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城用語 御前曲輪 御前とは(高天神城 御前曲輪) [2020/07/11 22:41]
要害の地に築かれた高天神城の本丸付近に『御前曲輪』と呼ばれる曲輪があります。この御前は、身分の高い武将に対する敬称ではなく、神仏を指すと受け止める方が適切のようです。曲輪とは城の区画のことですので、それに御前がつくということは、何らかの祭祀の場と思われます。 <御前曲輪近くの鳥居> こちらは高天神城の御前曲輪に隣接する天神社です。江戸時代に別の曲輪へ移されましたが、もともとはここ鎮座していました。 <元天神社>もとてんじんしゃ いわゆる天神さまですね。..
荒々しい山城で出会ったほのぼのパネル武将(高天神城 御前曲輪)城主・小笠原信興のなごり [2020/07/10 22:30]
武田と徳川による壮絶な争奪戦のなごりを留める高天神城。歴史的な重みに加えて、かなり特徴的な縄張りと見事な遺構、そして荒々しい山肌。それほど大きくはありませんが、城マニアをうならせる『中世の土の城』です。そんな城跡ですから、あまり『観光地』という雰囲気は漂いません。それだけに、若干違和感があるのが下の画像です。 本丸の南側の御前曲輪で撮影。武将とお姫様を象った顔出しパネルです。 明らかに異質です。ちなみに、背後のコンクリートもこの城跡にあっては異質。では駄目なの..
信玄でも落とせなかった山城を攻略した武田勝頼(高天神城)  [2020/07/09 22:00]
今回は偉大な父の跡を継いだ武田勝頼の話です。 ■武田家を滅亡させたイメージ■ 勝頼は武田信玄の息子であり後継者ですが、カリスマ武将の父との比較で、評価はあまり高くありません。武田家は勝頼の代で滅亡したことは事実ですから仕方ないですかね。ただ、まるで無能だったかのような扱いで描かれている映画や小説を目にすると気の毒で、当ブログでは何度か勝頼を庇うような論調で投稿させて頂いております。良かったら覗いてみて下さい ⇒武田勝頼は弱くない!(蒲原城) →『記事へすすむ』..
犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道 [2020/06/18 21:49]
つわものどもが夢の跡 今回は天然の地形を巧みに活かした高天神城の険しい尾根道と、そこを駆け抜けた戦国武将の話です。 <甚五郎抜け道> ここは険しい山城の抜け道。細い尾根道が続き『犬戻り・猿戻り』とも言われる難所です。意味ですが、たぶん機敏な犬や猿ですら行きかけて戻ってきてしまう険しさということでしょう。 <説明板> 軍艦の甚五郎が落城を報告すべく駆け抜けたということですね。以下に転記します。 『天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍艦横田甚五郎尹松は本..
大手門番所 掛川城大手門のなごり [2019/11/17 00:30]
つわものどもが夢の跡 今回は城門と番所の位置関係が絶妙な掛川城の大手門の話です。 <大手門の外観> 威風堂々!立派です! ■復元された大手門■ 実はこの門の存在を事前に知っていたわけではなく、掛川城から駅までの帰り道に偶然みつけました。行きとは違う道で帰ろう。そう思ったことが幸いしました。むかしのものではないことはなんとなく察知しましたが、とても雰囲気のある門です。 見えないところもしっかりと 現地の説明板で、復元であること、そして本来..
掛川城のなごり [2019/11/16 06:06]
つわものどもが夢の跡 山内一豊の居城として知られている掛川市の山城を訪ねました。 <山頂の復元天守> ■中世から始まる城■ 始まりは駿河の守護大名今川氏が、勢力拡大を目論んで築かせた山城でした。築城者は今川氏の重臣・朝比奈泰煕(やすひろ)。以降代々朝比奈氏が城を守っていました。当初は子角山(ねずみやま)と呼ばれる丘陵に築かれていましたが、のちに龍頭山(りゅうとうざん)に移転。この龍頭山は、現在の復元天守が佇む山です。すぐ南側には逆川が流れ、天然の堀として機能し..
欠川と呼ばれた川 掛川城下の逆川にて [2019/11/16 05:53]
この日は駅から徒歩で掛川城へ。まもなく到着というところで、橋を渡ることになりました。 <松尾橋> 山頂に築かれた掛川城天守閣が既に見えていましたが、しばしここで足を止めました。城好きなら当然想像するであろうことを味わうために。 これが天然堀だったわけか <逆川>さかがわ 川の名は逆川。掛川城の南側を流れる天然の川です。この川はいわゆる暴れ川で、しばしば氾濫したそうです。堤防が欠けるということから欠川とも呼ばれ、それが当地の地名の由来となっています..
千代と一豊と駿馬 清水銀行掛川支店にて [2019/11/11 22:44]
掛川城へ向かう途上、古風な建物と出会いました。 城下町を思わせるこの素敵な外観。良く見たら銀行でした。清水銀行掛川支店です。建物も魅力的ですが、外壁のレリーフがひときわ目をひきます。場所が場所ですから、あの武将は掛川城主にもなった山内一豊?ですよね。お隣は遠くからはよく分からず、個人的にモーゼを思い出してしまいました。そんな組み合わせあり得ませんが・・・ <外壁のレリーフ> こて絵でしょうか?良くできています。モーゼに見えた人物の正体は一豊の妻・千代でし..
駿府城下 上石町のなごり [2019/11/10 22:18]
城下町を訪ねると、職業や身分に由来する地名をよく見聞きしますよね。鍛冶屋さんが住んだであろう鍛冶町、人形を作る職人又は扱う商人が住んだであろう人形町、染物商(紺屋)が多く住んだであろう紺屋町、呉服町、材木町、大工町などなど。身分だと鉄砲足軽が集結していたと思われる鉄砲町、同心町などなど。 今回訪問した駿府城の城下でも、職人や商人を職業ごとに分けて住まわせたなごりを感じることができました。呉服町、両替町などなど。そんななか「え?あぁそういうことだったのか」と思った名があり..
家康が青春時代を過ごした駿府(今川館) [2019/11/05 21:50]
(駿府城の追記です) <駿府城本丸跡の家康像> 徳川家康が少年時代を人質として過ごしたことはよく知られていますね。今川義元のもとで預かりの身となり、8歳から18歳までの約10年を駿府(現在の静岡市)で過ごしました。もう少し具体的言うと、今川家が本拠としていた「今川館」ということになります。 今川館のあった場所には、家康の手によって駿府城が築かれました。家康にしてみれば、勝手知ったる場所に新たな城を築いたわけですね。 ただ、立派な城郭が完成した結..
駿府城のなごり [2019/11/04 21:33]
つわものどもが夢の跡 今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。 こちらは復元された駿府城の櫓です ■近世城郭■ 戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。 <家康像> 駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。 <大手門跡> ..
諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城跡にて) [2019/08/15 22:07]
武田勝頼は弱くない! 以前そんなタイトルで投稿したことがあります。 その時のブログ→『記事へ進む』 諏訪原城訪問で同じ思いが込み上げてしまいました。ほぼ同じ内容です。そんなのでも良ければお付き合い下さい。 <諏訪原城跡> ■弱いイメージ■ 甲斐武田家第20代当主の勝頼。武田信玄の息子であり後継者です。でも信玄があまりに有名なことに加えて、勝頼の代で武田家は滅亡したことから、一般的な評価はあまり高くありませんね。場合によっては無能な武将であるかの..

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