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そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、すなわち薩長史観によるものです。勝利者側が史料を取捨選択しており、しかも、その「勝利者の歴史」を全国民は教え込まれてきました。
そこでは、薩長が正義の改革派であり、幕府は頑迷固陋な圧制利者として描かれている。これでは歴史を公正に見ることはできません。
私はこれに異論を唱えたいと思ったのです。
それに困ったことに、今の一般の日本人は活字になったものしか、古い文献を読みこなせないのですね。
昔の人は筆の字でしかも上手、かつ崩し字の草書体で日記を書いています。これが専門家ではない私たちには読めない。読めないから、仮に敗者側のいい史料があったとしても、これがなかなか広まらない。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。
「維新」というもっともらしい呼び名も、私に言わせれば薩長政府のプロパガンダの一つだと思います。いつから誰が正式に使いだしたのか。明治初期の詔勅、太政官布告などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。すくなくとも明治10年代まではほとんど見当たりません。
明治10年代の中頃から自分たちの暴力による政権簒奪を、厳かな美名で飾り立てたのではないか、と私はにらんでいます。そしてそれが成功した、と。(P18)
■薩摩、長州は西洋列強に薩英戦争、下関戦争で負けたが、いちばんひどい目に遭ったのは幕府で、というのも、連合国は賠償金を幕府に要求してきたからです。やむなく分割で払ううち、150万ドル払ったところで幕府は瓦解してしまい、残りは明治政府が支払いました。(P24)
■「明治維新は無血革命だった」などといいます。
しかし、島津久光上洛以後、京都で相次いだ暴力や殺人の嵐、その後の戊辰戦争の悲劇をつぶさに見ていくと、「明治維新」がいかに多くの血が流れた悲惨な権力闘争だったかあらてめて思い知らされます。(P36)
■1865年に朝廷も、日本の国力では攘夷は不可能と悟って、開国を承諾しています。幕府との政策の違いはなくなった。しかも1867年には慶喜は大政奉還しているのですから、そこから公武合体でも、雄藩の諸侯による共和制でもいいから、開国の統一した国策のもと、新しい国づくりをしればよかったはずです。
ところが、薩長はそれに目もくれなかった。あくまで暴力的に政治権力を奪取しようとします。私に言わせれば、戊辰戦争とは東北や越後の諸藩に対する侵略戦争にほかなりません。あの時点では間違いなく薩長は”暴力集団”でした。
その犠牲となったのが、京都警護に真摯に取り組み、孝明天皇から絶大な信頼を得たにもかかわらす最後には賊軍とされてしまった会津藩の松平容保であり、長岡藩の河井継之助でした。
薩長があえて必要のない戦争を、奥羽越列藩同盟の諸藩にしかけたのは、「勝ち組」と「負け組」をはっきりさせたかったからではないか。「官軍」の名を自分たちのものにしたかったのではないか。(P41)
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