2016年03月24日
第44回 運命序曲
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p381)と奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p31~32)によれば、一九一二(大正元)年八月の半ばを過ぎた日のことである。
この日の午前中、奥村博は実家から一キロの距離にある東海道線・藤沢駅に出かけた。
父親の知り合いから荷物を受け取るためである。
骨太で長身、真っ黒な長髪を真ん中からわけた面長の奥村が、一、二等待合室で上り列車が入ってくるのを待っていると、向かいの席に座っている男が手にしている雑誌の『朱樂(ざんぼあ)』という表紙文字が目に入った。
『朱樂』は北原白秋が主宰する詩歌雑誌で、自分よりも若そうな男が手にしているのは、その最新号だった。
奥村は見たくてたまらなくなり、男に声をかけて見せてもらった。
奥村は自分は洋画修業中の画学生であり、詩歌にも興味があり前田夕暮が創刊した『詩歌』の同人であると言った。
『朱樂』を手にしていた西村陽吉は、自分も歌作をしていると語った。
まもなく黒い煙をはいた上り列車がホームに滑り込んできた。
奥村の父の知人が客車から素早くホームに下りて来て、奥村に紙包みを渡し、あわただしくまた客車に乗り込んだ。
まだ朝飯をすませていなかった西村と奥村は、近くの料理屋で朝食には似合わない鰻丼を食べた。
ふたりは打ち解けた会話を交わし、奥村は自分より年下の西村が、前田夕暮の歌集『収穫』を刊行し『朱樂』の版元でもある、東雲堂の若主人であることを知った。
「これから茅ヶ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ご一緒にどうです?」
という西村の誘いに、奥村は道案内をかねて同行することにした。
日本橋の東雲堂書店は、この年の春に逝った石川啄木の第一歌集『一握の砂』や第二歌集『悲しき玩具』、あるいは北原白秋の処女詩集『邪宗門』などを刊行し、当時、新しい才能を発掘する文芸・評論関係の出版社として名が通っていた。
この日、西村が南湖院を訪れたのは、創刊一周年記念号から『青鞜』の発行・発売など経営に関する事務を東雲堂が引き受けることになり、その最終打ち合わせをするためだった。
『青鞜』と西村の間を取り持ったのは、かねてから西村と知り合いだった紅吉である。
『青鞜』創刊号の部数は千部だったが、結果的に東雲堂との提携は功を奏し、最大三千部まで部数が伸びた。
西村と奥村が南湖院に着いたのは、十時をたいぶ過ぎたころだった。
ふたりはなんの装飾もないがらんとした、休日の病院の応接室に通された。
テーブルにはらいてう、保持、紅吉の三人が並んで座っていた。
奥村は三人の中のひとり、らいてうと視線が合った刹那、そのまま視線がそこに釘づけにされた。
らいてうもジーッと鋭い視線を固定させたままだった。
奥村の自己紹介がすむと、青鞜社の社員と西村の話し合いが始まったが、奥村はまったく口を挟まなかった。
らいてうの奥村の第一印象は、こうだった。
といって悪びれた態度はみじんもなく、黙ってみんなの話に耳を傾ける顔の表情の、軽くつまんだような上唇のあたりに漂う、あどけないほどの純良さが、わたくしにはひと目で好もしいものに思われました。
しかし、身のこなしに品のあるこの画家らしい青年の、テーブルの上におかれた大きな白い手を見ると、長い指に黒々とした毛が生えていて、それが、ひどく奇妙なものに眺められました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p383)
奥村はらいてうの第一印象をこう書いている。
これまで見たこともない無造作の、真中から二つに分け、三つ組に編んで襟元で束ねた髪に結い、思いきって荒い滝縞の浴衣に薄はなだ色のカシミヤの袴をはいた、すっきりした広岡の姿が彼の心を捕え離れなかった。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p34)
「広岡」はらいてうである。
奥村は夏休みで藤沢の実家に帰省中なので、今度は画材を持って近々来ると言って、西村を残し先に帰った。
「またいらっしゃい、絵を描きにね」
保持と紅吉が大きな声で送り出した。
後に奥村は、らいてうにこう述懐したという。
最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーー
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)
らいてうにも未体験の感情がわき起こった。
わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)
ふたりとも互いに激しいひと目惚れをしたのだが、ふたりはそれを誰かに口外したわけではない。
しかし、らいてうを独占したい紅吉の鋭い勘が、彼女を迅速な行動に走らせた。
らいてうと奥村が初めて出会った、その日の夜か、その翌朝、紅吉が奥村に宛てて手紙を出したのである。
不吉の予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、そして気遣はしいことに今ぶつかっているのです。
それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。
そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。
だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。
広岡がぜひあなたに来るようにと、そして泊りがけです。
待っています、いらっしゃいまし。
八月十九日 しげり
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p35)
「しげり」は紅吉のことである。
奥村博史(博から博史に改名)の自伝小説『めぐりあい 運命序曲』が刊行されたのは一九五六(昭和三十一)年九月だが、紅吉が奥村に手紙を出したことをらいてうが知ったのは、奥村がこの自伝を書いたときだという。
手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p385)
紅吉からこの手紙を受け取った奥村は、「ぜひあなたが来るようにと、そして泊りがけです。待っています。いらっしゃいまし」以外は、なんのことなのかさっぱりわからなかった。
堀場清子『青鞜の時代』は、このらいてうと奥村の運命的な出会いの日を八月「十八日の日曜日であろう」と断定・推測している。
しげり(紅吉)が奥村に宛てた手紙の日付けが八月十九日であること、『青鞜』九月号の紅吉「南湖便り」の日付けが「八、二六」であること、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p384)に西村と奥村が「なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接室」に通されたとあることなどからの断定・推測である。
とすると、らいてうが茅ケ崎に来たのが八月十七日だったのは、翌日の西村との打ち合わせに備えて、前日に茅ケ崎入りしたことになり、いろいろと辻褄が合うのである。
※東雲堂の西村陽吉と孫娘西村亜希子
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image