沼田城本丸跡に設置されている説明板です。真田家五代で91年間続いた沼田城の姿です。ひときわ高い位置に描かれた天守の姿が目をひきます。
あくまで個人的にですが、沼田城の天守については長らく懐疑的でした。しかし最近の沼田市教育委員会による発掘調査では、天守の柱を支えていたとみられる礎石や、大きな石を抜き取った痕跡などが見つかっています。
<利根英霊殿>
こちらは沼田城本丸跡の利根英霊殿。利根沼田地区出身の戦没者が祀られています。奥が高くなっていて、この付近に天守台があったのではないかと推定されています。沼田市教育委員会による発掘調査も、この付近で行われました。
<説明板>
こちの説明板には「上野国沼田城絵図」と天守に関する説明が掲載されています。左側の絵図は、江戸幕府が全国の城の様子を絵図で提出させた時のものですので、現実と乖離していることは考えにくいと思います。軍事に関することなので、報告と実態が異なれば、罰せられることもありえる時代ですからね。真田氏として4代目の城主となる信政の時代の沼田城の姿です。
右側に天守に関する説明が掲載されています。懐疑的だった私の主観が入らぬよう一旦そのまま転記させて頂きます(『』内は原文)。
『沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間☓10間(推定18m四方)の5層であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5層の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。
この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。』
天守を築城したのは真田信之。信之の時に沼田城は本格的な近世城郭に生まれ変わっていますので、その大改修の目玉が天守だったのかもしれませんね。沼田と聞くと、あまり大きくはない藩をイメージしてしまいますが、真田信之は沼田と上田を合わて約10万石の大名になっていました。そして、父・真田昌幸が居城としていた上田城が破壊されて使用できないため、信之の本拠はしばらく沼田城のままだったそうです。それらを考慮すると、まったく身の丈と合わない投資とも言えないような気もしますね。
ただ、それにしても天守が五層とは凄いです。説明文にもある通り、関東で5層の天守があったのは江戸城と沼田城だけでした。しかも、江戸城の天守は明暦の大火(1657年)で焼け落ち、それ以降再建されていません。
ということは…
沼田城が廃城となるのは1682年ですので、その間の約四半世紀は関東で5層の天守があったのは沼田城のみだったことになります。
<五層の天守>
かなり特殊なケースと言えますね
■訪問:沼田城本丸跡
[群馬県沼田市西倉内町]
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■参考・出典
・現地説明板
(沼田市観光協会)
(沼田市教育委員会)
・Wikipedia:2024/10/4
・沼田市観光協会HP
>沼田城
https://www.numata-kankou.jp/sanada/index.html
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