人は、何か義務があると信じていると、罪悪感を抱きやすいと思います。
例えば。
私は主人を幸せにする義務があると信じている場合。
主人が「味噌汁がぬるい」「室温が低い」「洗濯物がたまっている」「部屋が散らかっている」
などと言えば、「あぁ大変!今彼は幸せを感じていないんだわ!私は彼を幸せにする義務があるのに!」と罪悪感を感じ、主人が快適に過ごせるようにもっと頑張ろうとするでしょう。
また、主人が私を幸せにする義務があると信じている場合。
私が「なんでうちの車はベンツじゃないんだ」「もっと良いバッグが欲しい」「なんで昇進してもっと給料を持ってこないんだ」「もっと給料が良ければ家政婦が雇えるのに」
などと言えば、「俺は妻を幸せにできていない。なんてふがいないんだ。」と罪悪感を感じ、もっと働いて給料を稼いだり、家事を手伝ったりするかもしれません。
でも、私も主人も、お互いをそこまで幸せにする義務はないと思っています。
そして、自分の幸せを相手にかなえてもらおうという気もあまりありません。
大体、夫婦であっても自分の幸せは自分で何とかしようと思っています。
だって、夫婦と言っても他人だし。
自分と配偶者は異なる人格だという事が分かってるし。
そもそも、そこまで相手のことをいつも考えている訳じゃないし。
でも、自己愛性人格障害者とそのターゲットの関係は違います。
自己愛性人格障害者は、「ターゲットは俺を幸せにする義務がある」と信じているし、
ターゲットは「私は自己愛を幸せにする義務がある」と信じこまされています。
なので、自己愛の不幸→ターゲットのせい、という図式になっています。
だから、ターゲットは常に自己愛のことを考えていなければなりません。
でも、たまにその自己愛性人格障害者の不幸がターゲットのせいにできない場合もあります。
(というか、ほとんどがターゲットのせいではないのですが)あまりにも理不尽すぎる事柄、例えば「雨が降っている」とか、そんな感じの事です。
そういうときだって、自己愛は巧みに「長靴がない!」とか「なんで前もって雨が降ると伝えなかったんだ!」とか言ってターゲットの落ち度を作るのです。
だから、自己愛性人格障害者のあターゲットは責任感が強く、優しく、人をあまり疑わない人が適しているんですね。
でも、自己愛を幸せにする義務なんてないですから。
あの人たちは自分のお尻を自分でふけない情けない人たちなんですよ。
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