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食べ物である野菜の有用性(使用価値)は、健康によいということに尽きる。しかし、他の商品と違って、眺めても、触っても、さらに味わってもわからない。その意味では野菜は(農産物一般に通じるのだが)、特異な生産物といえよう。そこで市場においては、買い手は暗黙のうちに、外観で判断し、よしとして求めることになる。
商品野菜の作りては、これに呼応するおうに、化学肥料、ビニール、農薬の利用など、外観を第一目的とする生産方法を押し進めていく。
商品生産においては、商品の貨幣への転化は、まさに「命がけの跳躍」なのだ。売れなければ、生産をづづけられなくなる。また売れたとしても、望んでいる価格を実現できるとは限らない。外観で買われるとすれば、中身はどうしても後退していく。(P114)
■野菜づくりでは、つい、他者のものと、成果を比べてしまう。
油粕のみで育てた野菜は、小振りでつつましく、色はやや淡い。一方、化学肥料によるものは、大型で、色濃く猛々しい。つい、こちらが、健康な野菜かと勘違いしてしまう。色濃いのは、本当は、葉に亜硝酸が過剰に蓄積された不健康体なのだ。(ホウレンソウに殺される)
「え、油粕しかやらないの」
畑仲間は、不審な面持ちで、考え込む。(P42)
■家庭菜園を、仕事のように、取り組んでいる人もいる。プロの農家の方法を模倣する。一般にいわれることに、すぐに従う。農薬を使う。化成肥料を使う。鶏糞を使う。ビニールを利用する。部分的な行為が、ただ積み重なっていく。そこには、遊び心が感じられない。解放感がない。家庭菜園が日常の仕事のようになっている。(P56)
■人為の加わるところには、必ず雑草は生える。道端、畦道、畑。
雑草は野草ではない。人気のないところでは、育たない。人が攪乱したところに選んで生える。まるで、人を慕ってやって来るようだ。
野菜を育てることは、環境を単純化することだ。不自然な環境にすることだ。そこは、病の温床になりやすい。そこで雑草が生えることによって、畑を多様化し、病から守ろうとする。自然は不自然を放置しない。
雑草は、人間が自然に対して与えた傷を、修復するための、自然治癒力の発現ともいえよう。となると、雑草を敵視するわけにいかない。
畑を放置して、雑草の生えるままにしておくと、やが多年草が優先し、灌木が現れ、永続する樹木を中心とする森が成立する。
自然は、つねに多様な種を共生させ、安定と永遠を目指している。偉大、完全性という言葉は。自然にふさわしい。(P32)
■文明は、とくに貨幣経済の全面化は、人々の気持ちを未来へ向けさせた。明日の幸せを目指して、価値(貨幣)の増殖に熱中する。それは、現在の変更を絶えず迫る。長い間反復してきた、畑とその周辺の関係性は、変更される。畑の背後の存在は無視され、不在になった。そして、畑を力まかせに、屈服させていく。科学肥料、農薬、ビニール、機械力で。畑の表情は醜悪になる。全体の関係性を認識する意欲は、失われていく。
かくて、耕作者は、全的存在から、部分的存在へと断片化して、収縮していく。(P22)
■自然状態にあっては、人々はみんな、全的に心身を働かせ、自然と交流していたのであった。人々は、全人格的な存在だった。
自然状態では、そもそも「労働」というものがない。生活資料を手に入れる行為は、仕事とも遊びともいえない。実際、未開社会では、仕事と遊びは一つの単語で表されるという。・・・
分業は、労働が肉体労働と精神労働に分化したところから始まった。人間的活動が、部分的になったのだ。
労働は、人の隷属が始まったところから、分業とともに現れた。
分業によって、人々の思考も分割され、部分的になった。それは、自然の認識の部分化と相応している。全体の把握がますます困難になっていく。専門家に従う習性が身についてしまった。その都度専門家に追従し、隷属していく。しかも、世界の総体に無知なる専門家に。それは、人の隷属との対の関係になっている。その関係も意識されることはない。(P56)
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