「【薬物依存症より】「ネズミの楽園」実験」の記事に、
自分でやめたくてもやめられない、というのは、その依存対象そのものがもたらす快感もありますが、やはり苦痛やストレスから逃れるためにそれを使用して自分を癒しているという意味合いが強いのでしょう。
と書きました。
さて、自己愛性人格障害者がいじめ依存症になってしまうほどつらい苦痛やストレスとは何でしょう。
やはりそれは、自己愛性人格障害の特徴である
「ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む」
これに尽きると思います(笑)。
大体、自己愛性人格障害者が妄想するように、彼らは優秀でも偉大でもないのです。
だから彼らの日常は現実と妄想の乖離のせいで苦痛とストレスにまみれています。
なので、自己愛性人格障害者たちは薬物依存症者が薬物を使うように、他人を虐める事でつかの間の快楽を得てその苦痛やストレスから逃れているのです。
また、「【薬物依存症より】心の酔い」という記事に、
長い間「気分を変える」物質に酔った状態で生きるのが習慣化すると、自分でも気づかないうちに物の考え方や感じ方に独特の変化が生じてくるのだそうです。
その変化は単純化して表現すると、「自己中心的、ひとりよがり、あるいは周りが見えない考え方、感じ方」になるのだそうです。
例えていえば、「アルコールを摂取して気が大きくなっている状態」。
この世で一番偉いのは自分。一番苦労しているのは自分。周りの人間は馬鹿ばかり…。
こうしたものの考え方が、薬物やアルコールを摂取しているときだけではなく、しらふの時にも持続した状態が「心の酔い」なのだそうです。
と書きました。
この「心の酔い」の状態。
まさしく"普段の"自己愛性人格障害者ですよね。
自己愛性人格障害者は、他人への虐待という「薬物」を使う事で快感を得て、辛い現実から目を背け自分がこの世で一番素晴らしいという妄想の世界に必死にしがみついているのです。
(まぁ、自己愛性人格障害の場合、「一番偉いのは自分。一番苦労しているのは自分。周りの人間は馬鹿ばかり…」という思想がまずあって、いじめ依存症になるという、卵が先かニワトリが先かという問題はあるかもしれませんが。)
本当にこの薬物依存症の方たちの「心の酔い」という状態は、あまりにも"普段の"自己愛性人格障害者と似ていて驚きです。
そして、「【薬物依存症より】回復するには」という記事に、
依存症から回復するには、本当の自分をさらけ出しても承認してもらえる場所(自助グループ)が必要なのです。
薬物依存症であれば、世界で一か所だけでいいから、安心して「クスリを使いたい」「クスリを使ってしまった」「クスリをやめられない」と言える場所、その気持ちに共感し、受け入れてくれる環境が必要なのです。
と書きました。
さて、自己愛性人格障害者たちが、「いじめ依存症」を克服し障害を克服するためにも、自助グループが回復の助けになりそうです。
他人を虐める事で自分を保っていたと自分の弱さを告白し、それを周りから受け入れられ、問題解決に向けて共に歩む同士がいれば、彼らもまっとうな人間としての第一歩を歩める可能性はあると思います。
しかし、現実はそううまくは行かないでしょう。
そもそも、自己愛性人格障害者たちは、いじめではなく相手が悪いという体裁をとっており、自分はあくまでも「偉大な俺様が悪い相手を懲らしめ、良い方向に導いている」という認識しかありません。
いじめる事で自分の苦痛を軽減しているという事実に無意識に蓋をしているのです。
なので、自分の心にある「他人をいびりたい」「他人をいびってしまった」「他人をいびるのをやめられない」という欲求を認識できないので、自助グループで問題を話し合う事も出来ないでしょう。
また、自己愛性人格障害というのは、「自分の中のマイナスの部分を認められない、それを認めたら死ぬ」くらいの障害なわけですから、薬物依存症の方たちのように「弱い自分をさらけ出す」というのも相当難しいでしょう。
薬物依存症の本にもある通り、依存症の回復には自助グループが有用だと思いますが、自己愛性人格障害者たちの「いじめ依存症」はそれも叶わないという事で、一生良くならない、むしろ年々悪くなる依存症と言えると思います。
依存症というのはより強い刺激を求めるものですから。
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以上、薬物依存症と「いじめ依存症」である自己愛性人格障害との共通点・相違点を見てきましたが、回復する見込みがないという意味では自己愛性人格障害者の方がたちが悪いと言えると思います。
という事で、自己愛性人格障害者の被害に遭っているいる方がいらっしゃいましたら、自分の人生を無駄にしないためにも1分1秒でも早めに逃げる事をお勧めします。
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