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2016年03月29日

第54回 西村陽吉






文●ツルシカズヒコ




 一九一二(大正元)年十二月、『青鞜』新年号の編集作業が佳境になったころ、野枝は一日おきくらいにらいてうの円窓の部屋に通っていた。

 しばらく、野枝は紅吉とは遭遇しなかった。

 行くたびに哥津ちゃんと会った。

 野枝は少しずつ青鞜社の仲間に交じっても、落ちついて対応できる余裕を持てるようになってきた。

 野枝にとってそれまで自分の周りには見出すことができなかった、自由で束縛のないその人たちの生活に、最初は驚きとまどったが、じょじょに引き込まれていくのが自分でもわかった。

 初めのころは野枝はたいていみんなの話を聞いている側だった。

 野枝には何を読んでも、みんなの仲間に入ってそれを批評する力はなかった。

 読んだものや書いたものをみんなで自由に批評したりするのを、野枝はうらやましいと思いながら聞いていた。

 野枝にとって、哥津ちゃんはただわけもなく好きなところのある人だった。

 らいてうと哥津にはさまれて話をしているとき、それは野枝にとって本当に気持ちのいいときだった。

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 そのころ「哥津ちゃんの江戸趣味」と「哥津ちゃんのロマンス」が、みんなの口に少しずつ上ってきた。

 ロマンスの相手は東雲堂の若主人、西村陽吉だった。

 ふたりはどこかで落ち会っては、向島など下町を歩きまわった。

 ふたりとも子供の時分の懐かしい思い出の多くを浅草あたりに持っているので、歩きながらその思い出を話し合ったりして喜んでいたらしい。

 野枝たちはふたりの関係の進展を熱心に見守っていた。

 しかし、語り合う思い出もおおかた語りつくし、歩きまわる場所も新しく探さなくてはならなくなるころ、ふたりの関係は淡いものになってしまった。

 それはふたりが悧巧で用心深い性格だからということもあるが、他の理由もなくはないと、野枝は思った。

 らいてうも初めはやはり微笑みながらふたりを見守っていたが、何事も究極まで突き詰めて考えないと満足できないらいてうは、ふたりの煮え切らない態度が焦れったくなってきたらしかった。

 実際、野枝にもふたりの関係が真剣なのか遊戯なのよくかわからない、不思議な関係に思えた。





「哥津ちゃんも西村さんも、ふたりとも悧巧であんまり周囲が見えすぎるから駄目なのね」

 らいてうが、しょうがないというような笑顔をして野枝に言った。

「ふたりとも石橋を叩いて渡る人だからね、真剣にはなれないわ」

 そんなことも言った。

「哥津ちゃんはなかなか話さないのね。でもやはり黙っちゃいられないと見えて、あっちこっち歩いて来て、あとであすこはいいわねっていうようなことを言うから、西村さんと行ったんでしょうと言うと、ええなんて笑っているのですものね。でも本気なのかなんだか私にはわからないわ。でも中野さんには話すのね。中野さんが私のところへ相談に来たのよ」

 青鞜社の発起人である中野初木内錠子、そして哥津も仏英和高等女学校で学んでいたので、中野と哥津は親しかった。

「そう、中野さんが何を?」

「哥津ちゃんのことをね、もしふたりが承知ならお仲人をしようっての」

「まあ」

「中野さんはかなり世話好きだし、それにそういうふうに実際的に頭の働く人だから、本気になって私のところに相談に来たわけなの」

「へえ、そしてどうしました」

「東雲堂には娘さんがいるんですって。西村さんは養子だから、その娘さんは西村さんのお嫁さんになる人じゃないかって心配して、私に聞きにきたのよ。私もそれはわからないって言ったけど、中野さんは大真面目で来たのよ」

「そうなんですか、だけどずいぶん親切な方なんですね」

「ええ、まったくそういうことは真面目になる人よ」





 野枝は哥津と西村に自分にはない、都会に育った人が持つ細やかな自制心のようなものを感じ取った。

 ふたりは自分のこと、相手のこと、周囲のことが隅々まで見えすぎて、あるところまでは進みながら、それより先に歩き出すことができないのである。

 文祥堂で『青鞜』新年号の校正をしているときだった。

 校正紙が出るまでの待ち時間に、野枝と哥津は晩秋の静かな昼下がり、築地本願寺のあたりを歩きながらしみじみと語り合った。

「私には勇気がないのよ。扉の前まで行ってそれに突き当たると、それを自分の手で開けて先に進み入るだけのね。私には駄目よ」

「だけど、それであなたは満足していられて?」

「いいえ、そりゃ私にも、一度は通らなければならない道だということもわかるの。だけどね、やはり臆病なのね。さびしいけれど諦めるより他に仕方がないわ」

「弱いことじゃないの。扉というものは本当にぶつかれば、ひとりでに開くくらいのものだわ。あなたはあまりに考えすぎるのじゃなくって。もっと真剣におなんなさい」

「これで私かなり真剣なのよ。あなたたちにはずいぶん煮え切らないように見えるでしょうね、自分でもわかるわ。だけど、これが私の性格なんだから、私、一生なににぶつかっても諦めてしまう方かもしれないわ」

「あなたの気持ちがわからないこともないけど、でもなんだか物足らないわねえ」





 そのころ、哥津と西村の仲はすっかり冷めてしまっていた。

 野枝は哥津ちゃんのなにもかも諦めたような顔を見ながら、なぜか涙ぐんだ。

 哥津と西村は少しも無理のないように、なだらかに少しずつ方向を違えて遠ざかっていった。

 本当にどこまでも悧巧な人たちだった。

 都会人だった。

 しかし、野枝はふたりの関係がはかなく終わったのは、ただそれだけの理由ではないとも思った。

 哥津ちゃんとの仲が思うようにいってなかった西村は、その悩ましい気持ちをどこかに漏らさずにはいられなかった。

 そして、西村は人の悪い悪戯好きのらいてうにあるとき、冷やかし半分で哥津のことを聞かれて、素直に話してしまった。

 そして幾度も幾度もらいてうに愚痴を並べているうちに、西村はらいてうにある感情を持つようになり、だんだんらいてうに向かって動き出した。

 野枝もふたりの間である交渉が始まっていると思われるようなことを、らいてう本人の口から聞いたとき、野枝の頭はすっかり混乱してしまった。

 西村さんもどうかしていると思うが、特に敬愛するらいてうの気持ちが、野枝には理解不能だった。

 らいてうは野枝にも哥津ちゃんにも、十分な理解と同情を持って接してくれている。

 哥津ちゃんと西村のことについても、よき理解者であるようにしか見えない。

 哥津ちゃんにはお母さんがいないが、そういう家庭の事情までらいてうは真面目に心配していた。

「そんな平塚さんなのに……なぜ? 平塚さんは本気で西村さんを相手にしているのかしら、それとも冗談なのかしら?」





 野枝は毎日のようにそれを考えた。

 ーー平塚さんが西村さんのことを本当に好きになったのなら、それは実に致し方のないことだ。しかし、あれだけの優れた理智を持った平塚さんが、哥津ちゃんと西村さんの関係を壊してまで、西村さんに愛を持っているとはどうしても思えない。

 曙町の平塚さんの部屋を訪ねたとき、哥津ちゃんが西村さんに書いた手紙が平塚さんの手元にあることを知った。
 
 私は西村さんに憤りを覚えずにはいられなかった。

 そしてそのとき、私は平塚さんの態度が人の悪い遊戯的なものであることがはっきりわかった。

 私は哥津ちゃんの態度にも不満はあるが、哥津ちゃんは西村さんのことを真実思っていることはいつでもはっきりしていた。

 平塚さんの気まぐれは仕方のないことだとしても、西村さんの態度はまったく腹立たしい。

 平塚さんはふたりを見守っているうちに、あまりに煮え切らないので一種の遊戯的衝動に駆られて、西村さんをからかい始めたらしい。

 聡明な西村さんがそれに気がつかないはずはないのに、そして哥津ちゃんとのことがまだ片づいてもいないのに、本当に腹立たしいーー。



平塚らいてう1 ※平塚らいてう2 

西村陽吉2 西村陽吉3



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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