2016年06月02日
第232回 田中正造
文●ツルシカズヒコ
大杉は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四、五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人の誰かれがこの村のために働いた話をしながら歩いて行った。
「今じゃみんな忘れたような顔をしているけれど、その時分には大変だったさ。それに何の問題でもそうだが、あの問題もやはりいろんな人間のためにずいぶん利用されたもんだ。あの田中正造という爺さんがまた、非常に人が好いんだよ。それにもう死ぬ少し前なんかには、すっかり耄碌して意気地がなくなって、僕なんか会ってても厭になっちゃったがね。少し同情するようなことを言う人があると、すっかり信じてしまうんだよ。それでずいぶんいい加減に担がれたんだろう」
「そうですってね。でも、死ぬときには村の人に言ってたじゃありませんか。誰も他をあてにしちゃいけないって。しまいには懲りたんでしょうね」
「そりゃそうだろう」
「だけど、人間の同情なんてものは、まったく長続きはしないものなのね。もっとも、各自に自分の生活の方が忙しいから仕方はないけれど。でも、この土地だって、そのくらいにみんなの同情が集まっているときに、何とか思い切った方法をとっていれば、どうにか途はついたのかもしれないのね」
「ああ、これでやはり時機というものは大切なもんだよ。ここだってむしろ旗をたてて騒いだときに、その勢いでもっと思い切って一気にやってしまわなかったのは嘘だよ。こう長引いちゃ、どうしたって、こういう最後になることはわかりり切っているのだからね」
けれどとにかく世間で問題にして騒いだときには、多くの人に涙を誘った土地なのに、それがなぜに何の効果も見せずに、こうした結末になったのだろう?
よそごととしての同情なら続くはずもないかもしれない。
しかし、一度はそれを自分の問題として寝食を忘れてもつくした人が、もう思い出して見ないというようなことが、どうしてあり得るのであろう?
野枝はこの景色を前にして、いろいろな過ぎ去った話を聞いていると、最初に自分が、この事件に対して持った不平や疑問が、新たに浮かんできた。
行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。
低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。
木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。
それはこの何里四方というほどな広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。
かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見るかげもない残骸を、痛ましくさらしている。
しかも、その一本の枯れた木は、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めていた。
行くほど空の色はだんだんに沈んでいき、沼地はどこまでとも知らず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。
連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。
ふたりの話がとぎれると、野枝たちの足元から発する草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。
野枝は黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さに襲われた。
「どうしたい?」
「まだかしら、ずいぶん遠いんですね」
「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足を引きずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?」
「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの。こんなところ、とても私たちだけで来たんじゃわかりませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ」
「ああ、これじゃちょっとわからないね。どうだい、ひとりでこんなに歩けるかい。僕は来ないで、野枝子ひとりをよこすんだったなあ。その方がきっとよかったよ」
大杉はそんなことを言ってからかった。
「歩けますともさ。だって、今そんなことを言ったって、もう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ」
けれど大杉の冗談は、野枝には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。
先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、野枝は大杉に甘えたり、ふざけたりして来た。
彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、野枝はひとりでに顔が赤くなるように感じた。
その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、野枝の内心はすっかり悄気てしまっていた。
「何しに来た?」
そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。
本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、大杉も来てくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら?
ふたりで歩いていてさえ、あまりにさびしすぎるこんな道を――。
野枝は黙り、急にあたりの景色がいっそう心細く迫ってくるようにさえ思えた。
蘆の疎らな泥土の中に、傾いた土台の上に、今にも落ちそうに墓石が乗っているのが二つ三つ、他には土台石ばかりになったり、長い墓石が横倒しになっていたりしている。
それが歩いて行くにつれて、あっちにもこっちにも、蘆間の水たまりや小高く盛り上げた土の上に、二つ三つと残っている。
弔う人もない墓としか思われないような、その墓石のそばまで、土手からわざわざつけたかと思われそうな畔道が、一条ずつ通っているのも、この土地に対する執着の深い人々の、いろいろな心根なのだろう。
泥にまみれて傾き横たわった沼の中の墓石は、後から後からと、野枝に種々な影像を描かせる。
その影像のひとつひとつに、野枝の心はセンティメンタルな沈黙を深めていった。
あたりは悲し気に静まり返って、野枝の心の底深く描かれる影像を見つめている。
亡ぼしつくされた「生」が今、一時にこの枯野に浮き上がってきて、みんなが野枝の心を見つめている。
――その感じが野枝に迫ってくる。
同時に今にもあふれ出しそうな、あてのない野枝の悲しみを沈ますような太いゆるやかなメロディが、低く強く野枝を襲ってくる。
今までただ茫漠と拡がっていた黄褐色と灰色の天地の沈黙が、みるみる野枝の前に緊張してくる。
けれど、やがてそれもいつの間にか消え去った影像と同じく、その影像を描いたセンティメントが消えてしまう頃には、やはりもとの何の生気もない荒涼とした景色であった。
しかし、野枝はそれで充分だった。
わずかに頭をもたげた野枝のセンティメントは、本当のものを見せてくれたのだ。
「何しに来た?」
もう野枝はそういってとがめられることはない。
ひとりで来たら彼女のセンティメントは、もっと長く彼女をとらえただろう。
もっと惨めに彼女を圧迫したろう。
だが、もう充分だ。
これ以上に何を感ずる必要があろう。
野枝はしっかり大杉の手につかまった。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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