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■ヨガを含めたさまざまな瞑想の目的は、特別な状態になることではなく、心身・生活などのすべてが、心理とバランスの取れた状態になることです。
バランスや調和という語は、宇宙意識を表すのにふさわしい語です。すべての現象は、バランスによりもたらされているといえるでしょう。
たとえば、地球と月は遠心力と求心力のバランスが取れているからこそ存在することができるのです。
体内に目をやると、体温を36度程度に保つために、暑すぎると発汗して気化熱で体温を下げ、寒いと筋肉が引き締まり、発汗を抑えるなどして、ちょどよい体温を保とうとしています。
血液も、およそ。PH7.35という弱アルカリ性に保つために常にコントロールしようとしています。
生命を維持するための働きを一言でいうと、すべてが、バランスを維持しようとする働きなのです。(P268)
■瞑想行法の誓い
「人間の一番正しい状態、それは自然であることです。
自然であるとは、調和のとれていることです。
調和のとれている時には、安定しており、平静を保っております。
私たち人間の一番陥りやすい状態、それは偏ること、とらわれることであります。
でありますから私たちは、意識的の逆の状態の訓練をして、
バランス維持の働きを高めなければならないことに気づきました。
だだ今より、とらわれない心身を造る修行の、
瞑想行法を行わせせていただきます。
心身の統一と放下の訓練を通じて、自己を無にすることを誓います。」
(「沖ヨガ生活行特集」求道実行会より)(P107)」
■「息をしているから生きている」。現代人は、息をすることは空気(成分は酸素が5分の1、残りは窒素)を出し入れすること、とただ物質的に理解しています。しかし、氣=空気という考え方では、古代からの呼吸法(プラナ・ヤーマ、氣功法、調気法)の真髄はよくわからないでしょう。
古代の人々は、息をしているときは生きている、息が止まったら死ぬ、という経験を通し、「宇宙・天から来て入ってくる氣・エネルギーや、大地からくる氣・エネルギーが自分を活かしている力・本体である」と発想したのでしょう。
死については、自分が消滅してしまうわけではなく、古くボロボロになった衣を脱ぎ捨てるようなもので、また、新しい衣(肉体)を得て、新たに生きるのだと考えました。これが古代インドなどで信じられていた「輪廻転生」思想です。また、身体は宇宙と相似的につくられていると考え、宇宙・自然のさまざまな法則は、自分の身体の内部にも見られると考えました。
「個々は全体が分かれたもので(部分即全体・梵我一如)でそれぞれ別の存在ではない」という見方も、東洋の伝統的世界観の特徴です。
与えられた自分という存在(身体と心)を瞑想することで、宇宙の真理がわかってくる。つまり、身体は教材でもあるのです。
「梵=神=宇宙が、自分に宿っている」という意味でも、身体は「神殿」です。
また、「宇宙即我」「生命即神」「我即神也」という世界観にもつながっていきます。
東洋の伝統的な医療法、訓練法、瞑想法など、ヨガはこうした伝統的な世界観を根底にした行法です。この世界観を理解していなければ、その効果を現代生活で正しく活かすことはできません。(P264)
■瞑想を行うときは、ある種の波長を自分がだしているとは気づきません。しかし、無意識層に恐怖心などの感情や利己的な欲望、傲慢な心や依頼心などがあると、それらの波長を発信してしまいます。その結果、恐怖心などを助長する波長を引き寄せてしまいます。
瞑想を行う場にも注意しましょう。たとえばそこで多くの人が苦しんで亡くなったとか、処刑されたというような場所には、人々が苦しんだエネルギーがしみこみ、苦しみの波長を発していることがあります。瞑想中にその波長に感応してしまうと、もはや心をコントロールできなくなったりします。(P267)
■地球上の生物のなかでも、人類ほど多種多様に異なっている種はないでしょう。
人間は、一人ひとりが違って生まれてきているのです。
それが神(宇宙の意志)なのです。
一人ひとりがたがいに異なる感性や思いを活かして協力し合い、ともによりよい社会を作っていくことこそ、人間社会の価値があるといえるのではないでしょうか。
ヨガのポーズ一つとっても、一人ひとり自分に適したポーズが違います。
食事も同様で、本来は一人ひとりに適食があります。
手をみても、各指、それぞれ違った形、長さであり、役割も違います。
全部が同じ指だったら、複雑な操作はできません。
瞑想法もこれときめつけず、いくつかの瞑想法と出会い、学ぶとよいと思います。(P280)
■ヨガは、「動きを伴う瞑想」のひとつです。
ヨガとは、「神と結ばれた状態」をさす言葉です。
ここでいう「神」とは具体的な神でなく、自然の法則、宇宙の法則、生命の法則を意味し、一言でいえば「真理・真実」です。
現在では、ハタ・ヨガのポーズが印象的なために、そうしたポーズをすることが、ヨガと思われるようになったのです。
世界には、静的瞑想である座禅、黒点瞑想、ロウソウ瞑想、数息観、随息観、マントラ瞑想、密教系の阿字観・月輪観、止観、イメージ使用瞑想、などがあります。
動的瞑想である、滝行、火渡り、登拝、洞窟瞑想、聖地瞑想など、創造以上に多種多様な瞑想があります。
太陽礼拝や五体投地なども瞑想の一種です。(P4)
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瞑想をしていると、前も後ろも上も下もなく、肉体もなく、純粋な意識だけの存在になっている、と感じることがあります。その意識は、宇宙全体に広がっているように感じられます。(P272)
■霊山に登拝するときに、霊山の神格や清浄な自然で自らを浄化しようと、「六根清浄、お山は晴天」「懺悔、懺悔、六根清浄」などと発声呼吸法を行いながら登拝する習慣があります。
眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(臭覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)と意根(意識)の六根は、人間の認識の基本です。
その六根が汚れていては、ものごとを正しく知覚したり、認識することができません。そこで霊山やご神体の山々を登拝しながら、六根を清らかにしようとする。これを「六根清浄」といったのです。
たとえ、汚れたものを見る、聞くなど、感覚でとらえたとしても、それにとらわれなければ心は汚れません。恐ろしい事故を見ても、見たという視覚レベルに止めておいて、心をそれで汚さないようにする。転んで痛いと感じても、その痛みを心に取り入れなければ、痛みの苦痛は心に刻まれません。
このようにして、見ない、聞かない、嗅がない、味わわない。触れない。感じない・・・。
目に諸々の不浄見て、心に諸々の不浄を見ず
耳に諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を聞かず
鼻に諸々の不浄を嗅いで、心に諸々の不浄を嗅がず
口に諸々の不浄を言いて、心に諸々の不浄を言わず
身に諸々の不浄を触れて、心に諸々の不浄を触れず
意に諸々の不浄を思いて、心に諸々の不浄を思わず
五感でさまざまなことを受け止めても、それにとらわれず、心はつねに、清浄で偏ったり、こだわったりしない。そういう自分に心を調えていく。
こうした願いから霊山に登拝するのだという意思の表れが「六根清浄」の声なのです。(P252)
■「浄化呼吸法」はヨガの瞑想に使われたり、「伊吹呼吸法」と呼ばれ、神道でも使われている呼吸法です。
非常に高い浄化効果があるので、怒りや不安などネガティブな感情を感じたときなどに行うと、数呼吸するだけで気持ちが調います。
この呼吸は鼻から吸って口から吐く呼吸法です。
@吸う息とともに、宇宙や大いなるものから、自己を清めてくれる光のエネルギーが体内に入ってくるイメージを持ちます。
A息を吸い切ったら、いったん止めて、口の中に、疲れや汚れ、マイナス感情などが集まってくるのをイメージします。それから、口をすぼめて、フーと長く吐いていきます。
Bすべての息を吐ききってから、さらに勢いをつけて3回、フッフゥフゥーと身体のなかの不浄なものが吐き出されていくのをイメージしながら息を吐きだします。
■スワイショウ瞑想(P86)
「スワイショウ」は「手をぶらぶらさせる」という意味で、中国の気功や武術の訓練法としても有名です。
リタックスした状態で腕を前後に動かします。このとき、腕を動かそうとするのではなく、重力で自然に揺れ動くようにします。
身体は物理的なものであると同時に、気やオーラをまとうものという考え方もあります。腕を振りながら、指先から負のオーラが抜けてでていくというイメージを持つと、より瞑想的効果が高まります。(毎日5分程度行っていると、身体の余分な緊張がとれ、リラックスしてきます。)
■笑い瞑想(P200)
声を出さずに、笑っているときと同じように「ハッハッハッハッ」という呼吸を5〜6回行うと、自然におかしくなっていきます。そこで声を出して実際に笑い出します。(ヒッヒッヒッヒッ、フッフッフッフッなどハ行をすべて使う方法もあります。)
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