2016年03月20日
第27回 日蓮の首
文●ツルシカズヒコ
門司港駅から博多に向かって汽車が動きだした。
登志子は右側の窓のところに座って外の方を向いたまま固くなっていた。
頭はほとんど働きを止めてしまった。
安子は野枝が持ってきた雑誌を、解かりもしないくせに広げて退屈しのぎに読んでいる。
まき子はわが家に帰っていく子供のように、はしゃいでいた。
まき子は野枝よりふたつ年上の二十歳だ。
父に甘やかされてわがままに育った彼女は、一人前の女として物を考えてみることなんてまるでなかった。
登志子と比べてもずっと幼稚だ。
朝夕同じ部屋にいて、同じ学校の同じクラスの机の前に座っているまき子のやることをひとつ残らず見ている登志子は、これが自分よりふたつ年上の従姉といわれる人かと情けない気がした。
登志子はこの従姉を軽蔑し切っていた。
彼女の父ーー自分にとっては叔父だがーーも少なからず軽蔑していた。
登志子の慧(さと)い眼は、叔父の本能的で盲目的な千代子に対する愛、登志子に対しては厳格な監督者のような威厳を示そうとしていることを、見抜いていた。
登志子は叔父の真面目くさった、道学者めいた口ぶりを心の中で嘲笑していた。
登志子は馬鹿にしきった相手と真剣に会話するつもりはなかった。
「今にーー」と彼女はいつも思った。
『今にーー自分で自分の生活が出来るやうになれば私は黙つてやしない。
私は大きな声で自分がいま黙つて侮蔑してゐる叔父等の生活を罵つてやる嘲笑してやる。
私は私で生活出来るやうになりさへすればあんな偽善はやらない。
少なくともあんな卑劣な根性は自分は持つてはゐない。ーー』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p86)
そうして叔父と声を大きくして争う日を待ちかまえていた。
実生活を豊かにするための悪賢い叔父の智慧と敏捷な挙動は最大の利器だ。
登志子はそれを知りながら、それを厭いながら、知らぬ間に彼女自身も叔父の周到に届いた誤魔化しに乗せられてしまった。
嫌な嫌なその叔父は、登志子たちより十五分も前に長崎から博多に着いているはずだ。
登志子は眉を上げホッと息をした。
汽車は走って行く。
いつもはこの汽車の中で聞く言葉の訛りがいかにも懐かしく快く響くのだが、今はそれでころではない。
野枝は顔を蒼くして窓に寄りかかっていた。
「ああ着いた着いた。もう箱崎だ、あと吉塚、博多だわね」
従姉は勢いよく立って荷物の始末を始めた。
登志子はいまさらのようにハッとした。
かまうものか仕方がない。
なるようにしかならないのだ。
登志子はこみ上げてくる涙をグッと呑み込んで、勢いよく立ち上がった。
汽車は見覚えのある松原を走っている。
松の上からは日蓮の首がニュッと出ている。
来たーー博多だーーついに、ついにーー。
地響きをさせて入ってきた汽車は、プラットフォームに沿って長々と着いた。
ピタリと汽車の動揺が止むと、激しい混乱が登志子の頭を瞬時に通り過ぎた。
従姉が大騒ぎして降りる後から、登志子は静かに下車した。
叔父がこっちに急いで来る。
続いて来る男の顔を見ると、登志子はブルブルっと震えた。
登志子はクルリと後ろを向いてあらぬ方を向いた。
「登志さん」
弾んだまき子の声に登志子は我に返り、手持ち無沙汰に立っている男ーー夫ーーに黙礼し、嫌な叔父に挨拶をすませた。
『うれしかるべき帰省――それが斯(か)くも自分に苦しいものとなつたのもみんな叔父の為めなのだ。叔父が斯(こ)うしたのだ。見もしらぬこの永田が私のすべての自由を握るのか――私を――私を――誰が許した。誰が許した。私はこの尊い自身をいともかるはずみにあんな見もしらぬ男の前に投げ出したことはない。私は自身をそれほど安価にみくびつてはゐない私は、私は――』
(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p88)
登志子は押し上げて来るすすり泣きを飲んで、ジッと突いた洋傘の先のあたりに目を落とした。
熱い涙がポツリポツリと眼鏡に当たっては、プラットホームの三和土(たたき)の上に落ちた。
「お登志さん、行きましょう」
安子の声を不意に聞いたときには、従姉は父と並んで二、三間先を階段の方に歩いていた。
まき子と叔父は手荷物の世話などを始めたので、登志子と安子と男の三人になった。
登志子は男の声を聞くのが、体が震えるほど嫌だった。
「ずいぶんお疲れになったでしょう」
登志子はハッとしたが、安子がそれに答えたのでホッとした。
もう幾日かすれば、あの男の家に行ってあの男と生活しなければならないーー登志子にはそんな不快なことがどうしてもできそうになかった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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