アフィリエイト広告を利用しています

2018年12月17日

大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡

つわものどもが夢の跡
主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。

<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
shirononagori291a2.JPG

■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。

<現在の屋敷跡>
shirononagori291b2.JPG
扉の隙間から中を撮影

預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。


■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。


■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。

死罪・切腹・助命

選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。

<屋敷跡>
shirononagori291h1.JPG
こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。

<旧細川邸のシイ>
shirononagori291h2.JPG
[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。

<説明板>
shirononagori291h41).JPG
高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。

<巨木>
shirononagori291h5).JPG
東京都指定天然記念物です。

<高低差>
shirononagori291h6.JPG
シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。

<崖の上>
shirononagori291h7.JPG
下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。

大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。

そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。

細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。


■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。

[細川家で切腹した17名]
shirononagori291d.JPG

大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門

この地が終焉の地となりました。

藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。

<赤穂義士史蹟碑>
shirononagori291c.JPG

■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■

あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし


浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。

つわものどもが夢の跡
shirononagori291a.JPG

■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20


お城巡りランキング
タグ:23区
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/8396968
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 高岡城のなごり
  3. 3. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  4. 4. 忠臣蔵名シーンの舞台となった坂道(南部坂 雪の別れ)
  5. 5. 高遠城のなごり
  6. 6. 縁切橋跡(行田市) 城主と妻の悲話が伝わる橋
  7. 7. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  8. 8. 街の中の土塁跡 山形城三ノ丸のなごり
  9. 9. 内匠頭御預かりの田村家のルーツ(田村右京太夫屋敷跡)
  10. 10. 高天神城のなごり
  11. 11. 真田の城 上州沼田城
  12. 12. 金沢城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール
X (Twitter) Twitter-Isuke.JPG Isuke@shirononagori
最新記事

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100【電子書籍】[ 交通タイムス社 ]

[当サイトお勧め本]

小説 上杉鷹山 全一冊 (集英社文庫(日本)) [ 童門 冬二 ]


感想(39件)