小田原北条氏が尾根筋を断ち切った跡を訪ねました
<大堀切>おおほりきり
散策路として堀底を散策でます
■小峯御鐘ノ台大堀切■こみねおかねのだい
小峯の大堀切は、難攻不落と言われた小田原城を居城とする北条氏が、本丸へと続く尾根を分断するために築いた防御施設です。
<入口>
ここから堀切のなかに入りました。
<説明板>
小峯御鐘ノ台大堀切東堀というタイトルで説明がなされています。部分的に抜粋させて頂きます。
まず冒頭は『小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。』とのこと。そのなごりということですね。ちなみに、御鐘ノ台という呼び名は、小田原征伐の時に陣鐘が置かれていたことに由来するようです。
つづいて小田原城全体について
『北条氏は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9Kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。』と記されています。
総構(そうがまえ)とは、城そのものだけでなく、町全体を堀や土塁で囲む構造のことで、総曲輪(そうぐるわ)とも言います。秀吉に従って小田原征伐に参陣していた徳川家康は、小田原城の総構を江戸の町造りの参考としたとさえ言われています。当時としては他に類をみない構造だったわけですね。
つぎに3本からなる堀のうち、東堀についてです。
『この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸の外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます』
堀切(ほりきり)とは、堀と同じ意味に受け止めて良いですが、山の尾根を断ち切るように溝を設ける場合などに使われる城用語です。結果的に山城で多く用いられる言葉です。この地の堀切は、1590年の秀吉による小田原攻め以前に存在していたということのようです。三代目当主である北条氏康の時に、その基礎が築かれたと考えられています。
<堀切>
先ほどの説明板によれば、幅は25〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)までは約12〜15mありようです。斜面の角度は50〜60度といいますから、かなりの急こう配です。
堀がカーブしているのは地形というより、横矢掛り(よこやがかり)を設けたのでしょう。侵攻者を側面からも攻撃するための仕掛けですね。
■つわものどもが夢の跡■
小田原城は上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった城です。ただ、本丸近くまで攻め込まれた上で、何とか凌いだというのが事実のようです。そういう経験が背景となって、大掛かりな堀切が整備されるに至ったのでしょう。北条氏康の時代に基礎が造られたようですが、氏政(四代目)・氏直(五代目)親子が豊臣秀吉の大軍を迎え撃つ際には、更に手が加えられたと思われます。いま確認できる遺構は、そのなごりということですね。
北条氏の思惑がいまも形として残っています
■訪問:小峯御鐘ノ台大堀切
(小田原城三ノ丸)
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)
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