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昭和40年頃から、山梨県の棡原で、老人たちは皆元気に農業に励んでいるのに、大正ひとけた生まれの中年層の多くが親より先に成人病で死んだり、半身不随で不如意の生活を送っているのを目撃した。明治生まれの老親が子や孫に先立たれることを棡原では「逆さ仏」という。
陸の孤島・棡原に村人待望のバスが開通したのは昭和29年であった。時あたかも神武景気、岩戸景気と未曾有の経済成長に直面した村人は、零細農業や養蚕、炭焼きでは生活できず、農業を捨て東京、神奈川方面に競って出稼ぎに行った。その日々得た現金収入で近代型加工食品を買って帰った。
出稼ぎによる肉体的、精神的ストレスは大きく、その解消のための飲酒量は増加し、微量ミネラル類、ビタミン類の尿からの消失を高めた。一方、その不足を補うに足る伝統食をとらなくなり、成人病を発生させた。
食生活も麦を中心とした雑穀、イモ類、豆類、豊富な野菜から、白米一辺倒となり、パンを中心とした肉、卵、牛乳、ハム、ソーセージなどインスタント食品、精製加工食品となった。酒は焼酎からビール、日本酒、ウイスキーとなった。また、菓子、ケーキなど糖分の過剰摂取となった。ここに「身土不二」の伝統的食習慣は完全に崩壊した。
昔からの棡原の伝統食は、蛋白、脂肪、澱粉の三大栄養素は欠乏したのに対し、ビタミン、ミネラル、植物繊維は過剰だった。反対に現代食は三大栄養素が過剰、微量栄養素欠乏のアンバランス食である。私の棡原観察55年の結論は、「健康長寿のためには三大栄養素は少々不足でも、微量栄養素はたっぷりとる必要がある」ということである。
【かつての棡原の食生活】
地形上、米は一粒もとれず、麦を中心とした雑穀(アワ、キビ、ヒエ、穂モロコシ、トウモロコシ、ソバ)をはじめ、豆類、芋類(サトイモ、馬鈴薯、甘露、ヤマイモ、コンニャク)、かぼちゃ、各種の野菜、山菜を旬ごとに自給自足してきた。
コンブ、ワカメなどの海草は保存食として他から求め、野菜とともに煮て食べる。茶、ワサビも栽培し、山には柚、柿がいたるところに野生し、果物として食べる。竹もよく繁殖し、タケノコは塩漬けにし、年間を通じ、塩抜きして食べる。
どこの家にも味噌蔵があり、自家製のフスマ麹味噌をどっさり作り、貯えてある。動物性蛋白の極めて乏しかった棡原ではこれを補うものが味噌だ。味噌さえあれば、いかなる凶作、飢餓、天災でも最小限度の生命の保持にはこと欠かさないというのが、村人の信仰にも似た味噌への執念である。
酒は昔から焼酎と決まっている。長年飲んでいると「あがりがよい」と村人はいう。つまり二日酔いをしない。
(古守 豊甫)
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