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2024年06月28日

関城のなごり (筑西市)

つわものどもが夢の跡
南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。
<関城>せきじょう
Seki-Castle-Chikusei.JPG
ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。

■ 南朝の城跡 ■
関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。

南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せき むねすけ)は、小田治久の南朝離反を機に、それまで小田城在城だった北畠親房を関城に迎え入れます。北畠親房は南朝方の重鎮です。高師冬ら北朝軍の攻撃は激しさを増しましたが、籠城戦でこれに耐え続けました。この間に、北畠親房は小田城で着手していた歴史書『神皇正統記』に筆を加えて完成させています

<北畠親房が籠城>きたばたけちかふさ
Sekijo-Castle-Ruins.JPG
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。ここ関城は、戦の重要拠点であったと同時に、日本の歴史観に多大な影響を与えた歴史書が完成した場所もあります。

■ 現地訪問 ■
私は城の北側から徒歩で現地へ向かいました。
<関城跡案内図>
Guide-Map-Sekijo.JPG
こちらは関城駐車場で撮影した地図です。関城は沼に向かって半島のように突き出した台地の南端に築かれました。つまり北を除く三方向が天然の水堀に守られていました。とはいえここは関東平野のど真ん中。台地と低地に劇的な高低差があるわけではありません。分類すると平城ということになります。

<関城北側の土塁>
Earthwork-Sekijo-Sekitate.JPG
Earthwork-Hachiman-Shrine-Sekitate.JPG
沼に囲まれた城が、唯一台地続きとなるのが北側です。こちらはその付近に設けられた土塁の跡。開発により遺構がほとんどない関城にあって、この土塁は良好な状態で残されています。当時の姿からはほど遠いのでしょうが、ありがたい遺構です。

<八幡神社>
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
土塁はこちらの神社の境内で撮影しました。神域であるが故に、開発から取り残されたのでしょう。

ところで
土塁のあった八幡神社のすぐ近くで、こんな遺構と出会いました。

<関城坑道跡>こうどうあと
sekijo-koudoato.JPG
trace-of-tunnel-seki-castle.JPG
坑道跡です。設置されている筑西市の説明板によれば、この坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で、関城の物見櫓を攻め落とすために掘られたものとのこと。地盤の柔らかさから崩落し、作戦は失敗に終わりますが、城の土塁のすぐ外側で、こんな工事がなされていたわけです。別な見方をすると、城の間近に攻め寄せながら、ここから先が難儀だったのでしょう。

<城の東側>
East-Side-Seki-Castle.JPG
南へ移動しながら振り返って、先ほどの八幡神社付近を撮影。あの付近から続く左手(西側)の微高地は全て関城跡ということになります。逆に右手の低地はかつての沼(大宝沼)。沼の畔を歩いている感じなのでしょうか?あるいは、足が水に浸かった状態なのかもしれませんね。

地形に従って歩き続け、城の南端へ回り込むと

<関城通り>
Sekijo-Street.JPG
おお。こういうのが目に入ると気分が盛り上がりますね。あとで知りましたが、左手の斜面の奥は、沼に舟を出すための船着き場があったようです。

<地蔵尊>
Jizo-Statue-Sekijo.JPG
低地から台地へ。坂を登るとお地蔵さんが出迎えてくれました。向きは逆ですが…

そして

<関城跡>
Main-Bailey-Seki-Castle.JPG
冒頭の画像の場所に到着。ここが本丸跡と思ってやってきましたが…

<縄張り図>
Guide-Map-Sekijo-ato.JPG
厳密に言うとこの地点は本丸ではなく、そのすぐお隣といった感じのようです。まぁ広大な関城の中心付近であることに違いはありません。

<説明板>
Guide-Plate-Seki-Castle.JPG
南北朝対立争乱の時代に、関城が小田城などとともに南朝方の拠点であったことが冒頭に記されています。少し抜粋させて頂くと『関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。』とのこと。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Houkyoin-Tower-Seki.JPG
正面の宝篋印塔が関宗祐の墓と伝えられています。右側の石柱には「関宗祐之墓」と刻まれていますが、現地の説明文からして、宗祐・宗政父子の墓と受け止めてよいのでしょう。すぐお隣、左手に小さく映っているのが、北朝方として関城に攻め込み戦死した結城直朝の墓。直朝は当主だったため、弟が結城氏の家督を継ぐことになりました。

全体的に画像が見づらくてすみません。当ブログ、お墓そのものは遠くから撮るようにしています。

<土塁跡>
Main-Bailey-Earthwork-Sekijo.JPG
宝篋印塔の背後には土塁の跡。ここが城であった証が形として残っています。


■ つわものどもが夢の跡 ■
朝廷が二つに分かれた余波は、全国に拡大しました。関城での攻防戦は、日本中で約半世紀続いた動乱の一部に過ぎませんが、焦点を絞ってじっくりと城跡と向き合うと、その壮絶さが伝わってきます。

<関城のなごり>
Earthworks-Sekijoato.JPG
心にとどめおくべき先人たちのなごりですね

------■ 関 城 ■------
築城者:関朝泰
築城年:鎌倉時代
城 主:関宗祐 他
廃城年:不明
[ 茨城県筑西市関館 ]


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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・Wikipedia:2024/6/28
・筑西市HP
 国指定文化財>関城跡

https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
posted by Isuke at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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