2016年05月28日
第222回 豚に投げた真珠
文●ツルシカズヒコ
思い迷っていた神近は一度、蒲団から起き出し、大杉を起こして自分の頭に往来している気持ちを話し、その上で自分と別れてくれないかと頼んでみようかと考えた。
しかし、大杉の思い上がった他人を侮蔑した態度、それに長い間苦しめられてきた神近の心がこう叫んだ。
「まだおまえはあの男の悪意を見定め足りないのか!」
黙しながら蓄えてきた彼女の怨恨が、そのとき一度に爆発した。
彼女は一度、寝床に帰って来た。
その方が凶行を行ないやすいように思ったからだ。
実際に刺した瞬間だけ私は失神してゐたやうで、前後から記憶が絶たれて了つてゐるが、仰向けに寝てゐる彼は唯一突きであつた。
……逆手に突いた為めに充分に力が入らなくて気管にも動脈にも致命的な傷を与へるには、今五分ほど傷口が足りなかつた。
私はこれは後で聞いた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p93~94)
神近は目的を達し、長いこと彼女の身体を包んでいた鬱憤を晴らしたと思った。
彼女はその短刀で自殺しようと思って、少し離れて大杉が死ぬ様子を見ていた。
すると大杉がフトと目を覚ました。
大杉は「ウウ」と言って蒲団の中から手を出して傷口にあてていた。
そしてその手を電気の光に透かして見て、それが血であることに気付くと「ウワッ」と魂の底から絞り出すような驚愕と悲しみの声を上げ、大声で泣き出した。
大杉氏の記事ではこゝが稍々(やや)新派の芝居がゝりで、『待てーーー』と叫んだことになつてゐるが、事実は反対に彼は大声に泣いてゐた。
そしてこの瞬間に私はもうこれで好ひと考へた。
この男は、今こそ自分でやつたことが何を(ママ)値してゐたかを知つたのだ。
私は彼の全心が私に加へた欺瞞に対して詫びてゐることを知つた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p94~95)
神近は大杉に短刀をたたきつけ、廊下に出ると、大杉が彼女の後を追ってきた。
神近が新築の建物の二階の明るい電気の光でもう一度大杉の顔を見ると、死の恐怖と絶望のためにその顔は醜くゆがんでいた。
白い寝衣の上には血がだらだら落ちてかかった。
……彼の全心が私に加へた欺瞞を後悔して詫びてゐると考へた後私は急に悲しく感じ出した。
彼を、殺して了つたことを済まなく考へ出した。
私が『許してください』と云つたと彼は書いてゐるが、私には少しもその記憶のないところを見れば、この時に無意識に云つたものでゝもあらうか。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p95)
さらに前の座敷の方へ引き返したとき、神近は便所に倒れてしまった。
彼女がフト気がつくと、大杉が泣きじゃくりながら玄関の廊下を曲がって行くところだった。
神近は便所の前を一直線に風呂場に出て、そこの北口の戸が造作なく開いたので、戸外に出た。
秋の雨が音もなく静に降っていた。
庭に出た彼女は門を開け、街道に出た。
街道を一直線に右の方へ走った。
ある家の垣根のようなところに突き当たった神近は、そこに倒れてしまった。
半分意識を失ったまま彼女は、そこに小一時間ほどいた。
気がつくと、垣根の枝から雨だれがポトポト顔にかかっていた。
急に何事かを思い出し、宿の方に駆け出したが、大杉が死んでしまったことを思い出し、すぐに逗子の方に取って返した。
そのときにはもう、海に投じてもよいとほどの自殺の決心は強くはなかった。
神近は未決監にいたとき、弁護士の勧めで事件の当夜に交わされた会話など当時のことを手記していたという。
……今それをとり出して一枚々々繰つて見ても『お化を見た話』に書いてあるやうな淫蕩な笑ふべき会話や卑屈な恥づべき会話を口にしてはゐない。
そしてまたそれを敢へてしたと云ふ記憶も私にはない。
私が肉を求めたという事は虚妄も甚しい。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p97)
以上が「豚に投げた真珠」を通して見た日蔭茶屋事件である。
大杉が書いた「お化を見た話」とは、事件の見え方がだいぶ違っている。
が、しかし、同じ神近が書いたものでも、一九一七年に書いた『引かれものの唄』と一九二二年に書いた「豚に投げた真珠」では微妙に事実関係が違う。
さらに、日蔭茶屋事件から五十六年後の一九七二年に出版された『神近市子自伝 わが愛わが闘争』にも、『引かれものの唄』と「豚に投げた真珠」と違う記述がされている。
★『神近市子文集1』(武州工房・1986年11月3日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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