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2022年09月01日

江戸城下町のなごり(港区)新虎通りの石材

今回は江戸の城下町のなごりの話です。

<新虎通り>しんとらどおり
Shintora-Street-Median-Strip.JPG
新橋と虎ノ門の間だから新虎通り。分かりやすいですね。この道の中央分離帯には、この付近で発掘された江戸時代の石材が並べられています。

<石垣石>
Shintora-Street-Ishigaki-Stone.JPG
ただのお飾りではなく、埋蔵文化財調査により出土した本物です

<出土品>
Ishigaki-Stone.JPG
立派な石材です

この付近は江戸城に近いこともあり、比較的徳川家に近い大名の屋敷が集まっていました。これらの石材はそのなごりということになります。厳密にいうと屋敷そのものではなく、屋敷と屋敷の境の排水溝の石垣に使われていた石材とのこと。そういう意味では、城下町の治水のなごりとも言えますね。

ということで
さり気なく並べられているようで、実は江戸の城下町の歴史が刻まれている石のご紹介でした。

Shintora-Street-Stone.JPG
知れば見る目も変わりますね

■訪問:新虎通り
環状二号線(新橋〜虎ノ門)
[東京都港区新橋]

■参考:
新虎通りエリアマネジメント HP

https://shintora-am.jp/about/shin-tora/



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2022年08月15日

柳生但馬守上屋敷跡(港区)東京美術倶楽部の敷地

柳生新陰流で世に知られる柳生家の上屋敷跡を訪ねました。場所は港区新橋6丁目、地下鉄御成門駅近くです。

<東京美術倶楽部>
tokyoartclub.JPG
知る人ぞ知る東京美術倶楽部のビルが建っています。明治時代に美術品取引などを中心に活動を開始した東京美術倶楽部は、当初は料亭などを会場とし、のちに両国に拠点を構えました。しかし関東大震災で両国の社屋が倒壊すると、当時売りに出されていた芝の旧服部金太郎邸の土地(旧柳生但馬守上屋敷跡)、つまり現在の場所に移転したそうです[東京美術倶楽部ホームページより]。この服部さんは服部時計店(いわゆるSEIKO)の創業者ですね。

なるほど
で、柳生家の屋敷だったと分かるものは現地にあるのか?

ありません

立派なビルの佇まいに圧倒されるだけで、痕跡は一切ありません。隅っこの方に小さくても良いから、屋敷跡に関する説明板とか、石碑でもあれば良いのですがね。

<東京美術倶楽部ビル>
TokyoArtClubBuilding.JPG

まぁそもそも、この付近はむかしは多くの武家屋敷が建ち並んでした場所です。どの敷地もたいていは〇〇家屋敷跡ということになります。それをいちいち気にはしていられませんが、先日たまたまこの付近の古地図を見る機会があったので、何となく意識が高まった上で訪問してみました。


先日見た古地図とは

<住友浜松町ビルのプレート>
Sumitomo-Hamamatsucho-Bldg-Explanation -Board.JPG
こちらです。先ほどの東京美術倶楽部からそう遠くないビルに設置されている「芝神明町町屋跡遺跡」に関する説明板です。周辺の石材はこの付近で発掘されたものです。記されている港区教育委員会さんの説明文も良かったですが、この付近の古地図が印象に残りました。

<古地図拡大>
old-map-shibamyojin.JPG
古地図を拡大させて頂きました。画像中央、有馬知四郎?(越前丸岡藩の有馬家と思われる)の左側、横向きになっている柳生但馬守(たじまのかみ)の文字がありますね。名とともに記されていいる笠の絵は、柳生但馬守の家紋・柳生笠です。まぁ正確には、正式な家紋にかえて用いる副紋ですが、その家のアイデンティティを表すものに変わりありません。柳生家は藩主として大和国柳生藩(奈良市柳生地区)を治めていましたが、石高で言えば1万石程度で、決して大きな藩とはいえません。特筆すべきは、やはり代々将軍家の剣術指南役を務めたことでしょう。

その上屋敷があった場所。古地図に話を戻すと、画像左手(西側)には増上寺の御成門が見えています。これは現在の地下鉄御成門駅付近。そして画像右側(東側)はかつての東海道で、現在の第一京浜です。将軍家の菩提寺である増上寺のすぐ近くで、更に交通の便の良いところに上屋敷を構えていたようです。

<御成門駅>
shirononagori398 (1).JPG

<第一京浜>
Nationa-Route-Daiichikeihan.JPG

<東京美術倶楽部>
yagyuyashikiato.JPG

ということで
柳生藩柳生家の上屋敷跡の話でした。現地に痕跡はありませんが、あとから情報をかきあつめ、何となく納得しました。

■訪問:柳生但馬守上屋敷跡
(柳生藩柳生家上屋敷跡)
現況:東京美術倶楽部
[東京都港区新橋]6丁目19-15

■参考及び出典
Wikipedia:2022/8/15
住友浜松町ビルの説明板
東京美術倶楽部ホームページ

https://www.toobi.co.jp/about/history.html


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2022年08月13日

境内水路のなごり(増上寺) 徳川秀忠の霊廟の水路跡

増上寺のお隣の敷地でこんな光景と出会いました。

<水路跡>
suiroato.JPG
水路跡?こんなところに?

場所は日比谷通り沿いのこちらの門の先になります。

<旧台徳院殿霊廟惣門>たいとくいんれいびょう
Shogun-Hidetada-Grave-Gate.JPG
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている徳川秀忠(=台徳院)の霊廟の惣門です。かつて増上寺にあった霊廟の多くは、東京大空襲で焼失しましたが、秀忠の霊廟への入り口となるこの門は難を逃れました。貴重な遺構ですね。重要文化財に指定されています。

<惣門の先>
Tokugawa-Hidetada-Grave-Gate.JPG
惣門を過ぎると階段があり、登り切ってすぐのところに水路跡の評柱が設置されています。

<水路跡から見た惣門>
Shogun's-Grave-Gate- (10).JPG
こんな所に水路?これはどういうことなのか?

<説明板>
Stone-of-waterway.JPG
水路跡と書かれた標柱が設置され、水路に関する説明が記されています。ただ、ちょっと色あせていて、画像では見えにくいですね。少し抜粋しながら要点だけをまとめさせていただきます(『』内は原文そのままです)。

まずこの大きな石ですが、『増上寺山内丸山に造営された台徳院-二代将軍徳川秀忠-霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたもの』とのこと。その実物ということですね。そして『石垣は平成14年(2002)に行われた発掘調査によって、この石列の真下、地下およそ8mの位置で発見されました。』とあります。つまりこの高さではなく、もっと低い位置に水路はあったわけですね。

Trace-of-waterway.JPG
移設された石材。ただし発掘されたのはこの地下ということになります

当時の様子については『かつて、旧御成道-現在の日比谷通り-から御霊屋への通路は、惣門手前でこの水路を渡りました。』そして『往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。』とのこと。

<惣門跡>
Shogun's-Grave-Somon-Point.JPG
こちらは水路跡のお隣の惣門跡。いまは日比谷通り沿いに佇む惣門は、この位置だったということこのようです。惣門をくぐって参道を更に進むと、勅額門があったとされています。

ということは

<勅額門跡>ちょくがくもん
Shogun's-Grave-Cyokugakumon-Point.JPG
ありました。惣門より更に奥には、天皇直筆の額を掲げた門があったわけですね

Shogun's-Grave-Ato.JPG
もはやその姿を見ることはできませんが、壮大で雅な霊廟だったのでしょう。

ということで
かつてあった将軍の霊廟のなごり、そして惣門の前に築かれた水路のなごりの話でした。何もなくても、標識を建ててもらうだけで違った景色に見えたりしますね。

Trace-of-waterway-Shogun's-Grave.JPG

■訪問:
台徳院殿霊廟の水路跡

[東京都港区芝公園]4丁目

■参考及び出典
現地説明板



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2022年08月11日

徳川家の鬼門除けから始まった街中のお不動さん(神田)

今回は神田を歩いている時に出会ったお不動さんの話です。
<出世不動尊>
Shusse-Fudoson-Kanda.JPG
あ、ここか…

出世不動尊の名は聞いたことがありながら、実物を目にするのは初めてでした。

<谷間>
Kanda-Shusse-Fudoson.JPG
何となく神社のような雰囲気ですが、不動明王を祀るお寺です。ビルとビルの間にきっちりと収まっています。

<出世不動尊の由来書>
Kanda-Shusse-Fudoson-Information.JPG
予備知識がないのでこちらを参考にさせて頂きました

冒頭に『出世不動尊は、智証明大師の御作にして、東潮院不動尊と申し上げ、江戸城内一ツ橋徳川水戸家の表鬼門除けとして祭祀せられ』と記されています。鬼門とは、陰陽道では鬼が出入りする方角(北東)とされていますね。説明文からして、地元の人たちによってずっと守り続けられている不動尊のようですが、その創建は、一橋徳川家の鬼門除けだったようです。そういう意味では、徳川家ゆかりの神社とも言えますね。
本尊は智証明大師作とのこと。空海の甥とも伝わる平安時代初期の僧侶です。それって、かなり貴重な像ということではないでしょうか?

<本堂>
Kandashusse-Fudoson.JPG
場所が場所だけに、厳しい戦火をくぐりぬけて今に至ります。現在の本堂は昭和63年に完成したものとのこと。いまでは小じんまりとしていますが、都内屈指の由緒ある不動尊であることは間違いありません。


ところで
神田不動尊とかではなく「出世不動尊」と呼ばれているのはどういうことでしょうか?

これには諸説ありますが、どうもお相撲さんと関係があるようです。力士が願を掛けたところ出世をした事からそう呼ばれるようになったと言われています。繰り返しますが、諸説あります。

出世はいわば現世利益。これを願う人にとって縁起のよい神社です。撮影はしませんでしたが、掛けられた絵馬には、かなり切実な思いが込められているものもありました。いろんな方々の思いが集まる場所でもあるのですね。

<出世不動通り>
Shussefudo-dori-Str.JPG
通りの名前にもなっています。毎月27日が縁日とのこと。出世不動尊は霊験あらたかなパワースポットという噂が広まり、遠くからわざわざ訪れる人も多いようです。でもまず、地元の皆さんに愛され続けているお不動さんという印象でした。

ということで
神田の出世不動尊のはじまりには徳川家も関係しているというお話でした。

■訪問:出世不動尊
[東京都千代田区内神田]2-6

■参考及び抜粋
現地由来書(出世不動尊奉賛会)



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2022年07月30日

八幡太郎義家が戦勝祈願した丘(浅草橋)銀杏岡八幡神社

源義家ゆかりの神社を訪ねました。

<銀杏岡八幡神社>いちょうがおか
ichogaoka-hachiman-shrine.JPG
この地は、源義家が奥州平定へ向かう途上で、休憩のために陣を敷いた場所とされています。この時、義家は川上から流れついた銀杏の枝を、小高い丘だったこの地にさし、勝利を祈願したそうです。このこのとが、この地に鎮座する八幡さまへと繋がっていくわけですが、詳細については、東京都神社庁ホームページの説明を下記にそのまま転記させて頂きます。

『奥州征伐のため下向の折、当地で休憩中川上より銀杏の枝が流れてきた。義家公はその枝を丘の上にさし立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と祈願した。奥州平定の後再びこの地に帰り至ったとき銀杏が大きく繁茂していたので公は神恩に感謝し太刀一振を捧げ、八幡宮を勧請したのが、康平五年(1062)で当社の創祀と伝える。』

大願成就ののち、感謝した源義家が武運の神である八幡神をこの地に勧請したことが、銀杏岡八幡神社の起源ということですね。創建が1062年。古い古い歴史の八幡さまです。この地が奥州へつながる古い街道沿いだったことを思えば、義家が行きも帰りも立ち寄ったのは自然なことです。社名の由来にもなった銀杏は大樹となって江戸時代まで存在していたようですが、大火で焼失し、現存はしていないそうです。

ichogaoka-hachimanjinja-gate.JPG
浅草橋駅東口を出てすぐです

ichogaokahachiman.JPG
賑やかな街中の神社ですが、鳥居をくぐると別世界

Asakusabashi-ichogaoka.JPG
こぢんまりとした境内には凛とした空気が漂います

konoha-inari.JPG
こちらは境内社の此葉(このは)稲荷神社

江戸時代、この地は福井藩松平家屋敷となり、神社はその邸内社となっていたとのこと。福井藩といえば、徳川家康の次男であり、武勇の誉れ高い結城秀康が藩祖ですね。そんな名門家の屋敷が長らくあったことも影響してか、この付近はかつて福井町と呼ばれていましたそうです。やがて福井藩の屋敷がなくなり、義家ゆかりの古い神社は地元の産土神、明治時代には村社にもなりました。

ichogaoka-hachimanjinja-asakusabashi.JPG
今でも浅草橋を代表する神社です

ということで
八幡太郎義家の戦勝祈願から始まる神社のご紹介でした。

■訪問:銀杏岡八幡神社
 (銀杏八幡さま)
[東京都台東区浅草橋]1-29-11

■参考及び出典
東京都神社庁ホームページ
・銀杏岡八幡神社

http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/taito/3131/


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2022年07月23日

新しくなった将門塚(大手町)

千代田区大手町の将門塚に久しぶりに訪問しました。

<将門塚碑>
Masakadozuka.JPG
ここは平安時代の豪族・平将門の首を祀っている場所です。都の指定旧跡となっています。

2021年4月にリニューアルしました。私の訪問は2022年7月ですが、普段からよく管理されているせいか、まだ新しい感じがします。

Masakado-zuka-after-renewal.JPG
リニューアル前と比べると、やや重厚感のようなものが薄れた気もしますが、以前にも増して凛とした空気が漂います。手を合わせる人たちの真剣さが、なおさら私にそう思わせたのかもしれません。

一部の貴族が政治の中心だった千年以上前、国府を次々に追放して関東を制覇した平将門。
その天下はわずか2ケ月程度であったようですが、武芸をもって既存の秩序を打破した実績は、のちの時代に武士たちが切り開くことになる道筋とつながっています。

敗れた将門の首は、藤原秀郷により京都四条河原に晒されましたが、故郷である東国へ向かって飛んでいき、落下したのがこの地であると伝わります。

Masakado-Zuka-Precincts.JPG
将門塚と呼ばれているだけあって、実際に塚があった時期もありましたが、旧大蔵省仮庁舎建設時に崩されてしまいました。将門には祟りの話がついてまわることが多く、工事の最中に当時の大蔵大臣が急死したり、官僚や工事関係が少なからず亡くなったことが話題となったそうです。

平将門の評価は、時代とともに大きく変わります。また、現在においても、どの視点で見るかで評価は大きく変わります。日本三大怨霊(ほかは菅原道真・崇徳天皇)に数えられたりもしますが、ではなぜ、いまだに多くの人がこの地を訪れるのでしょうか?

masakado-zuka-Stone-monument.JPG
私は、前回訪問の時に現地で目にした『弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』という神田明神さんによる説明文が忘れられません。

ということで
新しくなった将門塚のご紹介でした

masakado-zuka.JPG

■訪問:将門塚
(平将門の首塚)
[東京都千代田区大手町]1-2-1

■参考及び出典
Wikipedia:2022/7/23
現地説明板(2019年04月22時点)


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-----------(追 記)-----------
リニューアルする前に訪問した時の投稿です。良かったら覗いてみて下さい。
<画像>
shirononagori357 (9).JPG
shirononagori357 (5).JPG
■投稿:2019年04月22
■タイトル:ビルの谷間の将門塚
 →『記事へすすむ
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2022年05月29日

分倍河原古戦場(府中市)

つわものどもが夢の跡
打倒鎌倉幕府のために挙兵した新田義貞が、幕府勢と激突した古戦場を訪問しました。

<分倍河原古戦場碑>ぶばいがわら
Bubaigawara-Battle-Round-Stone-Monument.JPG
新田義貞率いる軍勢と北条泰家率いる軍勢がこの地で激突しました。

■新田義貞の挙兵■
幕府の御家人であり、源氏の血をひく新田家8代目棟梁の新田義貞が、鎌倉幕府討伐のために挙兵したのが1333年(元弘3年)。上野国を出た時は150騎程度だった言われる軍は、南下するほど増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。更に足利尊氏(この時は高氏)の嫡男である義詮(この時は千寿王)が合流し、その後も続々各地の武士が集まり続けました。

<分倍河原駅前の新田義貞像>
Nitta-Yoshisada-Statue.JPG
挙兵した義貞に加勢する者は多数。後醍醐天皇の命を受けたとはいえ、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちは多かったということですね。

■分倍河原古戦場■
実際の合戦は広範囲に及んだと思いますが、とりあえず石碑がある公園を目指しました。

<古戦場碑案内>
For-Bubaigawara-Battle-Ground.JPG
初めての訪問のためちょっと関心した瞬間です

<分倍河原古戦場>
Bubaigawara-Battle-Round-Park.JPG
橋の向こうに目的地と定めた石碑が見えてきました

<石碑と説明板>
Bubaigawara-Battle-Round-Monument.JPG
分倍河原古戦場と刻まれた石碑です。お隣に説明板が設置されています

<説明板>
Bubaigawara-Battle-Round-Explanation-Board.JPG
分倍河原古戦場は東京都指定旧跡。東京都教育委員会による説明文を以下に転記させて頂きます。

『文永(一二七四)、弘安(一二八一)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎなき御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦いで優位に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。』

 
冒頭の説明で、北条氏による執権政治は既に行き詰っていたことが分かりますね。そして新田義貞の挙兵。南下しながら北条側の諸勢力を跳ね除け、いよいよここ分倍河原で本隊と激突。新田軍は初戦で敗れますが、この理由として、義貞には執権・北条高時が弟の泰家を大将にして大軍を送り込んだという情報が入っていなかったという説があるようです。敵の兵力が想定外だったということですね。いずれにせよ、新田義貞は一旦は分倍河原から撤退します。しかし三浦氏など相模国の豪族が新田軍に協力するに至り、状況は変化。両軍は翌日に再び激突し、新田軍は大勝利をおさめました。元弘3年5月16日、西暦だと1333年6月28日の出来事でした。


Shindengawa-Bubai-Park.JPG
古戦場碑は整備された公園内に設置されています


一度は勝利しながら翌日に大敗した幕府軍の総大将・北条泰家。最初の激突の時に、ギリギリの状態で逃げていく新田義貞に追い撃ちをかければ仕留められたという説が有力です。負けてこの地から脱出となりますが、どのような思いで鎌倉へ戻ったのでしょう。

一方で、勝っただけでなく、相模国の豪族すら味方となった新田義貞は、前途に何を思ったことでしょう。この地で勝利したことで、新田軍には関東各地から更に援軍が加わり続けました。南へ向かって進軍すればするほど、義貞が率いる軍勢の士気は高まっていったに違いありません。

<つわものどもが夢の跡>
Bubaigawara-Kosejo.JPG
その後の戦局を決定的にした合戦があった場所です

■訪問:分倍河原古戦場碑
( 新田川分梅公園 )
[東京都府中市分梅町]2丁目

■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2022/5/29



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2022年03月16日

街なかの石垣石(浜松町)赤穂藩森家上屋敷跡

今回は港区浜松町のビルの谷間で味わえる石垣石の話です。
<石垣石>
Akohan-Morike-Yashiki-Stone-Wall-Restore.JPG
こちらです

<プラザ神明>
Akohan-Morike-Yashiki-Plaza-Shinmei.JPG
場所は浜松町1丁目のプラザ神明。敷地の南側の路地沿いに、この地で出土した石が並んでいます。

<説明板>
Akohan-Morike-Yashiki-Explanation.JPG
石だけだと素通りしてしまいそうですが、ちゃんと説明板が設置され、港区教育委員会さんによる詳細説明が記されています。

少し抜粋させて頂きます
『プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨国(現・兵庫県)赤穂藩森家の上屋敷でした。
北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地との堺に構築した境堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。』


ここは赤穂藩主の屋敷だったわけですね。赤穂藩といえば、思い浮かぶのは浅野家。ただ、赤穂をもっとも長く治めたのは森家なのです。浅野家が当主の刃傷事件で改易となったあと、赤穂は幕領を経たのち永井家が藩主として入り、続いて森家が治めることとなりました。

森家は遡れば織田信長家臣の森可成(蘭丸のお父さんですね)にたどりつく家柄です。18万石を領した時期もありました。一度改易となっており、赤穂藩での石高は2万石だったそうです。約165年間、明治の廃藩置県まで、赤穂藩主は森家代々が務めています

Akohan-Morike-Yashiki-Architectural-Stone.JPG
そのなごりということですね。説明文からまた抜粋させて頂くと『石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認された所もありましたが、江戸時代前半の構築当初の姿をよく留めています。ここに用いられている石垣石は、主に堺堀に使われていたものです。』とのこと。

<説明板の地図>
Akohan-Morike-Yashiki-Old-Map.JPG
赤字で赤穂藩森家上屋敷跡と記されいます。古地図の文字だと森山城守。官位からして12代藩主の森忠興ですかね(?)。北側が旗本屋敷で、その境に堀が設けられ、護岸として石垣が組まれた。分かりやすい説明板で助かります。


<プラザ神明の北側>
Akohan-Morike-Yashiki-Border.JPG
地図から推定するとここが旗本屋敷との境でしょうか?堀が埋められ暗渠となった?

自転車置場や車止めの雰囲気がいかにも暗渠らしいのですが、ちょっと違うようです。

ということで
赤穂藩森家上屋敷跡を訪ねて、出土した石垣石を見たというシンプルな訪問記でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

<石垣石>
Akohan-Yashiki-Restoration-Stone-Wall.JPG
展示物ではなくいまも現役の石垣石です

■訪問
赤穂藩森家上屋敷跡

(出土の石垣石)
[東京都港区浜松町]1丁目

■参考及び抜粋
・Wikipedia:2022/3/16
・現地説明板
(港区教育委員会)



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2022年03月14日

内匠頭御預かりの田村家のルーツ(田村右京太夫屋敷跡)

<旧田村右京太夫屋敷跡>
Tamura-Ukyodau-Yashikiato.JPG
以下に抜粋します

『舊・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳3月14日)に淺野内匠頭の自刃せし所なり』とのこと。続いて淺野内匠頭の辞世の句です。『風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ』

田村新交町会さん、ありがとうございます。元禄十四年は西暦1701年。この当時の将軍は第5代の徳川綱吉でした。

Tamurake-Kamiyashiki.JPG
日比谷通り沿いのこの場所は、江戸城内で刃傷沙汰を起こした赤穂藩主・浅野長矩の身柄を預かった一関藩主田村建顕の屋敷跡です。将軍綱吉の裁断により、浅野長矩は即日切腹。一関藩田村家上屋敷が、そのまま浅野内匠頭長矩終焉の地となりました。

<浅野内匠頭終焉之地>たくみのかみ
Stone-Monument-Dead-Place-Asano.JPG

<命日>
Death-Anniversary-Asanotakuminokami.JPG
[撮影:2022年3月14日]

やむを得ない事情とはいえ、他藩の藩主の身柄を急遽預かった上に、その日のうちに切腹の段取りまでせねばならなかった田村家。その対応については諸説あるようですが、想定していない役割をまっとうせねばならず、混乱の一日だったと思われます。

この大役を任された田村家
そのルーツは、三春城を居城とし、伊達家と深い関りのあった戦国武将の田村家にあります。

<参考画像:三春城>
Miharu-castle-flag.JPG
[福島県田村郡三春町]

三春田村家は、あの坂上田村麻呂の末裔ともいわれています。強豪揃いの周辺と比較して、決して大きな勢力とは言えませんでしたが、伊達家との繋がりで一定の地位を保っていました。しかし秀吉の奥州仕置により領地は没収。ここで一旦はお家断絶となりました。

初代仙台藩主である伊達政宗の正室・愛姫は、三春城の田村家の出です。愛姫は実家の断絶を嘆き、田村家再興を願ったままこの世を去りました。息子であり、仙台藩の第2代藩主となった伊達忠宗の時代に、孫の宗良(忠宗の三男)が仙台藩62万石のうち3万石を分知されて田村宗良を名乗り、田村家は再興されました(この時は岩沼藩)。後に一関に移り、初代一関藩主となったのが、官位から右京太夫と呼ばれる田村建顕(たつあき)でした。伊達政宗と愛姫のひ孫ですね。

藩主といっても、仙台藩のいわば子分のような小藩であり、更に外様大名という立場です。しかし学問に秀でていた田村建顕は将軍家に重用され、要職に就いていました。

松之大廊下での事件があった当日、いろんな偶然や事情があったにせよ、田村家は幕府から一定の信頼を得ているからこそ、浅野内匠頭の預りを命じられたのでしょう。厄介な話だから外様に振られたのかとも思いましたが、信頼を得ていたと受け止めておきます。

<令和4年3月14日>
Asano-takuminokami-Dead-Place.JPG
今年も春の花が咲き誇っていました

ということで
浅野内匠頭終焉の地となった田村右京太夫屋敷跡と一関藩田村家のルーツのお話でした。

最後に
参考にしたWikiさんから抜粋させて頂くと『田村邸から50mほど離れた別の場所に長矩をしのぶ記念碑が再建』とあります。古地図を参考に現地を歩きましたが、正確な場所の特定はできませんでした。ただ、だいたいこのあたりというのはあっているようなので、納得することにしました。

■訪問:
田村右京太夫屋敷跡

(浅野内匠頭終焉之地碑)
[港区新橋]4丁目

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/3/14
・説明板(田村新交町会)



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-----------(追 記)-----------
当ブログでは浅野内匠頭終焉之地碑について別途投稿しております。良かったら覗いてみて下さい。
■投稿:2019年03月10日
■タイトル:風さそふ
   浅野内匠頭終焉の地

 →『記事へすすむ

-----------(追々記)-----------
本文では正確な場所の特定はできなかったとしましたが、こちらのお店は屋敷跡の一部で営業をしています。
<新正堂>
Tamurakekamiyashiki.JPG
切腹最中で有名な新正堂さんです。お店につきましては前回の投稿で多少ご紹介させて頂いたので、今回は店舗の裏手の有難い場所をご紹介させて頂きます。

<田村銀杏稲荷>たむらいちょういなり
Tamuraicho-Inari.JPG
ビルに内包されている田村銀杏稲荷

浅野内匠頭が切腹した田村家上屋敷の庭には大銀杏がありました。しかし関東大震災で焼けてしまい、残った切り株の上にお稲荷さんが祀られたそうです。その稲荷神社も姿を消しましたが、新正堂さんが自費で再建したそうです。

Tamura-icho-Inari.JPG
人が意識して残した田村家上屋敷のなごりですね

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2022年02月05日

岡田将監ゆかりの橋(港区)将監橋

今回は元戦国武将の名に由来する橋の話です
<将監橋>しょうげんはし
SyougenBashi-Bridge.JPG
港区芝の将監橋です。橋の名は、この近くに屋敷を構えた岡田将監に由来します。

■岡田善同■おかだよしあつ
尾張国に生まれ、織田信長から始まり、佐々成政や小西行長の配下を渡り歩き、最終的には徳川家康に仕えた戦国武将です。天下分け目の関ヶ原での活躍が認められ5千石の旗本となりました。官職は伊勢守、岡田将監を名乗りました。

■美濃国の治水事業に貢献■
戦で認められた岡田将監ですが、徳川配下では農政や治水事業で活躍。家康からの信任も厚く、名古屋城の築城や伊勢神宮造営といった重要な仕事に関わるとともに、1613年から1629年には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤のさいの美濃国側の工事を指揮しています。[出典:Wikipedia]

ちなみに、尾張側の工事は、関東の治水で名を馳せた伊奈忠次が指揮したようです。また、1629年までとなっているのはこの年に没したためで、事業は子である岡田善政が引き継ぎました。善政も『将監』を名乗ったそうです。

美濃国の治水事業に貢献した岡田将監親子
家康からの厚い信任といい担った役割といい、関東郡代を世襲した伊奈一族とちょっと似てませんかね?

<高速道路の下>
SyougenBashi-Underpass.JPG
川の上は首都高が走っているので、橋も高架下になります

<橋の名>
SyougenBashi-Name.JPG
「しょうかんばし」ではなく「しょうげんはし」

<古川(上流側)>
SyougenBashi-Furukawa.JPG
都内にはありがちですが、いまでは陽の当らない川です。上流は渋谷川、下流である港区内では古川と呼ばれます。
<古川(下流側)>
SyougenBashi-River.JPG
東京湾へ注ぐ古川。かつては川沿いに多くの漁民が暮らしていたそうです


橋は岡田将監が掛けたとする説もあります。土木事業に精通した人物だけに、なんら不思議ではありませんね。ただ詳細は不明。それから、岡田善同を意識して冒頭で元戦国武将といわせて頂きましたが、あとを継いだ息子も将監を名乗ったのですから、父子どちらの話なのかもわかりませんね。

いずれにせよ、岡田将監に由来することに間違いはありません。

SyougenBashi-Nameplate.JPG

ということで
古川に架かる将監橋と岡田将監のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありかどうございます。

SyougenBashi-main-pillar.JPG

■訪問:将監橋
[東京都港区芝大門]2丁目

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/5



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