帰って来た。

 大杉の尾行を帰すのだから、今夜、大杉が帰されることはないと野枝は判断した。

 検事局にはまだ同志がひとり待機していたので、野枝は近藤憲二に頼んで連れ帰ってきてもらうことにした。

 これでもうおおよそのことは決まったーー今夜はゆっくり休んで、あとはいろいろな後始末をすればいいのだ。

 野枝はホッとひと息ついて、初めて服部浜次の妻とくつろいだ笑顔を交わした。

 服部浜次の妻はいろいろ優しい言葉で慰めてくれたが、野枝にはもうすべての慰めの言葉は不必要だった。

 ほどなく近藤憲二が迎えに行ったはずの同志がひとりで帰ってきた。

「大杉君、帰って行きましたよ。無事です。ずいぶん待たせやがった」

「まあ、それやよござんしたね」

 服部浜次の妻がいかにも安心したような調子で言った。

「どうもとんだ御厄介になりました」

 野枝はその同志にまずお礼を言ってから、どうして大杉が一緒に帰ってこなかったのかを聞いた。

「もうあなたは家へ帰ったと思ったもんですから。それに送っていく刑事がバカに急いでいて、ちょっとここまで自動車を寄せてくれってのに、それをしないんです。僕もそこまで乗って来たんです。本当は家まで乗せてもらうつもりだったんですけれど、近藤くんがここで待っていると思ったもんだから、途中で降ろしてもらったんです」

 やがて、近藤憲二も帰って来た。

 三人が日比谷でやっと飛び乗った巣鴨行きの電車は、もう青い燈をともしていた。

 大杉は七月十五日に錦町署、七月十七日と十八日には築地署、七月十九日には警視庁に拘留されたのだが、野枝がこの間の顛末を書いたのが「拘禁される日の前後」である。

赤電



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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