2016年04月15日
第85回 木村様
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十七日の朝、野枝が目覚めて一番最初に頭に浮かんだのは、そろそろ来るだろう荘太からの手紙だった。
締めつけられるような苦しい気持ちで、床の中から出た。
辻が出かけて二十分とたたないうちに、その手紙が投げ込まれた。
御手紙只今拝見しました。
元より予想してゐた事です。
併し何にも悪い事はありません。
あなたにも私にもちつとも悪い事はありません。
あなたが過日の会合の日にあの事を話さなかつたのが悪かつたと言つて御自身を責められるなら、私も同じく先づ第一にその事を伺はなかつた自分をもまた責めなければなりません。
(前便小林さんのゐた事が悪かつたと書いたのはその事です)
私は自らこの事を自分自身に責めません。
あなたも御自身に、どうか御責めにならずに下さい。
恐らくこの事のために私は打撃を受けるでせう。
今もう既に受けてゐます。
けれども私は育ちます。
心に涙を一ぱいためて育ちます。
私はあなたを激動させて済みませんでした。
けれど云ひます。
私は今自分の取る行動は凡て肯定しやうとします。
大胆に肯定します。
自分の為めによいのは勿論他人のためにもまた善い事になるのを大胆に信じます。
あなたは参つてはいけません。
ぐん/″\進まねばいけません。
あなたが私の手紙をその方にお見せ下すつたのを私は非常に喜びます。
どうかその後の一切の経過もすつかりお話しなすつて下さい。
私のあなたに対する愛は更にこの後育つか途中で枯れるか、それとも他の愛に処をゆづつて退くか何とも自分には今解りません。
御手紙には友達として云々とありましたけれど私は自分が今のこの心の激動をたゝえたままにあなたとその方に御会ひする事は少くとも御互ひの幸福に資する道ではないように思ひますから暫く離れて居やうと思ひます。
若しも静かに幸福に鼎座してお会ひが出来るようになつたら無論喜んで進んでその事をお願ひしようと思ひます。
若しも此の上あなたに御会ひして見て私のラヴが消し得ず助長するやうになつたら大変です。
この事はどうぞ誤解をなさらずに下さい。
私は今その方に非常にいゝ感じを持つてゐます。
もう後はたゞ自分自身の事のみで何もあなたにお話しするべき事は無いやうに思ひます。
若しも今あなたの心に少しでも傷がついたらその傷を癒す力はその方の手中にあります。
あなたの幸福が其処にあります。
あなたの幸福を祈ります。
−−廿六日午後お手紙を拝見してすぐ−−
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p205~207/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p49~50)
読み終えた野枝は、まあよかったと思わずにはいられなかった。
そして、やはり自分にも荘太に対する恋があったかもしれない、いやきっとあったのだと思うと、野枝は情けない気がした。
このまま別れるのが最上の方法であると頭ではわかっているが、野枝はどうしてももう一度会って、自分自身の得心のいく解決をつけたいと思った。
二十三日に荘太に会ってからの動揺を思うと、野枝は腹立たしいような馬鹿らしいような気がした。
荘太という男はなんという独り合点なんだろうとも思えてきた。
しかし、動揺しているということは、自分にも弱いところがあるからだと誰かに指摘されるような気もする。
野枝は苦しくなって、いきなり筆を執って書き始めた。
昨日文祥堂からあの手紙を出しましてから私は一寸の間も静かな落ち附いた気持でゐる事が出来ませんでした。
いま拝見しました手紙をどんな恐ろしい不安に駆られて待ちましたでせう。
木村様、私はもうあれ以上に申あぐる何物をも持ちません。
この手紙を拝見しては何にも申あげられません、けれども私は何だかたゞだまつてゐられないやうな気が致します、けれども私は今何を申あげやうとしてゐるのでせう自分でも何だか分りません、御許し下さいまし。
私はこのまゝあなたと離れて行く事が非常に哀しく思はれます。
私はあなたにおあいしてからすつかり平静を破られてしまひました。
私はいま一人でぢつとしてゐられません。
私はあなたにどうしてももう一度お会ひしたいと思ひます。
激した私の今の心は何にもお話なんか出来ないかもしれませんけれどもどうしてもお目に懸り度く思ひます。
でもそれがあなたに更らに打撃を加へるもので御座いましたらあきらめて自然の機会をまちます。
あゝ私は今あなたに何を申あげやうとするのでせう。
私は自分が分らなくなりました。
矢張り私が悪かつたのです。
本当に何卒お許し下さいまし。
昨日麹町までまゐりましたからお目に懸り度いと思ひましたけれどもあの辺は不案内でちつとも分りません−−それに丁度あの手紙がお手許に届いたと思はれる時でしたから私は直ぐにかへつてまゐりました。
何だかちつとも落ちつけませんので何を書いてゐるのやら自分でも分りません。
何卒よろしく御推読下さいまし、私はもう苦しくてたまりません、もしもう一度お目にかかる事が出来れば少しはしづめる事が出来るかと思ひます。
乱筆御許し下さいまし。
−−廿七日−−
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p208~210/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p51~52)
書いてしまうと、野枝は急いで封筒の中に入れてすぐに投函した。
お昼のご飯まで、野枝は自分の気持ちが何だかわからなかった。
お昼をたべてから、横になって四時ごろまで眠った。
目が覚めると、野枝は先刻書いた手紙を辻に見せるべきだったと思い、辻の気に障らないように話すにはどうしたらよいかを思案した。
一昨日に書いた二通めの返事も見せていないから、そのことも話さなければならない……辻はきっと自分を責めるだろう……野枝はたいへんな罪を犯してしまったような気持ちになった。
六時ごろ辻が帰ってきた。
野枝は荘太からの手紙を辻に見せた。
辻がそれを読み終えてから、返事を出した話をしようと思ったが、いざ口に出そうとすると胸がドキッと詰まってしまった。
何を書いたと訊かれてもちょっと言えないし、ああ見せてからにすればよかった……野枝はいく度もそう思ううちに機会を失した。
仕方がないから、あの手紙の返事が来てから話すことにして野枝は自分を納得させた。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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