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2016年03月29日

第55回 メイゾン鴻之巣






文●ツルシカズヒコ


 一九一二(大正元)年十二月二十五日、クリスマスのこの日は『青鞜』新年号の校正の最後の日だった。

 帰りにどこかで忘年会をしようと、らいてうが言い出した。

  文祥堂の校正室にはらいてう、紅吉、哥津、野枝、岩野清子、西村陽吉がいた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、京橋区新栄町にあった東雲堂が発行する出版物は、築地にある文祥堂で刷っていた。

 らいてうの記憶では校正室は二階の明るい畳の部屋だった。

 六人は日暮れごろに文祥堂を出て、八丁堀を抜けて小網町のメイゾン鴻之巣へ行くことになった。

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 らいてうと西村のことは、らいてうの身辺に終始、目を光らせている紅吉が感づかないわけにはいかなかった。

 紅吉は昼間からイライラしていて、マントのポケットからウイスキーの瓶を出しては呷(あお)っていた。

 紅吉は青い陰のある不快な顔をしながら歩いていた。

 哥津も沈んだ顔をしながら前屈みに野枝と一緒にみんなから遅れて歩いた。

 茅場町のあたりに来たとき、先を歩いていたらいてうが野枝たちを待っていて、荒木と中野に電報を打って呼ぼうと言った。

 野枝と哥津は鎧橋を渡ると、鴻之巣に入る人たちと別れて、明るい通りを郵便局を探しながら歩いた。

「西村さんはなぜ来たのでしょうね」

 哥津がふとそんなことを野枝に言った。

「岩野さんが不快に思ってなさるでしょうね。一緒になんか来なきゃいいのに」

 ちょうどそのとき、岩野泡鳴と東雲堂との間で版権のことかなにかで、揉めていた。

 清子は東雲堂の不当な処置について始終、憤慨していたので、野枝は忘年会の席でその話が出たらマズイと思っていた。

 哥津もそのことを気遣っているのである。

 ふたりはようやく郵便局を探し出して、電報を打って小網町の方に戻って来た。






 この日は昼間から、哥津も紅吉も不快感に襲われているのは野枝にもわかっていた。

 神経衰弱気味だという哥津の横顔が沈んでさびしかった。

 鎧橋の停留所で哥津は、このまま帰ると言い出した。

「今夜はなんだがつまらないから、平塚さんにそう言ってちょうだいな」

「じゃ、私も一緒に帰るわ、そんなにおもしろいこともないから」

「あなたはいらっしゃいよ、みんな待っていてよ」

「じゃ、あなたもいらっしゃいよ、帰るんなら一度行ってからだっていいじゃありませんか。ね、一緒に行きましょうよ、いらっしゃいよ」

 野枝は無理やりに哥津の手を引っ張って鴻之巣に入った。

 みんなは往来に向いた方の二階にいた。

「哥津ちゃん、いやに沈んでいるじゃありませんか、どうしたの?」

 らいてうも清子も浮かない顔をしている哥津を気にして聞いた。

「いいえ、何でもないのよ」

 哥津は申し訳ばかり微笑むと、暗い顔に戻り、窓に腰かけてカーテンをいじったりしている。

 紅吉は哥津と向かい合わせに、らいてうと清子に挟まれて座っている。

 料理が運ばれ、みんなにいくぶんお酒がまわってくると、場は少し賑やかになった。





 一時間ほどして、荒木が晴れやか笑顔をかしげて入って来た。

 ようやく人並みにおしゃべりを始めたらいてうが嬉しそうに笑った。

 紅吉も荒木の顔を見ると元気になった。

 紅吉は青い顔をして神経の尖った目を落ち着きなく一座に漂しながら、自棄(やけ)に盃を重ねていたが、ウイスキーが飲みたいと、ポケットのもなくなったのか、ウエイトレスに注文して荒木の隣りに座を移した。

「荒木さん、忘年会だから本当に年忘れするほどお飲みなさい、私も飲むわ」

 ほろ酔い加減になってきたらしいらいてうも、ようやく普段の姿を崩し、荒木に盃をすすめた。

 紅吉が泣き出しそうな顔をして眼にだけは強く力を入れて、ジッとらいてうを見つめていた。

 野枝は紅吉が可哀そうになり、立ち上がって窓の外の物干台に出た。

 熱(ほて)った頬に冷たい冬の夜気があたって、なんとも言えない好い心持ちでそこに佇んだ。

 哥津もやってきた。

「好い気持ちね」

 ふたりはそう言って、星の空を見上げた。

「紅吉が可哀そうで仕方がないわ。平塚さん、もう少しどうにかしてやってくれるといいのにね」

 哥津はそう言って部屋の中を見下ろして、

「私もう帰りたいわ」

 としみじみ言った。

「帰りましょうか、ふたりで」

「ええ」





 哥津と野枝が座敷に戻ると、清子が横になっていた。

 すっかり酔ったらいてうが、清子を起こそうとした。

「起きなさいよ、岩野さん、どうしたんです」

「どうもしないけれど、酔ったんですよ。平塚さん、送って下さいよ、私の家まで」

「あなたのお家、目黒まで? 私の帰りにまた送って下さる?」

「だってそんなことしていれば、夜が明けてしまうじゃありませんか。お泊まんなさいな、いっそ私の家にいらっしゃいよ」

「あなたのお家のどこにおいて下さるの?」

「私の三畳の部屋を明け渡すわ」

「そうですか、それで岩野、平塚と軒燈を出すんですか」

「ええ、ええ、そうですよ」

 野枝は思わず笑った。

 清子が泡鳴とまだ夫婦関係ではなかったころ、遠藤、岩野と軒燈にふたりの姓を出していたという話をしたことがあり、らいてうはそれを言ったのだ。

「平塚さん、本当に仲よしになりましょうよ、私の家にいらっしゃいな。お手を出してごらんなさい」

 清子の指から、らいてうの指に無造作に細い綺麗な指環が移された。

 普段が普段だけに、ふたりして子供のような無邪気な可愛い対話をするのを、野枝は不思議な心持ちで眺めた。



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





posted by kazuhikotsurushi2 at 13:54| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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