2016年05月03日
第133回 タイプライター
文●ツルシカズヒコ
野枝が『青鞜』の同人のひとりである山田わかを訪ねたとき、山田嘉吉がわか夫人のために、社会学の書物を読む計画があるから勉強する気ならと誘われ、野枝は毎週二回くらいずつ通うことにした。
ウォードの書物を入手するのは困難なので、嘉吉は毎週読む予定の分のページをわざわざタイプライターで打たせて送ってくれた。
野枝はその親切を本当に心から感謝しながら、少しでもそうした勉強の機会を外ずさないように心がけていた。
しかし、辻の家族は野枝が家の外に仕事を持ったことに、いい顔はしなかった。
一(まこと)の世話は、渡辺政太郎、若林八代(やよ)夫妻が毎日のように来て面倒を見てくれることになり、汚れたものの洗濯、掃除までしてくれていた。
義妹の恒(つね)などの負担が増えるわけでもないのに、他人によけいな手伝いをさせて毎日のように出入させることを非難された。
とくに英語の書物を読みに他所(よそ)まで出かけてゆくなど、家持ち子持ちのすることではないと、激しい反感を持たれた。
野枝はもう一切、無関心な態度でいるより他に仕方がないと思った。
この日の夜、野枝が山田のところに出かける前にも、義母は例のとおり子供を持った女が始終出歩くことの不可をしきりに言った。
美津の話はすべての原因は辻が怠惰で遊んでいるからだ、というところまで押していった。
辻と野枝はその夜、散々に美津の愚痴を聞かされ、口汚く罵られた。
美津の要求は煎じ詰めれば、こういうことだったーー野枝を家庭の中に閉じ込めて、彼女の仕事を家の中だけのことにして自分の手ごろに合うような嫁にしたい、そのためには辻に早く何かの職業に就いてほしい。
たとえ辻に何かの収入の道がついたとしても、野枝は決して美津の希(ねが)うような嫁になるつもりはなかったが、美津は野枝が必然に自分の望み通りになるものと決めこんでいるーーこれから先の長い双方の暗闘が、野枝の心を暗くした。
ちょうど山田夫妻のところに行く晩だったので、子供のことを美津に頼むのも面倒と思い、子供を背負って家を出た。
道すがらに美津の言葉を思い出すと、今度はその無反省な、虫のいい、または悪感に満ちた義母の言い分に対して、野枝は先刻その前でしたような冷静な気持ちでの同情などはできなかった。
不断、忍んでいる多くの不快が一時に雲のように簇々(むらむら)と頭をもたげ出してきた。
野枝はもう家族の人々に対して、なんとも言えない憎悪を感ずるのであった。
辻と別れさえすれば、すべてが片づいてしまう。
それはわかり切っている。
けれど今、あの男と別れることができようか?
辻に対しては愛もある、尊敬も持っている。
そして、今あの家を自分が出れば困るのは辻ばかりだ。
自分が少々不実な女と見られるくらいは仕方がない。
けれど、あの男を自分のようなものに騙される、馬鹿なウスノロな男だと、あの母親の口から罵しらせることは辛い。
けれど、それもまんざら忍べないことはない。
前にはそう決心したこともあった。
けれど今は子供がいる。
子供がいる。
これをどうすればいいのだろう?
ああ、やはり、子供のためにできるだけのことは忍ばなければならないのだろうか?
野枝はそれは意久地のないことだと思いもし、言いもした。
その子供のためという口実を、自分も口にせねばならないのだろうか?
野枝は一生懸命に目を瞑(つむ)ろうとした。
深い悔恨が湧き上がる。
不用意に、こうした家庭生活に引きずり込まれた自分の不覚が恨まれる。
思うまいとしても、自分の若さが惜しまれる。
自由な自分ひとりの意志で自分を活(い)かしたいばかりに、いつも争いを続けながら、すぐまた次のものに囚われる自分の腑甲斐なさがはがゆい。
どうすればいい自分なのだろう?
ああ! 本当に何物も顧慮せずに活きたい。
ただそれだけの望みがなぜに果たせないのだろう?
多くの気まずさと、冷たい反目が待っている家!
もう帰るまいか、逃げてしまおうかと思った家!
そこに向かって帰りながら、野枝はじっと思い耽っていた。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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