2024年10月16日
久々に情熱を感じた開拓者の動画
最近、コメ不足だというので関連した動画を見ていた中で偶然、秋田県の大潟村の涌井さんをニュースが取り上げた動画が表示された。
その動画には60年前に新潟県の山間地から秋田県の大潟村に米農家を夢見て移住し干拓して入植した涌井さんのものだった。
秋田県の大潟村は海とつながる広大な湖というか干潟である八郎潟の大干拓であり、日本国内でも農業の大型プロジェクトだ。
日本地図でもわかるくらいの広大な湿地帯を埋め立て、人工的に広い区画で水田地帯と農村を造った。
1950年代までの日本は食料不足に悩まされ、江戸時代にはお米をつくる百姓さえ、白いコメを食べる機会が少なく、雑穀などを食べていたとされる。
収穫したコメは5割から6割が年貢として、いわゆる納税という形で上納する仕組みだった。
土地を借りて農家をする小作人の場合、主にヒエやアワを食べ、白いご飯が食べれるのは正月と病気の時くらいだったといわれている、農家の多くが食べ物が十分でなく貧困にあえいでいたとされる。
よって、江戸時代から終戦後20年くらいまで開墾や農地整備が推進されてきた。
戦後になると米の品種改良がすすみ、寒冷地に強く、収穫量も多く、病害虫に強く、おいしい味の米になるように、全国各県の農業関係の研究センターなどで、お米の品種改良などがされてきた。
しかし、1970年代に入ると、戦後に食料不足でアメリカから浸透したパン食が増えた。
国内ではカップラーメンや煮るタイプのラーメンも普及した。
また、パン食など小麦粉食品が増える中でお米の消費量は減少を続け。
60年前は一人の米の消費量が1年間に110kg食べていたものが2022年の調査では50kgまで減少し、ごはんが余る傾向になってきた。
それどころか、1980年代からアメリカに自動車を輸出する条件としてアメリカの農産物の輸入をすることを日本政府にせまり、日本政府はその条件を受けて、
アメリカのオレンジ、牛肉、カルフォルニア米などが日本で輸入することになった。
それでコメ余りとなり、日本では減反政策がはじまり、米を作らせない政策を実施してきた。減反政策は2018年まで続いた。
しかし、涌井さんはその方針に若いころから反対し、自由に米をつくることを主張した。
3年前に廃校になった小学校を改築して外国向けのパックごはんの販売にのりだしたのだった。
考え方が今の世界ニーズにあっているのだ。
世界の人口は50年前40億人だったものが昨年は80億人と倍増し、当然食料は足りていない。
お米を食べる文化は近年の寿司やおにぎりの知名度の上昇、お米はグルテンアレルギーの人に支持され欧米をはじめ世界に広まっている。
欧米の寿司は海苔巻きスタイルのものだが、お米は粘り気のある日本産が人気である。
日本国内で米が余っているのなら、外国へ輸出すればよく、食べる際に外国では炊飯器を持っている家庭が少ないが
電子レンジなど多くの家庭で持っていることから、パックごはんととして海外を市場に販売しはじめた。
それと涌井さんは日本の農業のあり方も、守る農業から、コメや野菜をたくさん作って、外国など
売れる外国に輸出する攻めの農業、日本国内向けに玉ねぎを生産して販売する取り組みも行っている。
玉ねぎは健康にいろんな面で貢献する野菜である。
もすでに40年前に日本での食料自給率の問題を提起し、
今現在は2050年には農家が大幅に減少して、日本国民がたべる食料の問題も明白に述べている。
私の実家ももと江戸時代から続く農家だったが、農業ではとても生活ができないから、廃業した。
涌井さんが言うには、守る農業ではダメで、農業を家庭産業から事業化して攻める農業をする必要があるという。
日本農業を個人経営から企業化して、季節に関係なく収益性のある産業にする必要があるという。
特に米農家の弱点は冬に仕事がないことである。
それではビニールハウス栽培もあるが、冬の暖房費と設備費の更新で相当うまくやらないと経営がうまくいかない。
そのような農業であるから農業人口が減少し、若者の入職が少ない。
最新のセンサーや検査装置、ITやインターネット技術を使ったスマート農業の推進が必要だという。
守る農業から攻める農業に転換しないと日本での農業は衰退してしまう。
国内の統計でも農業従事者の平均年齢は68歳であり、その8割が高齢者であるため、今後10年、20年したとき、
日本人の食糧確保で大きな問題になると述べ、せめて10年以内には日本政府も農業者も抜本的な体制の改変が必要との意見に私も同感である。
涌井さんの40年以上前の意見は今となれば正しかったし、今現在、日本国内でも農業から出荷、
マーケティングまで挑戦して、日本国民の食糧の源の農業のあり方を追及している姿勢に感動した。