2024年12月13日
カープ選手の背番号「00」「4」「5」「19」の歴史。
【広島好き】「00」「4」「5」「19」の背番号物語。過去にカープで背負った選手を振り返る
12/13(金) 19:19配信
J SPORTS
背番号19だった野村祐輔
カープでは来季に向けての新背番号が発表され、4選手が背番号変更となりました。今季チームトップの11勝を挙げた床田寛樹が「28」から「19」、代走の切り札的存在だった羽月隆太郎が「69」から「00」に変更。
フレッシュな三遊間を組んだ小園海斗が「51」から「5」、矢野雅哉が「61」から「4」と、主軸選手としてひとケタの数字を背負うことになりました。代々受け継がれる背番号は、球団の歴史そのものとも言えますが、この4選手が受け継いだ番号、過去にはどんな選手が着けていたのでしょうか。
まず、野村祐輔の背番号を受け継いだ床田の「19」ですが、2000年代は02年に先発として13勝をマークした長谷川昌幸や、リリーフで活躍した上野弘文など、右の本格派投手の番号というイメージです。
しかし、1980年代後半から90年代前半を見ると、左殺しのワンポイントリリーフとして、438試合連続救援登板と当時の日本記録を樹立した清川栄治、1991年に中継ぎとして46試合に登板した石貫宏臣と、サウスポーが着けた背番号でした。
チームが初優勝した1975年には『キックの宮』と呼ばれた宮本幸信も着けた番号ですが、左腕の2人はいずれもリリーフ投手で、昭和の時代を見ても左の先発でエース的存在の投手は見当たらず、床田がこの番号でその地位を築くことができるか、注目したいところです。
羽月の「00」は、今年まで着けていた曽根海成に、その前が中東直己と、羽月と同タイプの代走、守備などスペシャリストの番号となっています。2000年代後半の山崎浩司も内野守備には定評があった選手で、塁上の走者をアウトにする『隠し球』を得意とするなど、個性的な選手でした。
1991年に4番も任されたアレンが最初に着けた番号ですが、2004年のブレイク前年まで嶋重宣が4年間背負った番号ということは、意外と知られていない事実かもしれません。
小園と矢野の新背番号は、さすがにひとケタ番号ということもあり、球団史に名を残すような選手が多く見られます。まず、小園の「5」は、2023年に西川龍馬が1年だけ着けた背番号で、その前は長野久義でした。
古くは1960年代の藤井弘や1990年代の町田公二郎(康嗣郎)など、『右の大砲』のイメージも強い番号ですが、極めつきはやはり2006年から10年間、この番号を着けた栗原健太でしょう。
栗原は金本知憲、現監督の新井貴浩と、主軸打者が立て続けに阪神へFA移籍したチームの4番打者として、低迷が続いていたチームを支える存在でした。また、この番号は第一次黄金時代の1970年代後半から1980年代前半にシェーン、ギャレット、デュプリー、近年もルナなど、外国人選手の番号でもありました。
矢野の「4」は、最近4年間は空き番号となっていましたが、2010年から2020年までは、現打撃コーチの小窪哲也の背番号でした。その前が尾形佳紀、外国人選手でもアイルランドやシーツなど、日米関わらず『シブい』印象の背番号ですが、この番号で最初に主力選手として活躍したのが、初優勝時にレフトを守っていた水谷実雄です。
山本浩二、衣笠祥雄のひとつ下の世代となる水谷は、1976年から球団初となる3年連続打率3割以上をマークした好打者で、1978年には球団記録となる打率.348で首位打者のタイトルを獲得しています。
さらに1985年からこの番号を背負った正田耕三は、俊足、好守巧打の二塁手として、首位打者2回、盗塁王1回の実績を誇る名選手です。1987年にNPB史上初となるスイッチヒッターの首位打者となった正田ですが、タイトル獲得を決めたのは最終戦でのバントヒットで、本塁打0での獲得も2リーグ制後、初の記録でした。
1989年に獲得した盗塁王は、4差で追うシーズン最終戦にNPBタイ記録となる1試合6盗塁でタイトルを決めるなど、勝負強さも光る選手でした。
来季から新背番号となる4選手は、歴代OBを凌ぐ活躍で球団史に名を残す選手になれるか。変革を掲げながら、全くその兆候が見られないオフに、新背番号はささやかな『変化』の話題となりました。
文:大久保泰伸
大久保泰伸