2016年07月04日
第276回 おうら山吹
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年三月五日、久板が満期出獄し、大杉&野枝の家に帰って来た。
このころ、大杉は黒瀬春吉が設けた「労働問題引受所」の顧問を引き受けるが、結局、大杉はその顧問を辞退した。
しかし、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、このころ大杉は黒瀬などとの関係を通じて、浅草オペラの楽屋に出入りするようになったという。
浅草十二階下にあった黒瀬の店「グリル茶目」は、伊庭孝、沢田柳吉、石井漠などオペラ関係者の溜まり場になっていたし、黒瀬と親交が深かった辻潤も常連だった。
「グリル茶目」の二階に六畳敷きほどの一室があり、隣家との間を隔てている壁が酔客の落書きの場になっていた。
黒瀬がそう仕向けていたと思われるが、思い思いの名文句とサインが書きなぐられていたという。
大杉の同志例会である北風会のメンバーである中村還一が、この落書きされた壁の真ん中の空いたスペースに書かれた、あるひとかたまりの文字を読み取り、その文字が目の底に灼きついたという。
お前とならばどこまでも 栄
市ヶ谷断頭台の上までも 野枝
おうら山吹の至りにぞんじそろ 潤
もちろん黒瀬の演出であったことが想像できる。
大杉と野枝が立ち寄ったおりに書かせておき、後日辻が飲みに来たとき、頃合いに酔わせて筆をとらせたものであろう。
文句の配列は植字の煩わしさを考慮して変えてある。
実物は大杉と野枝との行間に多少の空白があったところへ、割り込んで辻が書いていた。
しかし列べて書かず、三字分くらい下げて書いたのはどういう心理によるのか謎のままになってしまった。
書かれたのは大正六年と想定される。
一見しただけでは大杉と野枝とで辻をからかっているように受けとられるが、ふたりはそれを書いたとき辻の書くのを予想できなかったはずだし、大杉もそれほど粗野暴慢な人物ではなかった。
むしろ日蔭の茶屋事件以来ふたりに集中した世間の悪意に対し、尻をまくってみせるというほどの気持ちで書いた文句であろう。
それは辻にもわかったはずだ。
受けとめ方がいかにも辻らしいではないか。
(中村還一「スチルナーと日本の思想風土」/『辻潤著作集 別巻』)
関東大震災後、中村が黒瀬に会って例の壁の保存計画はどうなったかと尋ねると、経師屋(きょうじや)を頼んで壁紙を剥がすのはうまくいったが、震災で失ってしまったという。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、四月三日、北豊島郡滝野川町西ヶ原の大杉宅に同志二十数名が集まり、観桜会が催された。
花見の会だから運動などの話は抜きで、浪花節、都々逸、物真似などを演じ大いに飲食したという。
野枝も三味線をつま弾きながら、得意の端唄や歌沢を披露したかもしれない。
午後三時ころ、大杉宅を出た十七、八名は浅葱色の地に赤い布で「AW」と縫いつけた二尺四方ほどの旗を押し立てて飛鳥山に行き、革命歌を歌ったり演説の真似などをして気焔を上げ、午後六時ころ大杉宅に引き上げた。
引き上げた一同は、私服警官に殴打された者がいたことへの憤りが再燃し、大杉を先頭に十三、四名が王子警察署へ押しかけて抗議をした。
岩佐作太郎が大杉宅を訪問したのは四月十二日ころだった。
大杉の同志会である北風会に参加することになった岩佐は、こう回想している。
大杉君はかなり大きな二階家に住んでいた。
庭の空地には山羊が一匹遊んでおり、犬さえ飼っていた。
立派な体格の青年が犬とふざけていた。
家の中にも二、三青年がいた。
大杉君は二階に案内して、野枝女史を紹介してくれた。
(岩佐作太郎「私の思い出」『アナキストクラブ』五二・一)
(大杉豊『日録・大杉栄伝』)
「立派な体格の青年」とは、吉田一(はじめ)のことだろうか。
※南天堂
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『辻潤著作集 別巻』(オリオン出版社・1970年)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image