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2016年04月03日

第68回 枇杷の實







文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年四月初旬、辻潤と野枝は芝区芝片門前町の間借り住まいをやめ、染井の家での生活に戻った(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p190)。

 上山草人(かみやま・そうじん)の家を訪れた興奮の夜の後も、野枝は紅吉に三回ばかり会った。

 紅吉はあいかわらずらいてうの悪口を言ったが、あの夜ほど興奮してはいなかった。

 巽画会展覧会に出す下描きができたなどの話をした。

 このころ紅吉は根津神社に近い、本郷区根津西須賀町二番地の生田長江の借家の一室に寄寓して、屏風絵の制作に励んでいた。

 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(p129~133)によれば、長江が根津のこの家に引っ越したのは二年前の一九一一(明治四十四)年六月ごろだった。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を初めて日本語に翻訳した長江は、この家を「超人社」と称し、佐藤春夫と生田春月も寄寓していた。

 慶応義塾大学文学部の学生だった春夫が、お使いで出入りする紅吉の妹・尾竹福美(ふくみ)に片恋をしたのは前年、一九一二(大正元)年の秋、紅吉が長江邸に寄寓し始めたころだった。


 野枝の「雑音」によれば、紅吉が長江邸に住むようになったのは、一九一三(大正二)年一月に大森町森ヶ崎の富士川旅館で開かれた、青鞜社新年会から少し経ったころだった。

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 ……紅吉は前々から盛んに広告していたやうに愈々(いよいよ)生田長江さんのお宅に住むやうになつた。

 新しい室に紅吉を訪問した時、彼女は非常な誇りをもつて其処の日当りのいゝ縁側の方の障子をあけて見せた。

 其の室の前は一面の芝生になつてゐて坂の下の根津権現の森が直ぐ鼻の先きにあつて大変いゝ室でした。

「今迄は先生がゐらしたのだけれど態々(わざわざ)私の為に開けて下すつたんですよ」

 さう云つて紅吉は室の真中に座つて、右の手を腰のあたりに当てがつて何時もする様に、胸を張つて室を見まはした。

 室は奇麗に飾られてあつた。

 綺麗な装釘の書物が整然と書架に並べられ、彼女の所謂(いわゆる)「最も芸術的な玩具」が一杯飾られてあつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月8日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p76/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p164)


「綺麗な装釘」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では「綺麗な装幀」。





「平塚さんとのことが判然と決まったので落ち着けたのです。私は今、仏手柑(ぶっしゅかん)の絵にしようかと思っているんです。紅すずめの絵は見合わせにしました」

「あなたの気に入ったものを描いたらいいでしょう。絵と詩だけは、本当にあなたは立派なものができますよ」

「そうね、詩も自信がないではありません。ああ、このあいだ作った小唄を書いてあげましょうか。あなたは私の字も好きだって誉めてくれましたね」

 紅吉は眼を輝かせて、紙を出しペンを持って「道中」と気どった字で書いた。

 そして、ちょっと首を振って節をつけて吟(よ)みながら書いた。


 春のひくれの戻籠(もどりかご)
 
 めさせ召しませ、のぼりやんせ
 
 どつちもちがふた道ながら
 
 ゆれてゆられてのぼりやんせ

 春の暮方金花鳥の室で 

 K吉

 伊藤のえ様


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月27日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p125~126/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p191)






「これをあなたにあげましょう。〈ひくれ〉ってわかって? 夕方のことよ」

「あらそのくらい知ってるわ、ずいぶんね」

「でもわからないといけないから、聞いたのよ。あげましょう」

「そう、ありがとう。大事にしまっておくわ」

「ねえ、おじいさんの顔って実に難しいのよ。おじいさんと子供を描くつもりなんですけれど、たいへんに難しいんです」

「さっき、仏手柑を描くんだって言ったでしょう」

「ええ、まだ定(き)めやしないけど、三つばかり描こうと思うものがあるのよ」

「まあ、そう。ずいぶん気が多いのね」

「だって、できるだけ立派なものを描きたいでしょう。いよいよ描くようになると、生田先生が二階を提供して下さるはずになっているんです」

「私も期待してますよ。できるだけ大きなーーね、いいでしょう」

「ええ、なにとぞ。そのかわり絵が売れたらおごりますよ、どこでも」

「大丈夫ですとも」

 別れ際にすべて忘れ去ったかのように、紅吉は平気でこう言伝(ことづて)した。

「平塚さんによろしく」





「いよいよ描き始めました、見に来て下さい、本当に立派なものを描いてお目にかけます」という葉書が来てから、五、六日して野枝が訪ねると、紅吉は長江の家の二階の画室に案内してくれた。

 広い部屋にいっぱいに六枚屏風を拡げてもう彩色にかかっていた。

 紅吉が完成させた六曲屏風一双「枇杷の實」は、第十三回巽画会展覧会で褒状一等を受賞した。

 中山修一「富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」によれば、ジャーナリストや文化人が参加して、「枇杷の實」の総見が行なわれたのは四月一日だった。

「枇杷の實」は三百円で売れた。

 野枝は「枇杷の實」を見に行く機会を失ってしまったが、多くの人を集めての総見があったという話は方々から聞いた。

 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』には、こう記されている。


 …長江の身近で華やかな出来事があった。

 話題の主は、超人社に同居している尾竹紅吉。

 同年三月二十六日の「東京日日新聞」が、「巽画会への出品作『枇杷の実』完成」の見出しで報じている。
 
 一か月間、二階の部屋に閉じこもって打ち込んだ巽画会への出品作、六曲屏風一双「枇杷の実」が完成した。

 四月一日には、紅吉の知己たちが会場に乗り込んで総見をする。

 総見は、開闢以来の出来事なのだという。

 これは、派手好きな長江のアドバイスではなかろうか。


(荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』_p150~151)


 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』の「生田長江年譜」(p441)には、「四月一日、超人社に同居していた尾竹紅吉の屏風絵『枇杷の実』が第十三回巽画会で一等になったので、展覧会場の上野公園・竹ノ台陳列館に出かけて総見」とある。





 らいてうの円窓(まるまど)の部屋でも紅吉の絵の噂が出た。

 そこにいた二、三人はみな、おだてられてはしゃいでいる紅吉の姿を思い浮かべていた。

「思ったほどのできじゃないのね。人物がみななんだかふわふわしていて、ちっとも力がないんですもの」

 らいてうの口からもこんな批評が出た。

「総見なんて下らないことをやったもんですね」

「ああいう人を担ぎ上げるのはいけませんね。勝手に担ぎ上げて、またすぐ下ろすのですからね」

「あんまり騒ぐのは紅吉にとって可哀そうなことなんですね。コキ下ろされるときの紅吉のことを考えると堪らなくて」

「社が誤解されたのは、紅吉ひとりのためなんですがね、それでいてまた私たちのところへ来る人のような気がするし、来たら喜んで手をとりたい気がしますね」

「もう少し真面目になれば、立派なあの天分を伸ばすことができるんでしょうにね、おしいわ」

「絵だって本式にはいくらも稽古してないんでしょう、それであれくらいのものが描けるんですからね」

「詩だってなかなかいいのができるわ」

「だけど、説明には恐れ入るわね。このあいだもね、私の家に朝っぱらから来てね、小唄を作ったからって。それを書いて、さて、その説明よ。『ぬれて』って文句があったのよ。ちょいと『ぬれて』って文句どおりに雨に濡れるってことだけじゃないのよ、他にも意味があるのよって、わざわざお断りなの。まあ、それっぱかしのこと知らないでどうするもんですかって言ってやるとね、それだってもしわからないと、この小唄がみんな滅茶苦茶になってしまうからって澄ましているんですもの、ずいぶんだわ」





 哥津ちやんが可笑しさうに思ひ出し笑ひをするのでも皆も一どに笑つた。

 私も「春のひくれ」にきかされた説明を同じやうに思ひ出して笑つた。

「しかし、たまに描いた絵をあんまりよくもないのにあゝ持ち上げて他で騒いでは此先、紅吉にいゝ絵も詩もなか/\出来なくはないかしら」とは皆心配したことであつた。

 紅吉はもう早く、私達のサアクルからは離れた人であった。

 けれども私たちーー平塚さんを始め、小母さんでも哥津ちやんでも私でもーー皆紅吉の事と云ふと他事でなく気にしたり心配したり親身に思つたのであつた。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年3月27日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p130~131/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p194)



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(白水社・2013年2月10日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:08| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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