2016年03月13日
第10回 大人の嘘
文●ツルシカズヒコ
しばらくして、校長先生がやって来た。
校長は黙って講堂のプラットフォームに立ち、大きなテーブルの前の椅子に腰をかけた。
野枝は瞬時に校長からも叱られると思った。
野枝はもう泣かなかった。
野枝の小さな体は激昂に災(も)えていた。
野枝はじっと校長の顔を睨んだ。
校長も黙って野枝を睨んでいた。
T先生が消え入るような声で「校長先生のお前にいらっしゃい」と言った。
野枝は体中を反抗の血で一杯にしてわくわくさせながら校長の前に立った。
野枝の頭は、プラットフォームの上の椅子に座っている校長の膝のあたりまでしかとどかない。
校長はちょっと前にT先生が野枝にした同じ順序で同じことを尋ねた。
野枝は同じことを答えた。
最後に校長は云ひました。
「あなたの云ふのはうそではないかもしれないけれども父母の許もうけずに他へ泊るなどといふことは大変わるいことです。お父さんやお母さんがどんなに御心配なさるかもしれません。第一さういう遠い処に学校のかへりにあそびにゆくと云ふのがまちがひです」
「でも先生、何時でも行くんです。そしてK先生と一所に何時でもかへりますから家ではよく承知してゐるのです。昨日もあすこに行つたことは家でも知つてゐますから、あんなあらしになつてとてもかへれなかつたと云ふことは家の人にもわかつてゐますし、K先生もおかへりになつてはゐませんから」
「まあお待ちなさい。あたたは一体つゝしみをしらない。私がまだ話して了(しま)はないうちに何を云ふのです、私はあなたの先生ですぞ」
校長先生はまつ青になつて怒りました。
「女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなた位の年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝ひでもすることを考へなくてはならない。昨日のことは仕方がなかつたとしてももしあなたがもつと女らしい、心がけのいゝ人ならあんな処に遊びに出かけることもないだろうしそうすればあんな間違ひはおこらない。それにあなたは何だつてHさんの学校へなどあそびにゆくのです。あなたはあすこの学校へ何の関係があります。関係のない処に遊びに行つて泊るなどゝ実にけしからん事です。あなたはどんなに悪い事をしたのか分つてゐますか?」
「私は何にも悪いことは一つもしません、悪いことなんか一つもしません」
私はせき込んで漸くそれ丈け出来るかぎりの力をこめて叫びました。
私はわるいことなんか一つもした覚えはない!
もう一度自分の心の中でさう叫びながら私は真青になりました。
立ってゐる足が体をさゝえきれない程に震へるのでした。
「それ、そんな傲慢なことをまた云ふ。これがどうして悪いことでないと云へます。あなたは少しも物の道理をしらない、長上を尊敬することをしらない。いくら、学科が出来やうと何しようと慎しみのない女は人の上に立つ資格はありません。以後再びこんなことがあれば決して、許しておけませんからそのつもりでーー」
校長が出てゆくと私の頭の中は一時に真暗になつてガン/\鳴り出しました。
(「嘘言と云ふことに就いての追想」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p208~209)
教室に戻った野枝は、椅子に腰をかけ机に突っ伏した。
涙があとからあとから湧き出てきた。
二十分もそうしていると、野枝はふと日が暮れたことに気づいた。
机の中のものをすべて包みの中に入れ、机の中を反古紙で拭いた。
野枝はこの不条理の叱責を公平な父に告げ、明日から学校に行かない決心をした。
外に出ると日はすっかり暮れ、寒気が強く、低い下駄では満足に歩けないほど道はぬかるんでいた。
人通りのない道を一里以上も泣きながら帰って行った。
野枝は帰宅すると袴もとらずすぐに、明るいランプの下で近所の人と世間話をしていた父の前に座って、不法な先生の態度や叱責を詳しく話し、明日からもうあの学校には行かないと言った。
父は一言も返事らしいことも言わず黙っていた。
K先生は約束通り家にわけを説明しに来てくれた。
家のものもあの嵐ではと、少しも気にかけていなかった。
そしてかえってこの日の帰りの遅いことに気をもんでいた。
野枝は翌日もその翌日も、友達が誘いに来ても断って学校には行かず、終日、古い本箱のふたを開けたり、犬をいじったりして祖母・サトのそばで過ごした。
登校を拒否していた二日目の夕方、野枝は夕飯前に犬をからかいながら松原に遊びに出るた。
その間、野枝の留守中の自宅を訪れたT先生が野枝の父と話した後、松原にいる野枝に会いに来た。
T先生はいきなり野枝の手を握ってどもりどもり詫びた。
T先生によれば、大勢の先生がいる職員室でS先生がT先生を非難したという。
野枝のような子供を訓戒も何も与えず放っておくのはおかしい、担任の責任だと。
T先生が訓戒できないのであれば、校長にで出てもらうしかないということになり、気の弱いT先生はそれに同意してしまったが、そのふがいなさを涙を流して詫びた。
T先生がどうか明日から学校に出てくれと懇願するので、野枝は出る気になったが、以後、野枝にとって学校は楽しいところではなくなり、二度と職員室になんか入るものかと思った。
しばらくして、H先生に会った野枝は彼の口から耳を疑うような話を聞いた。
H先生がS先生に会った際、S先生はT先生のことをこう語ったというのだ。
ーー波多江のYにH先生と野枝が泊まったことにT先生は大変怒っているが、野枝さんがかわいそうだ。野枝さんはK先生と泊まったと言っているのに、T先生は野枝さんが嘘をついていると決めつけている。しかも校長にまで訓戒をさせるとは、あんな優しそうな顔をしているのに本当にえらいことをおっしゃいます。
「僕はあの晩はC君と一緒に学校に泊まりました。Kさんと野枝さんがYに泊まったのです」
とH先生が言うと、
「そうでしょうね、私はきっとそうなんだというのに、T先生は聞く耳を持たないいんですよ。T先生はあんまり下らないことにまで干渉しすぎます」
とS先生が答えたという。
醜い嘘までついて自分を保ち、善良なT先生を貶めているS先生に、野枝は驚いて言葉を失った。
野枝が周船寺小学校を卒業して時が経ち、野枝はS先生の嘘は忘れかけていたが、校長にまで叱責されたことの理不尽さは消えなかった。
野枝はあるときふっと思いついて、S先生も校長もH先生もT先生もよく知っている人に、このことを話をしてみた。
その人は突然、皮肉な声で哄笑しながら言った。
「ああSですか、なに、あの女の例のやきもちからさ。あなたはまだ小さくてわからなかったろうがいい迷惑さね。あなたがあの女には大人並みに見えたまでさ。ハハハハハハ、いい目にあいましたね」
嘲るような目つきをその人はした。
これを聞いて、野枝の心中に刻まれたS先生の嘘の不快な印象はさらに深みを増した。
すべてに淡白でたいていのことは忘れてしまう野枝だったが、S先生の嘘だけは一生涯忘れ去ることができないものになった。
嘘とは、本当のことを言うと叱られるので叱責を逃れるために、子供がない知恵を絞って大人に吐く他愛のないものだと、幼少期の野枝は考えていた。
しかし、いやしくも学校の教師でありながら、度外れの嘘言を弄して生徒や同僚教師を貶める「大人の嘘」に直面した野枝は、大人の汚い心をまざまざ見せつけられ、小さい心は怒りと驚きとに震えた。
なお野枝は「遺書の一部より」「背負ひ切れぬ重荷」でもT先生に言及している。
『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「背負ひ切れぬ重荷」解題(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p442)によれば、T先生は野枝が周船寺高等小学校四年時の担任「谷先生」である。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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