2018年06月15日
児童相談所機能と権限強化が望まれる
昨日、東京都の小池知事が、目黒区の5歳女児の虐待死事件を受けて、
今後、東京都では児童相談所の相談員や心理士の増員を発表し、
今後、児童虐待への対策をとることと個人情報保護の収集や運用について柔軟に対応できるよう国への働きかけをすると発表した。
個人情報保護法の本来の目的は個人の情報が不正な目的に使用されることで個人に不利益な生じないことを目的としているが、
近年は個人情報保護法がネックになり、虐待情報の提供、収集に支障をきたしていた問題があった。
それだけでなく、個人情報保護法という壁のせいで逆に社会弱者救済のネックになっている弊害が顕著になってきた。
したがって、今後は個人情報保護法のあり方の見直しが必要であると思う。
小池知事は以上のことを国に提言し、東京都として対策をこうじるとしているが、それでも不十分であるという意見がある。
それは、児童相談所に子供を虐待する親から守る強制権も、強制調査権もないのが問題だという意見が多い。
私もそう思う。
子供が死に直面するほどの理不尽な虐待の事実があるにも関わらず、
相談所には手だしができない盲点がある。
したがって、児童相談員の人数を増やすだけでなく、子供への日常の虐待事実があり、
子供の命に危険があると判断される場合は、児童相談所は親からの親権を一定期間あずかり、
育てる権限を与える法律整備と施設を作ることを緊急に行うべき思う。
なぜなら、幼児虐待死事件は今回が初めてではなく、今まで何度も繰り返された社会問題であるからだ。
ネット上では警察と児童相談所がタックを組み、権限強化の声が多い。
児童相談所職員を増やしたところで、親が家への立ち入りを拒めば、
虐待児童を救うことができないという意見が多い。
私もそう思う。
解決できる社会問題の放置は国政や行政の怠慢であり、
それらの法整備を行うのが国会議員や地方議員の仕事である。
子供は日本の宝であり、日本の将来と希望そのものなのだ。
変態性癖の心理
要因.9).心理学的な原因
苦痛と快感という感覚と経験や記憶はさまざま心理ベクトルを生じさせる。
・苦痛体験による心理ベクトルは以下の方向性を心に生じさせると考えられる。
1、苦痛(精神的苦痛として恐怖、不安、怒り)等から遠ざかりたい欲求
2、将来的な苦痛回避と快楽追求、安定を求める欲求
3、苦痛回避のための集中力の増加
4、苦痛対象に対する能動の減退
5、気分の一時的な落ち込み後に心が静かな方向へ進み自分自身を見つめる方向
6、過去の苦痛類似体験を回避したい欲求(苦痛反復回避)
7、相手の現状を理解する理解力の増大(自己以外の他者に対する思いやり等)
8、苦痛回避のための他者への攻撃衝動または拒否欲求
・次に快楽が生む心理ベクトルは以下が考えられる。
1、快感を生じさせる対象物に執着する作用
2、更に強い快感を求めるまたは持続を求める欲求、快感欲求反復の欲求
3、自己中心性の増強と快感を邪魔する他者への攻撃衝動
4、快楽追求の能動的行動の拡大
5、目的や対象物に集中する作用(没頭するなど)
6、快感を生じさせる能動範囲の拡大(興味の拡大)
7、快感類似行為の学習能力増強作用
心理学的には異常性癖者は、幼児期に愛を適度に受けなかった人間が、いつまで経っ
ても欲求が満足されずにいる状態としている。(愛情を受けることを感覚的に飽きていない。
つまり、飽きることは苦痛であるから、飽きないことは飽きる(苦痛となるまで)まで何度も欲求として現れる。
飽きて苦痛となれば、生物的衝動により苦痛から離れようとするため欲求は無くなる)自分が愛されているという感覚
認識ができないため、自分に注意を向けさせる無意識的欲求により、相手を傷つけたり、または自分を傷つけることにより、
自分に注意を向けさせたい衝動がつきまとうという理論である。
つまり、愛とは一言ではいいがたいが相手を通じて、自分の存在意義を認識する
要素もあると言えそうである。自己存在認識確認の欲求
人は幼児期、大人からすればたわいのないおもちゃ遊びやままごと遊びなどに夢中になり、それらに楽しさを感じる
しかし、大人になれば子供の頃のような遊びには興味が無くなるのが普通である。
それは、子供の頃の遊びに飽きて苦痛になる、意味の無いことに興味が向かなくなることが要因としてあり、
成長する過程で現実を学習し人として生きることの方向に目覚める。
つまり一種の認知療法が成されたのと同様の効果、経験による認識の変化によって、
欲求構造が幼児性から成人へと変化するためと考えられる。
幼児を観察すると幼児は自分に注意を向けさせるため、欲求不満時に、泣いたり、
親に対して攻撃的行動をとったり、わざと転んで泣いたりする自虐行動がよく見受けられる。
このような衝動が大人になっても満足されなければ、相手を傷つけたり、
自分を傷つけることによって、愛する対象を自分に注意を向けさせようとする(自己存在認識確認の無意識欲求) 無意識が生じるものと考えられる。