2016年03月24日
第45回 雷鳴
文●ツルシカズヒコ
西村と奥村が南湖院を訪れてから二、三日すると、写生の帰りだといって画材を持った奥村が突然、らいてうの宿を訪ねて来た。
描き上がったばかりの「南郷」という松林のスケッチを見せてもらったらいてうは、ふと『青鞜』一周年記念号の表紙を奥村に描いてもらいたいと思い、さっそく依頼した。
それから二、三日した日の夕方、奥村が表紙絵の図案を持って来た。
その夜、らいてう、奥村、保持、紅吉は馬入川(ばにゅうがわ)の河口の柳島から小舟を出した。
棹をさばいたのは、後に保持の夫になる結核回復期の小野という元気な青年だった。
月夜だった。
馬入川の船遊びは五人に時を忘れさせた。
藤沢に帰る汽車に乗り遅れた奥村が、保持が寝起きしている南湖院の松林の奥にぽつんと立っている、古びた藁屋の小屋のような一軒家に泊まることになった。
保持は病院の誰かの部屋に、紅吉は自分の病室へ、らいてうは自分の宿である漁師の家へ、それぞれ引き上げた。
みんなが寝床についたころ、遠雷が聞こえた。
瞬く間に激しい雷鳴となり、闇に稲妻が閃めいた。
らいてうは病院の死亡室のそばにある、不気味な一軒家に泊まっている奥村のことが心配になった。
宿のおかみさんに提灯を持ってつき添ってもらい、松林を切り裂く稲妻の中を奥村を迎えに行った。
奥村をらいてうの部屋に泊めることにして、ふたりは提灯持ちのおかみさんの後について松林の中を抜け、ようやく病院の裏門を出た。
強烈な光の一閃と雷鳴の一撃を全身に受けた瞬間、らいてうは奥村の体でかたく包まれていた。
「落ちた!」
先に駆け出したおかみさんに続いて、ふたりは甘藷畑を踏み越え、大粒の雨の中を宿まで走り続けた。
ふたりは宿から粗い滝縞のお揃いの浴衣を借りた。
漁師の大漁祝いの浴衣だった。
長身の奥村には裄(ゆき)も丈もつんつるてんで、子供のようにあどけなく見えた。
女ひとりの部屋に連れてこられた奥村は戸惑ってはいたが、悪びれるふうでもなく、らいてうはなんとなく好もしいものに思った。
大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べた。
部屋の闇を切り裂く稲妻の光りが、ようやく間遠になってゆくとき、わたくしはこちらから隣りの寝床の方に静かに手をさしのべて、彼の熱い血潮にふれたいような衝動を抑えかねたほどでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)
しばしまどろんだふたりは、東の空が明るくなりだしたころ、海岸に出た。
……指をからませながら二人寄りそって、人影はもとより、足あとの一つも残っていない広々とした浜辺を歩くとき、わたしの心は水平線のかなたまで無限にひろがって、満ちあふれる生命の幸福感でいっぱいになっていました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)
と、らいてうはこの一夜を記しているが、奥村はこう回想している。
灯を消した昭子の部屋のま新しく匂う緑の蚊帳のうちに、遠のく雷鳴を聞くともなく、ふたりの心もいつか和み、話も途絶えたひととき……うとうととする浩の手に何か触れたかと思うと、引き寄せられて闇に燃える焔の花びらは彼の唇に火を移した。
……と、みるみる彼の血潮はみなぎり溢れて快いヴィブラァションが全細胞をたぎりたたせた。
蘭の花を思わせるひとの匂に彼は息づまり、愉悦の嵐に身を巻きこまれて危うく濁流に押し流されそうである。
しかし……。
ーーそれを享受するには浩は余り純真であり、歓ぶには何か怖ろしかった。
ーー肉体と精神の不協和音(ストナンテ/※筆者註 stonanteはイタリア語の不協和音)の悩み!
ついに彼はこのとき逃れて元に戻ってしまった……。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_P44)
「昭子」はらいてう、「浩」は奥村のことである。
茅ケ崎に泊まった夜のことを想い、奥村は心が動乱したという。
夏の海辺の気やすさか、昭子に初めて遇ってからものの七日と経たぬ日の事である。
人を疑うことを知らぬ彼も、相手の真意を測りかねて苦しんだ。
心は強く惹かれながらもその判断にひとり迷い悩んだ。
しかし、昭子のあの燿いた眼を思うとき浩にいっさいが消え失せた。
それほど偽りのない眼である。
ーー(本気になると女は大胆になるんだろうか、やっぱり、ああするよりほかに愛し方はないのかしら? ああ、またあの人に会いたい!)
彼は今にして女性に秘められた愛情の一端を覗いたように思った。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p45)
らいてうは触れていないが、どうやら海禅寺の中原秀岳の唇を奪ったように、彼女は突然,
奥村に接吻をしたようだ。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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