2020年06月29日
大河の一滴
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■この世には「真実」もあれば「ウソ」もある、それが本当だと思っている。生きる意味もあれば、むなしさもある。だが善き人もいれば悪しき人もいる、というふうには考えない。人はおかれた状況や立場、そのときの他者との関係の中で、あるときは善意を、あるときは悪意を露出させる不確かであやうい存在なのではあるまいか。世間というものも、またそのように揺れ動きつつ流れていくものなのである。(P61)
■人間の価値というものを、努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか--その人間たちに成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問を持つようになりました。
人間の一生というものはそれぞれが、かけがえのない一生なのであって、それに松とか竹とか梅とかランクを付けるのは間違っているのではないか。
たしかに人間にとって、愛と正義と勇気と努力をもって世のため人のために尽くし、そして名誉や富や社会的な地位を得たり、あるいは科学上の大きな発明を成し遂げたり、大冒険を成功させたりする、そして世の中から拍手でヒーローとして迎えれれるというのも素晴らしいことではありますが、さして人間の価値とは関係がないのではないか、と、たいへん乱暴な言い方を少しずつ考えるようになってきたのです。
最近では、人間の値打ちというものは、生きている--この世に生まれて、とにかく生きつづけ、今日まで生きている、そのことにまずあると思うようになりました。
人間の体の成り立ち、心の成り立ち、そして魂の成り立ち、そういうものをつぶさに観察すると、こんなに人間の命というものは不思議な力によってささえられているのか、と驚嘆しないわけにはいきません。
人間だけではありません。植物も、すべての動物もみんなそうなのです。(P111)
■サッカーや野球、オリンピックなどに熱中するひとびとを見て感じるのは、人間というのは、たったひとりで生きているのでなくて、多数の人間との一体感を求めて生きているのだなということです。
みんなが、ひとつの試合とか、スポーツの行方に対して一喜一憂しながら、百人、千人、万人という人たちが全部、なにか同じ心にとけあって、いまここに存在している--熱い興奮がそこにあって、それを求めて人びとはスポーツに熱中するのではないか。ぼくはそんなふうに思います。
どんなに経済的に恵まれ、どんなに健康に恵まれ、あるいは幸せに生きていたとしても、孤立している人間というものは、生きているときに本当につらいものなのです。生きていることが喜びと感じられない。そこへ忍びよってくるのが、そのような、時代全体が高揚しているとき、その時代に自分も一緒に巻き込まれていく快感、あるいは興奮ではないでしょうか。そういうものがあるような気がして仕方ありません。
ファシズムとかナショナリズムとかいうもののきわどさは、そのへんにあるような気がします。いくら、そういうものがまちがっているといったところで、人間は頭だけで動くものではありません。そして、物でもなく、頭でもなく、利益でもなく、自分と他人とが一体になって、燃えるような興奮のなかにいる、というような状況を一度あじわった人間は、そういう病から免疫を得ることはできないのです。(P133)
posted by hiroshimalibrary at 06:02| 人文・思想・暮らし