なんだかモヤモヤする。
レビューを読んでもそういう人はいるようだ。というか怒っている人も少なくない。
あ、ちなみに読んだのは単行本の方。もう文庫で出てたのね。
だいぶ前に出た売れた本だし、評論も多く出ているので本の内容は飛ばして、例え話をする。
例えば音楽で言うと、
「一昔前のジャズ評論家には、ジャズ喫茶のマスターが多い」
という事実に、疑問を持つかどうか?というのが似ていると思う。
「ジャズ喫茶を経営されるくらいだからお詳しいんでしょ?一日中ジャズを聴いているわけだし」
と思うか、
「ある程度は音楽理論とかわかってないと、即興性の強いジャズなんて理解できなくね?つか現場行ったり、インタビューすらしてないの?英語できないの?」
と思うか、どっちだと。
評論にも種類があって、「自分がどう感じたか」という事を書く小林秀雄のような方向性もあるので一概には言えないのだけど、一時は影響力を持っていたジャズ評論家にジャズ喫茶経営者が多かったのはやはり私は疑問に思う。
極端に言うと、ある程度理解していないと聴いていても細かい差異がわからず、総じて「ジャズっぽいな」としか思えないからだ。ハッキリ言って、これはジャズギターを習う以前の自分にも当てはまる。
それまで10年ギターを弾いて、メタルで契約まで行った事もある自分ですらこの程度だったのだ。
でも当然といえば当然なのだ、「ルールが違う」から。
こんな例えを出したのは、おそらくよく比較されているであろう『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の増田俊也が自身もかつて競技者であったのに対し、この本の作者である柳澤健はただファンであり、編集者であった、という違いかな、と思ったからだ。
「じゃあお前がやってみろ」とか「評論家なんてのは所詮夢を実現できなかった奴がいちゃもんつけてるだけだ」っていうのは、小説だろうと音楽だろうと映画だろうと格闘技だろうとスポーツやお笑いだろうとあるものだ。
成功したとたん手の平を返す。評価する、教える側になったとたんコロッと態度を変える。どちらもある。
なんでこんな事を書いているかというと、なんというか、とてもよく取材していて資料的な価値はあるだろうし、間違いなく文章はおもしろい。
・・・・でもなにかひっかかる。
対象に対する、「愛」とか、それこそ「夢」でも「憎悪」でも「呪い」でもいいんだけど、そういうものが伝わってこない。
「よく調べられた資料の1つ」としか思えないのだ。
それも、プロレスファンがUWF幻想を通過した後にUFCショックを受けて、そのまま離れてしまったような、良くも悪くも活字が好きでサブカルタイプのファンの作った資料。
アントニオ猪木へのインタビュー依頼の手紙の中に「調査報道」という言葉が出てきて、あぁ、そうか、「調査報道」なんだな、と腑に落ちた。
そして、「調査報道」の割には主観入りすぎだな、と思った。それなら著者がどう思ったかなんて必要ないのだ。
そう考えていくと、「じゃあなぜ本として出版するんだ?」とまで思ってしまう。
売れる本を書こうとした、という以外の理由が見つからない。
それは経済活動としては当然で、実際売れたので万々歳なんだろうけど・・・なにか偽装されたような、不快な気分になる。
ここまで綿密に取材し、素晴らしい文章力で書かれているから尚更だ。
これが、例えば毒々しい表紙のコンビニ売りのムックかなんかで、プロレス好きの三文フリーライターが書いたのなら、なんとも思わなかったかもしれない。
上手すぎる、なのに、そこに熱を、ソウルを感じない。
こんなに悲しい事は無い。
フリーランスになって、1冊目。鉄板ネタで行きました。っていう感じしか受けない。
アントニオ猪木は全てを語らない。
モハメド・アリは全てを語らない。
誰だってそうだ。
文庫ではアントニオ猪木のインタビューも収録されたようだが、絶対「プロレスはショーだ」なんて言うわけが無いし、そう言質を取ったからといって、どうなるもんでもない。
人の言う事なんかあてにならない、だからこその「調査報道」の取材でしょ。「調査報道」などというなら、もっと冷徹にそれにだけ拘ったら良かったんじゃないだろうか。
このインタビューで↓
https://allabout.co.jp/gm/gc/212938/2/「プロレスメディアではできないでしょ? 猪木さんにリアルファイトを挑むなんて。
プロレスメディアは猪木さんのファンタジーを守ろうとしている。僕はプロレスメディアではないから守らない。それだけのこと。」
なんていまだに言っているのがもうね・・・。そんなん『徹子の部屋』とか『ここがヘンだよ日本人』でもあったわ。「韓国プロレスにはアントニオ猪木がいない」ってテリー伊藤が言っとるわ。