2021年04月24日

太田道灌が植えた槇の木(荻窪八幡神社)

今回は太田道灌が進軍の途上で植えたとされる槇の木の話です。
<道灌槇>どうかんまき
Tree-planted-by-Dokan.JPG
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。

<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
Ogikubo-Hachiman.JPG
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。

<鳥居>
Shrine-Gate.JPG

<神門>
Shrine-maingate.JPG

<境内>
Precincts.JPG
神門の先の境内

<狛犬>
lion-dog-A.JPG
lion-dog-B.JPG

<拝殿>
Main-Shrine.JPG
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。

河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。

源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。

道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。

<説明板>
Guide-plate.JPG
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。

『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
 文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』


とても参考になりました。ありがとうございます。

まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。

<本殿前の高野槇>こうやまき
Tree-age-over500.JPG
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。

ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。

<つわものどもが夢の跡>
dokanmaki.JPG
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。

■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]

■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24



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タグ:太田道灌

2021年04月17日

戦国大名今川家のなごり(観泉寺) 高家今川家菩提寺

戦国時代屈指の名門大名・今川家ゆかりの寺を訪ねました
<観泉寺>かんせんじ
Kansenji.JPG
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。

■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦い織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。

■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります

今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。

■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。

■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め今川家の菩提寺と定めます。

<寺号標>
Kansenji-Stone- monument.JPG
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。

<今川氏累代墓の石碑>
Imagawa-family- tomb.JPG
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。

<杉並区今川>
Suginamiku-Imagawa.JPG
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。

あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。

<観泉寺山門>
Kansenji-gate.JPG
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。

<本堂>
Kansenji-Main hall.JPG

<本堂の扁額> 
Kansenji-Gaku.JPG
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。

<鐘楼>
Kansenji-Temple- bell.JPG

<庭園>
Kansenji-garden.JPG

そして
今川家墓所

<今川氏累代の墓>
Kansenji-Imagawa's-grave.JPG
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。

<説明板>
Family- tomb-Description.JPG
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。


<つわものどもが夢の跡>
Kansenji-Imagawa.JPG
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。

■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16

■出典及び参考
・現地説明板
 (東京都教育委員会)
 (杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17


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2021年04月10日

徳川綱重ゆかりの水盤舎(増上寺)

今回は増上寺境内の水盤舎の話です。

■水盤舎■すいばんしゃ
Zojoji-Suibansha.JPG
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。

Tokugawa-family-Tsunashige.JPG
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。

綱重?

説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。

Tokugawa-family- sign.JPG
徳川家の家紋が随所に刻まれています

綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。

Zojoji-Suibansha.JPG
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね

ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。

■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35 


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2020年10月22日

伊達騒動のなごり 浅岡飯たきの井

増上寺近くの港区役所でこんな光景と出会いました。

sn488 (3).jpg
なんだろう

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井戸の跡?

sn488 (4).jpg
浅岡?飯たきの井?

<説明板>
sn488 (1).jpg
まったく何のことかわかりませんでしたが、ちゃんと説明板が設置されていました。

『江戸時代、ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
 万治三年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。
 昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。』

[出典:現地説明板]

1660年の伊達騒動とは、仙台藩で起こったいわゆるお家騒動ですね。ちゃんと説明すると登場人物も多く論文のようになってしまうので、超簡単に言えば、幼い藩主の下で起こった内部抗争です。

ちょっと雑?
もう少しだけ書き加えます。

伊達政宗がこの世を去ってから四半世紀後の話です。孫の綱宗が家督を継いでいましたが、諸々の問題から藩主不適格と見なされ、幕府の命で隠居させられることになりました。これが伊達騒動へ繋がっていきます。

家督は説明板にもある亀千代(後の伊達綱村)が継ぎますが、当時まだ2歳。叔父で陸奥一関藩主の伊達宗勝(伊達政宗の十男)がこれを支えますが、家老の原田宗輔らと結託したそのやり方がかなり強引だったようで、逆らう者たちへの粛清(切腹・斬首・追放など)が頻繁に行われました。これに納得できない者たちが反旗を翻し、伊達一門の伊達宗重を担いで幕府に訴え出るに至ります。最後は大老(酒井忠清)の屋敷で裁きとなりますが、なんとその席で伊達宗重は原田宗輔に斬られてしまい、宗輔本人は宗重派によって殺害されてしまいます。伊達宗勝は土佐藩預かりの身となり、一関藩は改易となって領地も家臣団も仙台藩に組み込まれました。

なんだそりゃ?
まだ江戸初期ですからね。かなりワイルド。そしてドロドロだったようです。

さて、説明板に登場した「浅岡の局」ですが、この方は隠居させられた三代藩主綱宗の側室であり、僅か2歳で4代目藩主となった綱村の実の母です。浅岡の局は、亀千代が毒殺されるのを恐れ、自らこの井戸の水を汲み、亀千代の食事を調理した。そういうことです。

浅岡の局は鳥取藩士三沢清長の娘(三沢初子)。第二代藩主伊達忠宗の正室の侍女となり、やがて第三代藩主綱宗の側室となりました。綱宗が正室を迎えることがなかったため、仙台藩における浅岡の局の立場は、正室と実質同じだったのかもしれませんね。

sn488 (2).jpg

増上寺子院である良源院にあった井戸。そして、わが子を権力争いから守ろうとした浅岡の局が水を汲んだ井戸。これはそのなごりということですね。

■訪問:浅岡飯たきの井
(港区役所)
[港区芝公園]


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2020年01月03日

道灌が橋を架けたと伝わる場所(台東区)橋場

つわものどもが夢の跡
太田道灌進軍ルートの途上で橋を架けたと伝わる台東区橋場。地名そのものに期待が高まり、年末の寒い時期にも関わらず足を運びました。

■橋場と隅田川■はしば
<白鬚橋>しらひげばし
shirononagori405 (3).JPG
この辺りですかね

画像は隅田川に架かる白髭橋です。昔から橋があったわけではなく、この付近に渡し、つまり渡船場がありました。

ここは武蔵と下総の境目。下総の千葉氏と争うことになった道灌は、軍事的な理由でこの付近の隅田川(古利根川)に橋を架けたと伝わります。そして、それがこの地が橋場と呼ばれる理由。そう聞くと、橋場という地名自体に惚れ込んでしまいそうです。いいですね!

名門・千葉氏は、内紛により宗家が追い出されるに至り、武蔵に逃れた嫡流の兄弟(武蔵千葉氏)は道灌を頼りました。道灌は本来宗家であるべき武蔵千葉氏を味方につけて、下総の千葉氏と対立。境界線に橋を架けたとしたら、きっとその時期でしょう。

shirononagori405 (4).JPG
隅田川の対岸を見つめ、ひとり妄想しました。何の先入観もなければ、川向うは普通に墨田区です。

<説明板>
shirononagori405 (9).JPG
近くで説明板も発見。荒川区教育委員会さんによる橋場の渡しに関する説明です。荒川区?実は白鬚橋のたもとは、台東区橋場と荒川区南千住の境でもあります。

『対岸の墨田区寺島とを結ぶ, 約160メートルの渡しで, 「白髭の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』に依ると, 古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ, 『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし, 渡しの位置は, 幾度か移動したらしく, はっきりしていない。
大正3年(1914)に白髭木橋が架けられるまで, 多くの人々に利用された。』

[出典:荒川区教育委員会]

ん?そうですか・・・

在原業平が舟で川を渡ったことは記されていますが、太田道灌のことは特に触れられていないのですね。まぁ在原業平ですから平安時代のお話として、江戸時代よりずっと以前から、人はこの付近にあった渡しを使って向こう岸を目指したということは実感できました。それはすなわち、古くからここへ繋がる道があったということでしょう。道灌もその道を通ったのですかね。

さて
いつものように「とりあえず行ってみた」ものの、現地での情報はここまででした。念のため帰宅してから調べ直すと、期待していたのとは違う情報をみつけてしまいました。

それは
橋を架けたのは太田道灌ではなく、源頼朝だというお話です。しかも橋そのものを架けたのではなく、数千の船を浮かべて「船の橋」を架けたというものでした。そして、それこそが橋場の地名の由来であるとのこと。

これにはちょっと困惑しました。ただ、冷静に受け止めてみると、それはそれで面白い話ですよね。数千はおおげさとしても、船を並べて橋の代わりとする話はよく耳にします。軍を率いる源頼朝がそれをやった。なるほど・・・

まぁ道灌であろうと頼朝であろうと、進軍がきっかけで、この地に橋場という名が残ったことに変わりがありません。

どっちもありかな

ちょっといい加減ですが、どちらの話も魅力的なので、その程度で納得しました。


■橋場探索■
せっかくなので周辺も散策しました。一番印象的だった橋場不動尊をご紹介します。
<山門>
shirononagori405 (6).JPG
砂尾山と不動院の文字。一般には橋場不動尊の名で親しまれていますが、正式名は砂尾山橋場寺不動院といいます。760年に寂昇上人によって開山されたとのこと。

<不動院本堂>
shirononagori405 (7).JPG
浅草寺の末寺を経て現在は比叡山延暦寺末とのこと。ご本尊は不動明王です。智恵により煩悩を絶ち切る道を示してくれる不動明王。煩悩だらけという負い目からか、境内にいる時だけは神妙な気持ちになりました。

<七福神>
shirononagori405 (1).JPG
年末年始だからでしょうか?それともいつもこんな感じなのでしょうか?勢ぞろいしています

ここは浅草七福神巡りのうち布袋さまも祀られているところ。この地の七福神巡りは歴史は古く、江戸時代には既に行われていたようです。普通なら7社ですが、福禄人と寿老人が2社ずつのため計9ヶ所になるそうです。

<御授地蔵尊>
shirononagori405 (8).JPG
地蔵尊の右手前には百度石。百日詣の代わりに、山門などとの間を百度往復して願い事を叶える時の目印というか、標識として立てられている石のことですね。

簡単で恐縮ですが以上です


つわものどもが夢の跡
shirononagori405 (5).JPG
現在の橋の名は向う岸の白鬚神社に因むものです

私は道灌ゆかりの地?という理由だけで訪問を決めましたが、仮に源頼朝に由来するとしても、橋場という名は兵を率いる武将が川を渡ろうとしたなごり。それだけで充分です。奥深い寺院とも出会えましたので、満足な訪問となりました。

■訪問
●白髭橋
[台東区 橋場]2丁目
[荒川区南千住]3丁目
●橋場不動尊
(砂尾山橋場寺不動院)
[台東区橋場]2丁目


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タグ:道灌

2020年01月02日

太田資長のなごり お正月の静勝寺にて

当ブログに何度も登場している北区の稲付城跡。赤羽駅から近いので、時々訪問しています。何度も行ってしまう理由は、やはりそこが太田道灌ゆかりの地だからでしょう。本日(2020年1月2日)は比較的暖かい日でしたので、赤羽散歩も兼てまた訪問してきました。

<太田道灌堂>
shirononagori402 (1).jpg
道灌が築城したと伝わる稲付城跡は現在は静勝寺となっており、境内には太田道灌の坐像が納められた御堂があります。いつもは扉が閉じていますが、お正月毎月27日には開かれ、道灌像と対面することができます。

実は昨年の今日、まったく同じことをして、静勝寺をご紹介させて頂いてます。簡単な説明ではありますが、よかったら覗いてみて下さい。
タイトル
静勝寺の太田道灌堂
→『記事へすすむ

そこでも触れさせて頂きましたが、ここはもともとは道灌寺と呼ばれていました。名前そのままですね。その方が人気も出そうですが、現在の名である静勝寺の静勝は、道灌の戒名にちなんだ名なので、意味としては同じということになります。そもそも、私を含め大半の方は道灌という名に慣れ親しんでいますが、これも法名で、元の名は太田資長(すけなが)です。

時々思うのですが、父は太田資清(すけきよ)で嫡男は資康(すけやす)、子孫も代々にわたって通字の「」を用いているので、道灌も最初から太田資長とインプットしておけば都合が良かったのかもしれません。何の都合?理由は?これはもう個人的な事情ですが、好きな武将の一人でありながら、 私はスケナガという名がとっさに出ません。いまさらもう馴染めないのです。歴史の専門の方々に笑われそうですが、素人の感覚としてお許し下さい。

<静勝寺山門>
shirononagori402 (2).jpg

年末は寒い日が続いていましたが、令和二年のお正月は元日、そして今日も穏やかな日でした。来年のお正月にまた来れるかどうかわかりませんが、とりあえず本年が良い年となりますことを祈願して『太田資長』ゆかりの寺をあとにしました。

■訪問
自得山静勝寺
(稲付城跡)
[北区赤羽西]1-21-17


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タグ:道灌

2019年12月31日

屋敷の花園跡 歓楽街の花園神社

新宿の繁華街に鎮座する花園神社をご存じでしょうか?新宿へよくいく人でも、あそこに神社があるなぁという程度で通り過ぎているケースが多そうですね。

<花園神社参道>
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江戸時代に甲州街道の宿場が設けられて以来、ずっと新宿総鎮守として街を見守り続けてきました。いわば新宿の守り神ですね。

<花園神社拝殿>
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本殿に祀られているのは倉稲魂神・日本武尊・受持神 (うかのみたまのかみ・やまとたけるのみこと・うけもちのかみ)
もともとは花園稲荷神社でしたが、昭和になって雷電稲荷神社(受持神)と大鳥神社(日本武尊)を合祀して「花園神社」となったそうです。そういえば社標に花園稲荷神社と刻まれていました。

<社標>
shirononagori397d (2).jpg
ちょっとピンボケですみません

境内社についてもちょっとだけ

<威徳稲荷神社>
shirononagori397a.jpg
こちらは女性に人気の威徳稲荷神社です。私の訪問時も、数人が鳥居の前で順番待ちをしていました。ちょっと説明が難しいので、ご興味のある方は別途お調べ願います。

<納大明神>おさめだいみょうじん
shirononagori397d (1).jpg
古くなった神札などを納めるところですが、脇に「腹の立つ事なども当神社にお納め下さい」と記されていました。こういった笑みがこぼれてしまうような計らい、いいですね。境内には芸にご利益があるとされる芸能浅間神社などもあり、ここが人気スポットとなる理由がなんとなく分かる気がしました。


さてさて
神社そのもののご紹介は、その道の皆様にお願いするとして、当ブログではなぜ花園神社と呼ばれるかについて。

歓楽街だから?

そのような不謹慎な理由ではなく、もっとちゃんとした理由があります。

神社はもともと現在地よりも南側(250mくらいとのことですから伊勢丹付近でしょうか)にありました。ところがその土地を拝領した朝倉筑後守の下屋敷内となってしまい、一般人は立ち入ることができないという事態に。困った氏子が幕府に訴えた結果、尾張藩下屋敷の庭の一部を神社にあてることとなり、現在の場所へ遷座したそうです。そこは花が咲き誇る花園の跡だったことから、神社に『花園』の名がつけられたそうです。


別な言い方をすれば
ここは尾張藩ゆかりの地ということですね。尾張藩の下屋敷があった場所と言えば、同じく新宿区の戸山公園が有名ですが、こっちの方まで屋敷だったとすると、かなりの広さですね。さすがは徳川御三家の中でも筆頭格の尾張藩です。

ということで
花園神社は尾張藩下屋敷跡というお話でした。

<新宿>
shirononagori397b.jpg
当ブログがきっかけで、足を運んでくれる人がいたら嬉しいです。

[東京都新宿区新宿]5-17-3


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2019年12月29日

道灌の宝刀が受け継がれる六本木の神社 久国神社

今回は太田道灌が奉納した宝刀がいまも受け継がれている神社の話です。

<久国神社>ひさくにじんじゃ
shirononagori394A (5).jpg
名の由来は名工として名高い刀鍛冶・久国。道灌が久国作の刀を寄進した神社です。


■粟田口久国■ あわたぐちひさくに
久国について予備知識がないので、ウィキペディアさんから情報を頂くことにします。
『鎌倉時代の刀工。粟田口派の祖・粟田口国家の子。刀工一家の次男であり、兄弟の国友、国清、国吉、有国、国綱を総称して俗に粟田口六兄弟と呼ばれる。後鳥羽上皇に御番鍛冶として召され、特に師範格の「師徳鍛冶」を拝命した。本名は林藤次郎。受領大隅権守。受領名を授かった最初の刀工である。 』
 [出典: Wikipedia]2019.12.29

凄いですね。粟田口は京都の地名、粟田口派は名高い名工集団です。久国はその祖となった国家の次男ということですね。久国の『現存作のうち1口が国宝、3口が重要文化財に指定されている。』とのこと。そして『東京都六本木に太田道灌が久国の太刀を寄進したことに名を由来する「久國神社」がある。』と説明されています。
[内出典:Wikipedia]

そんな凄い場所に来たのか

実はこれらのことを事前に知って訪問した訳ではなく、赤坂を散策中、独特の地形に魅かれて鳥居をくぐらせて頂きました。あとから知ってびっくりです。太田道灌は好きな武将の一人ですし、その道灌が奉納した刀がいまもこの地で受け継がれているという驚き。知らないということは、こんなにも感動を与えてくれるわけですね。まぁ知らないままだと何もないわけですが。

また、正宗と並ぶ名工とされた藤四郎吉光が、久国の曾孫ということも知ることができました。久国の俗名は藤次郎だったそうです。

<狛犬>
shirononagori394A (2).jpg
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目が合うと思わず笑みがこぼれてしまう狛犬さんでした

<拝殿>
shirononagori394A (4).jpg
御祭神は倉稲魂命です。ウカノミタマ、つまりお稲荷さんとして信仰される神ですね。ここ久国神社も、古くは久国稲荷神社と呼ばれていました。

神社の創建時期は不明ですが、もともとは現在の皇居内(千代田村紅葉)にあったと伝えられています。道灌が江戸城を築城するにあたり、溜池の鎮守として遷座。江戸城の溜池ということは城の南西になりますので、裏鬼門を意識した結果ということでしょうか?その後もう少し西側に移ることになり、以降この地に鎮座しているそうです。

<境内と地形>
shirononagori394A (1).jpg
それにしても凄い地形です。港区七福神の布袋様も祀られています


赤坂を探索している最中でしたので、住所がお隣の六本木になっていることも後で気付きました。いわゆる繁華街六本木からは想像できないほど静かな場所です。そんな街の秘境のようなところで、道灌の宝刀がいまも受け継がれている。非公開ですので見ることは叶いませんが、そのような所に偶然足を運べたことに感謝したくなりました。

■訪問:久國神社
[東京都港区六本木]


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