主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。
<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。
<現在の屋敷跡>
扉の隙間から中を撮影
預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。
■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。
■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。
死罪・切腹・助命
選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。
<屋敷跡>
こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。
<旧細川邸のシイ>
[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。
<説明板>
高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。
<巨木>
東京都指定天然記念物です。
<高低差>
シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。
<崖の上>
下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。
■大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。
そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。
細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。
■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。
[細川家で切腹した17名]
大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門
この地が終焉の地となりました。
藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。
<赤穂義士史蹟碑>
■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■
あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし
浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20
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