仕事はきついが、やりなれた仕事であると自分では考えており、その目的とするところは生活するためにはお金が必要であるため、
生きるためにやっている。
だが、生きるための前提として人の役に立つことをする必要がある。
そうしないと客先からのリピートが無く、存続ができなくなる。
若いころ、仕事がきつい中でどうして仕事をするのかを哲学的に考えたことがある。
その中で導き出した結論は、人類の歴史を見るとわかる。
人類はより多くの人が継続的に幸福に生きる方向に発展してきているという事実。
その根本は人類の生物学的な本能欲求が根底にあるからだといえる。
もし、生物学的本能欲求が多くの人々が幸福に生きることを望まなければ、
人類は発展してきてないし、平和も幸福もないだろう。
人の役に立つことに喜びや意義を感じるのは教育だけが要因ではなく生物としての本能欲求が大きく関係していると思う。
それは、自分が何かを行ったことで相手が喜んだり、満足することを認識することによって、
自分の存在意義を無意識に認識した結果生じる満足感や快感という形で表出する欲求満足であろう。
私はこれを自己存在認識確認の欲求と呼んでいる。
本能欲求はもちろん自分が幸福で楽しく生きようとする利己的な部分もふくまれるが、
人々が互いに干渉しあうことによって、お互いの利己的な欲求がぶつかるとき、
お互いの利益のためにおのおの自己の利己的な部分を抑制することが必要であり、
それによって、妥協点が見いだされ、利己的な欲求が減衰または打ち消され
総合することによって、社会的な良い欲求に変換されるといえる。
しかし、その利己的な欲求が強すぎる者や集団は悪の道に進むのであろう。
そして、自分だけの欲求や利益追求のために多くの人の幸福や平和、
生活の安定、命を奪い、犠牲を出して人類の発展を阻むことになる。
それこそが悪であり、悪にならないためには人の役に立つ「仕事をすること」が
大変重要であり仕事によって人間が磨かれることが多々あるのだと思う。
世の中で良いことを多くすれば死後に天国に行き、悪いことをすれば
地獄に落ち苦しみ続けるという仏教の考えは間違っていないと思う。
すなわち、仏教の究極は自忘利他といわれている。
誰でも仕事を通じて人の役に立とうとする時、瞬間的ではあるが自忘利他の境地に近づくことがあるのではと思う。
自忘利他は自分を犠牲にし他人を助ける行為であるから、まず、自己の利己的な欲求を抑制する必要が生じるため、
苦しさが伴う場合が多いと思う。仕事は自分にとって苦しいが人の役に立つのならばやる。
その代償として給与がもらえる。
逆を言うなら、生活のために給与が必要で、それをもらうために人の役に立つ仕事をする。
その時、瞬間的ではあるが自忘利他に近づく場面ができるということだと思う。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image