2016年05月12日
第164回 三面記事
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』七月号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。
●……それで前号にも申しましたやうに八月は一月やすみまして九月の紀念号からしつかりしたものを出したいと思ひます。それで九月号には堕胎避妊についてのお考へを成るべく多数の方から伺ひたう御座います……何卒読者諸姉のまじめなお考へを伺ひたいと思ひます。
●私は七月中旬迄には一度九州の実家へかへらうと思つてゐます。
九月号の原稿は七月十日過ぎならば左の所あてにお願ひいたします。 福岡県糸島郡今宿村 伊藤野枝
●……廿日頃まではいろ/\な印刷所をかへたりする用事で原稿がかけないで廿日すぎてからは毎日のやうに気分がわるかつたり何かしてすつかりおくらして仕舞ひましたので何も書けませんでした。……九月にはどうかしていゝ雑誌を出したいと思つてゐます。
●平塚明(はる)氏は四ツ谷南伊賀町四一にお越しになりました。
●大杉栄氏は小石川区水道端二ノ十六に仏蘭西(フランス)文学研究会をおいて毎週土曜日の夜高等科では一回読み切りの小説脚本、講演等を講義し猶別に初等科をおいて仏語を初歩から教授なさるさうです。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p247~248)
野枝は『新公論』七月号では「三面記事評論」欄で新聞の三面記事の評論をやっている。
『大阪朝日新聞』の三面にこんな記事が載った。
大阪市内の某校の女教師は母と一緒に住んでいたが、そのうち養子を迎え結婚した。
しかし、夫婦仲がうまくいかず、争いが絶えなかった。
ある日の午後七時ごろに買い物に出かけ、十時ごろ帰宅すると、外出の時間が長いと夫に小言を言われ、大喧嘩になった。
翌日もその続きがあり、結局、女教師は二階に上がって縊死した。
野枝はこんな感想を書いた。
実に下らない事に死んだものだとしか私には思はれない。
始終そんなに争つてばかしゐたのなら何故に離縁でも何でもしないのだらう何も死ななくてもよさそうなものだと思はれる。
三面記事としてはつまらない記事だ。
こんなつまらない記事を女教師の縊死だなどゝ大げさに書くことはあんまり気のきいたことでもない。
一体私は新聞紙の報道を信じることがどうしても出来ない。
三面の一寸(ちょっと)した報道にもはやく報道すると云ふ方にばかりかたむいて、真実を報じやうと云ふ堅実な考へはまるでないやうに思はれる。
(「女教員の縊死」/『新公論』1915年7月号・第30巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p253)
七月十一日、野枝は山田邦子に手紙を書いた。
宛先は「東京代々木」、発信地は「小石川区指ケ谷町 青鞜社」。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「書簡 山田邦子宛」解題によれば、山田は『女子文壇』の投稿家として活躍していたが、文学への希望を父に反対されたため『女子文壇』の編集者の河井酔茗を頼って家出し中央新聞社に入社。
同社の記者の今井健彦と結婚して退職したが、この年(一九一五年)は『青鞜』にも多くの作品を発表していた。
野枝は九月に出す『青鞜』四周年紀念号の原稿を依頼した後に、山田に愚痴をこぼしている。
私は今の処、本当に友だちといつてはないのです。
平塚(らいてう)さんも遠くに行つて越して仕舞ひましたし、ろくに手紙も来ませんし書きません。
あの方は本当に立派な方ですけれど、あの方にいつまでも優越感をもたせてゐなくてはおつき合ひの出来ない方です。
……私も子供が出来てエゴイステイツクになつたと非難されて遠ざけられて居ります。
……私はあの方に私の手を引かれて育てられたことは決して何時になつても忘れませんし、たつた一人の私の近しいたよりになる人と思つてゐましたのですけれど、そんな風です。
私は本当につらひのですけれど、これも自分のゆくべき道ならば仕方がないのです。
……一度私の仕事として引きうけた雑誌をなげ出して仕舞うことは出来ません。
……つまらないぐちを思はず書いてしまひました。
何卒おゆるし下さい。
(「書簡 山田邦子宛」/安成二郎編『大杉栄随筆集』明治大正随筆選集11・人文出版部・1927年/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p256)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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