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■日本の森林率は68%、これはフィンランドの74%、スウェーデンの69%に次いで先進国では世界第3位です。イギリスが12%、中国23%、フランス30%、ドイツ12%、アメリカ33%、ロシア49%ですから、突出した数字です。
それについてジャレッド・ダイアモンドが「文明崩壊」で興味深い考察を行っています。
日本でも戦国時代には築城や製鉄のために、自然破壊が行われ日本中に禿げ山が拡がりました。しかし、17世紀半ばに江戸幕府は森林保護政策を打ち出します。森林乱伐が山の侵食を進め、流出した泥が川底に沈殿し、それが洪水の原因となることに強い危機感を抱き、森林を守ることを厳命したのです。この江戸時代の森林保護のおかげで、日本は世界でも例外的な森林保全に成功した国になったのです。
この森林保護政策が可能になったのは、いくつかの理由があります。一つは江戸時代の人口が250年にわたって2600万から2700万人程度でほぼ一定していたこと。有限の自然資源を持続可能な仕方で消費する仕組みを持っていたこと。鎖国していたこと。国内が300の「国」に分割されていたために、「国境」の障壁によって商品や人の流通が抑制されて貨幣経済が発達しなかったこと。
江戸時代の統治原理は「定常」です。「成長」ではありません。子の代も孫の代も、百年後、二百年後を生きる子孫までも、いまの自分と同じ土地で、同じような生活文化を営んでいることを前提にした社会を設計したのです。それが森を守った。(P37)
■経営方針の決定に組織全体で気長な議論とていねいな合意形成を要するような企業は、資本主義社会では競争に勝ち残ることができません。そう信じている人ばかりになったので、日本の社会集団はいつの間にかすべてが株式会社のようなものになりました。行政も、医療も、学校も、別に「金儲け」のために存在するのでない機関までも、すべてが株式会社をモデルにして制度を作り直すことを求められるようになった。それに誰も反論しなかった。
少し前に、大阪府の府知事だった人物が行政機関に向かって、「民間ではありえない」という批判を加えた時に、「行政は住民に定常的なサービスを持続的に提供するためのものであって、株式会社のような「右肩上がり」モデルに準拠してこれを作り直すことには無理がある」という反論した人はいませんでした。「組織がトップダウンであること、組織方針の決定にできるだけ時間をかけないこと」というルールが適用されてもよい組織もあるが、適用されるべきでない組織もある、ということを述べた人は、いませんでした。
理由は、日本人のほとんどが株式会社という組織でしか就労経験がないという時代になったからです。株式会社以外の組織、金儲け以外の目的のために設計された制度がこの世には存在する(存在するどころか人類史上のほとんどの時代、人間たちは「金儲けのために設計された制度」ではないところで一生を過ごしていた)ということを現代日本人はもう知りません。
僕たちの時代が倒錯しているのは、株式会社というかなり奇妙な成り立ちの組織(それは18世紀のイギリスで誕生し、たかだか250年の歴史しかもっていません)がいつの間にか社会制度のモデルの地位に上り詰め、あらゆる組織は株式会社に準拠して制度設計されなければばらばいという臆断が「真理」のように語られているからです。(P51)
■私たちが享受しているもの、この社会制度も、言語も、学術も、宗教も、生活文化も、すべてが先人からの贈り物であって、僕たちが自力で作り上げたものなんか、ほとんどありません。ですからこれをできるだけ損なうことなしに未来の世代に手渡さなければならない。贈与を受けたものには反対給付の義務がある、そのルールを内面化したもののことを人間と呼びます。商品と貨幣のやり取りというスキームでしか人間社会で起きていることの意味を考量できないものは、厳密には人間ではないのです。人間にしか共同体はついくれない。だから、現代日本では地域共同体も血縁共同体も崩壊したのです。(P74)
■食文化とは飢餓回避のための人類の工夫の集積であり、農業のすべての工夫もまた目的は同じです。けれども、例えばTPPの農業政策には「飢餓をどうやって回避するか」というような問題意識はまったくありません。ここでは、農産物は車やパソコンや服と同じように、製造コストが一番安いところで作って、市場価格が一番高いところでうれば」いい、そういう考えしかない。そして、製造コストを考えたら、広大な土地が残っており、労働者の賃金が安く、公害規制法規の未整備な後進国で、農薬をじゃんじゃん撒いて、商品作物のものモノカルチャーを行うのが一番儲かります。日本のような、耕地が狭く、人件費が高く、公害規制もきびしい国で農業生産を行うのは、経済合理性を考えたらまったくメリットがない。それよりは、日本がもっとも得意とする分野で金を稼いで、その金で中国からでも安い農作物を買えばいい。そういうことになります。
でも、何らかの理由で農作物の輸入が途絶えたときに、どうやって飢餓を回避するつもりなのでしょうか。僕はTPPに関する議論の中で、「飢餓リスクを回避するために、国内農業を維持する必要がある」という話を聞いたことがありません。
メキシコとアメリカとカナダはNAFTAを締結しています。それによって三国間での農作物の輸出入の関税が段階的に廃止されました。このとき、メキシコにアメリカ産のトウモロコシがどっと入ってきました。メキシコ国民は国内産よりもアメリカ産のトウモロコシが安かったので、それを買いました。結果的にメキシコのトウモロコシ農家は破壊的な打撃を受け、メキシコ人は自分たちの主食を自給できなくなった。ところが、トウモロコシがバイオマス発電の燃料になることがわかって、トウモロコシの市場価格が高騰し、メキシコ人は、アメリカ産のトウモロコシを買うことができなくなった。主食を食べることができなくなったのです。(P199)
■人類の食文化というのは二種類の工夫から成り立っています。一つは不可食物の可食化です。「食えないもの」を「食えるもの」にする。そのために先人たちがどれほどの努力をしてきたことでしょう。煮たり、焼いたり、蒸したり、天日に干したり、水に晒したり、割いたり、粉にしたり・・・あらゆる手立てを尽くして、「食えないもの」を「食えるもの」に変換してきた。
もう一つは、他の集団と主食を「ずらす」ことです。食習慣のずれがあれば同じ食物を奪い合うということは起こらない。
それだけはありません。どの集団も主食をおいしく食べるために「発酵食品」を調味料として使いますが、その調味料を子供の頃から食べ慣れている人には極上美食ですが、そうでない人たちには「腐ったもの」の臭いとしか思えない。(P197)
■経済活動とは、ぎりぎり切り詰めて言えば、人間が生きて行くために必要な商品やサービスを交換することです。だから、経済には人間の身体というリミッターがかかる。人間の身体が必要とするものはどんなことをしても手に入れようとするが、人間の身体が必要ないものは「どんなことをしても」というほどには必死にはならない。一日の食事は3度までで、五度、六度と詰め込んでもいいけど、消火器が悲鳴を上げます。一度に身にまとえる服は一着打でです。一時間ごとに上から下までパンツから靴まで取り替えてもいいけれど、そんなことをしていたら他のことをする時間がなくなる。一度に住むことができる家も一軒だけです。人間は身体という限界を超えた消費活動をすることができない。これが経済の基本原理です。当たり前すぎて誰も口にしませんが、これが基本です。そして、経済をめぐる無数の倒錯はこの基本を忘れたせいで起きています。
成熟社会とは「生理的な基礎的な欲求がすでに満たされている社会」のことです。ですから、消費活動が鈍化する。それは個人レベルで言えば「ありがたいこと」なんです。けれども経済成長しないと存立し得ない資本主義という仕組みにとっては「困ったこと」です。だから、成熟社会に達した後にさらに経済成長させようとすると、もうできることは限られてきます。
一つは身体というリミッターを外すことです。衣食住の欲求とは関係のなりものの売り買いに経済の主軸を移すことです。それが金融経済です。金融経済とは金で金を買う経済です。株を買い、債権を買い、土地を買い、ダイヤを買い、石油を買い、ウランを買う。これらはすべて貨幣の代用品です。「貨幣で貨幣を買っているの」のです。これならエンドレスです。(P20)