「農業を株式会社化する」という無理 これからの農業論 [ 内田 樹 ] 価格:1,540円 |
■内田:「農業にも生産性を」とよく耳にしますが、・・・
養老:そもそも僕、本気で聞きたいんだけど、みなさんは自分の人生、生産性が高いと思っているんですか?「生産性」ってもっともらしく聞こえるんだけど、ほとんどの人は生産性ゼロですよ。いやマイナスじゃないかな。少しは足元を見てごらんなさいよって。(P2)
■養老:農業に「生産性」を求めるという考えは、もともと無理があるんです。たとえば、アメリカの中西部のトウモロコシ畑なんて、本当に100年も200年も続けられると思っているとしたら、いずれ大変なしっぺ返しを食らう。
内田:100年後、どうなっちゃうんですか。
養老:あの辺を飛行機で飛ぶと、緑と茶色の丸いものが見えるんです。スプリンンクラーで水を撒いているから、畑が丸いの。それを効率的だと言っているけれど、その水はどこから来ているのか、という話でしょ。地下を流れている氷河の溶けた水を、ひっきりなしに吸い上げているわけなんだから。
内田:水がいずれなくなるんですか。
養老:そう。やかんを沸騰させ続けたらなくなるのと同じ理屈です。淡水でも空焚きしたら塩だけがのこる。その手法を続けていたら、周囲は塩だけになるでしょう。アメリカはそれを「生産性の高い農業」と呼んでいるわけだけれど、いったいそんなことがいつまで続けられるのか、と聞きたいですよ。
養老:遺伝子の組み換えだってそう。イタチごっこになるに決まっているんです。農薬もそうでしょう。いずれは雑草のほうに除草剤耐性がついて、より強力な別の除草剤を開発しなければなくなって----。雑草のほうが作物より種類が多いから、頑張るのも早いわけです。だから、僕は冗談でなく「いずれは除草剤耐性の木が生えてきますよ」って言っているんです。
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だから僕は農業を経済問題として語るのは、まったくの間違いだと言っているの。かつての人々には、人は土から生まれて土に還るという意識があった。農業というのはもともと、自分たちと分かち難いものとして自然といかに共存していくか、という話であったはずなんだ。(P219)
■世界各国にある固有の食文化は、すべては、飢餓の回避のための工夫です。主食が多様であるのは、リスクヘッジのためです。米を食べる集団があり、小麦、豆、イモを食べる集団がある。集団ごとに主食が散らばっていると、例えば、米だけがかかかる病気が流行って、米を主食にする集団が飢えて壊滅しても、他を食べる集団は生き残れます。米を食べる集団も米がなくても、トウモロコシやイモを食べれば生き残れます。これは飢餓対応の基本戦略です。
でも、グローバル経済は、食文化を均質化することを要求します。地球上の70憶人が全員同じような食生活を営むということは、食料生産の合理性から言っても、流通や消費のコストから言っても、最大の利益が期待できるからです。だから、グローバル経済は食文化をフラットすることを狙っています。でも、生身の人間はそれに強い違和感を覚える。それは、できるだけ多様な食文化を確保しておくということが飢餓を回避するための人類学的工夫だったからです。(P16)
僕がつねに「多様性が必要だ」と言うのは論理的に正しいというような気楽な話をしているのではありません。多様なものが混在している社会しか危機的状況を生き延びられないからです。(P19)
■農業を営利企業のつもりでやった場合、たぶん失敗する。農業という産業が成立するためには、その段階として膨大な「不払い労働」が存在するからです。
農業が成り立つには、山、森林、湖沼、河川、海洋というすべての自然環境が整備されていなくてはなりません。山、森、川、海が守られて初めて農業が成立する。ある面積の耕地さえあれば単独で農業が成立するというものではありません。これまでは不払い労働として農業従事者自身が担ってたきた。草を刈ったり、道路を補修したり、河川を修繕したりという作業は、それ自体農業ではありませんが、誰かがそれをやらないと農業が成立しない。でも、もし仮に営利企業が農業に参入してきた場合に、彼らは農業が成立するための環境整備のコストをはたして負担するでしょうか。僕は負担しないと思います。
それは、企業経営の基本戦略が「コストの外部化」にあるからです。営利企業の創意工夫はいかにして自分が負担すべきコストを「他に押し付けるか」にかかっています。コストを外部化することに成功した企業ほど、大きな収益を上げることができる。ですから、農業が成立ための基盤整備についても、企業は「環境保全は自治体の仕事だ。そういうことに税金を投入すべきだ」というはずです。コストを外部化しないで引き受けたら、農業ではほとんど利益が見込めないからです。
しかし、「強い農業」論者はこの問題を(意識的にか無意識的にか)見落としているように思えます。
「強い農業」論者は農地を統合して、機械化して、収量を増やして、人件費コストを削減すれば、儲けがでると電卓を叩いているかもしれません。
農業というのは、100年200年というスパンで考えていかなければいけないものです。株式会社は当期利益至上主義ですから、長いスパンの中で、国土を安定的に保全して自給システムを維持するということには何の関心もない。でも、それを責めても仕方がない。株式会社とは「そういうもの」だからです。
例えば、原発は一度事故が起きれば、大変なことになる。しかし、そのようなリスクを冒しても目先の金が欲しいという人たちが電力会社を経営している。それは、国土と国民の持続可能性には興味がない。当期の収益しか眼中にない。でも、それは、彼らが非人間的であるからではありません。そうではなく、長期にわたって存続するということ自体が株式会社にとっては何の意味もないことだからです。
アップルもグーグルもフェイスブックもあと10年後に存在するかどうか誰にもわからない。老舗の東芝も三菱自動車も日産も神戸製鋼もあと何年存在するか誰にもわからない。来年倒産しても誰も驚かないでしょう。
だから、あらゆる社会制度を株式会社に準拠して制度化するというのはたいへん危険なことだとつねづね申し上げているのです。自治体は民間企業のようであると言い出して市民の喝采を浴びたのは大阪の橋下徹前市長でした。けれども、自治体は良質の行政サービスを安定的に供給するシステムであって、利益を上げることや、コストをカットするために存続するわけではありません。定常的に機能すべき制度を市場原理や競争原理を持ち込んで改変したらどういうことになるか。それは大阪市の現在の行政の混乱をみれば明らかでしょう。
医療や教育も20年ほど前から「株式会社化」の波に洗われています。
資本主義は株式会社そのものの寿命にはまったく興味を示しませんが、それとは裏腹に経済成長は永遠の続くことを前提にしています。でもそれは、夢物語です。(P28)