<福島城内堀土塁>
こちらの画像は福島市内で撮影しました。奥は小学校の校舎、手前の盛り土は福島城の土塁堀跡です。
土塁は、川から水を引き込んだ内堀に沿って設けられていましたが、今は街中から消しました。ですから、ごく一部とはいえこうして残っていることは貴重なことです。
同じく、土塁とセツトの内堀も埋められてしまい、今はその姿を確認することはできません。
ただし
そのなごりを感じることはできます。
<土塁の西側>
先ほどの土塁の西側。城の内側からみて、土塁の向こう側です。なにやら木製の板が張りつめられていますが…
この雰囲気…怪しい…
<暗渠>あんきょ
蓋が掛けられていて分かりにくいですが、これは明らかに水路です。いわゆる暗渠です。
当時の縄張りから判断して、ここは明らかに水堀の跡です。城が取り壊されたあと、堀が水路に転用されている例は珍しくありません。ここもきっとそうだったのでしょう。
<縄張り図>
こちらは阿武隈川沿いに設置されていた国土交通省福島河川国道事務所による案内板の一部を拡大したものです。中央(二の丸)のやや左側に、大手門と記されています。小学校の東側です。その付近から左(西)へ向かってのびる土塁と堀は、途中で下方向(南側)に向きを変えます。これがまさに、今回訪問した場所と一致します。
縄張り図にある堀の全てというわけではありませんが、少なくとも小学校付近の短い区間は、水の通り路として今も活かされていることは間違いありません。
学校脇の道路と校庭の間の細長い道。コンクリ蓋の場合が多いですが、木製というところがいいですね(個人的に)。
ということで
やや曖昧さも含みながら、福島城の内堀土塁跡と、内堀跡にひっそりと設けられた暗渠のご紹介でした。
<暗渠と城跡>
堀跡の暗渠に気付くことは、城のなごりに気づくのと同じです。ですから、暗渠に気付くアンテナがあると、都市化されてしまった城跡の探索が一層楽しくなります。
そんな感覚を共有できれば幸いです。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
■訪問:福島城内堀土塁跡
(福島第一小学校)
[福島県福島市杉妻町]1-24
お城巡りランキング
■参考及び出典:
・Wikipedia:2024/8/3
・現地説明板「福島城と土塁」
(福島市・福島教育委員会)
・現地説明板「隈畔周辺の歴史」
(国土交通省福島河川国道事務所)
2024年08月03日
2024年02月18日
暗渠と城跡37 道路沿いの住宅に漂う岩槻城大構のなごり
鎌倉時代以前に築かれたとされる武蔵国の岩槻城は、戦国時代末期には、城だけでなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構(そうがまえ)の構造となっていました。ここ岩槻では、総構のことを大構(おおがまえ)といいます。今回はその「大構」のなごり(?)ではないかという道路沿いの風景に触れさせて頂きます。
ここは大構の遺構として知られる場所です。都市化にともない、街なかの堀は埋められ土塁もほとんどが取り崩されましたが、ここだけは残っています。
コンクリで固められていますが、この高低差は土塁のなごりです。土塁上に愛宕神社があることで、取り崩されなかったのでしょう。
土塁をかすめるように東武野田線の電車が通過します。
ここまでは、当ブログで以前投稿させて頂いた内容と同じす。下にリンクを貼っておきますので、よかったらのぞいてみて下さい。
投稿:2020年05月30日
タイトル:岩槻大構のなごり
『→記事へすすむ』
さて
今回は愛宕神社を通り過ぎで、踏切を渡った先のお話です。
まずは、岩槻城の構造をもう一度確認したいと思います。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
北側には川、そして本丸などを取り囲む巨大な沼が目を引きますね。今回の焦点は南側。城下に設けられた大構の堀です。
<縄張り図拡大>
愛宕神社付近を拡大しました。神社のすく脇に大構の堀が設けられていますね。
<堀跡>
堀跡がそのままこの道ということになります。右手が大構の内側、左側は外側です。
ではまっすぐ進むことにします。
堀は埋められ道となり、右手歩道が暗渠、つまり水の通り道となっています。
なんのへんてつも無い道、そして暗渠の歩道
ただよく見ると、道路の左右で住宅の出入り口の高さが異なります。
道の右側は少しだけ段差が確保されています。そのまま、建物の基礎部分も高くなっています。
こちらも
こちらも
高さが維持されている側が大構の内側です。つまり、古くは堀とセットの土塁が設けられていたということになります。愛宕神社付近のような明確な遺構は確認できませんが、この僅かな高さも、土塁のなごりなのかもしれませんね。
土地が高くなっているのは、歩道が暗渠(地下に埋設された水路)であることと無関係ではないかもしれません。ただ暗渠そのものが堀のなごりと言えるので、どちらにしても、岩槻城大構のなごりだと思えました。
ということで
堀跡の道の片側だけが、やや高くなっているというお話でした。
今回の投稿は、街探索のお仲間で岩槻にかなり詳しい『いこ〜』さんにヒントをもらい、一人で現地確認してきた結果です。今度は当ブログがヒントとなり、現地で似たような思いをする人がいれば嬉しいです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<愛宕神社裏手の土塁>
■訪問:岩槻愛宕神社付近
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]
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ここは大構の遺構として知られる場所です。都市化にともない、街なかの堀は埋められ土塁もほとんどが取り崩されましたが、ここだけは残っています。
コンクリで固められていますが、この高低差は土塁のなごりです。土塁上に愛宕神社があることで、取り崩されなかったのでしょう。
土塁をかすめるように東武野田線の電車が通過します。
ここまでは、当ブログで以前投稿させて頂いた内容と同じす。下にリンクを貼っておきますので、よかったらのぞいてみて下さい。
投稿:2020年05月30日
タイトル:岩槻大構のなごり
『→記事へすすむ』
さて
今回は愛宕神社を通り過ぎで、踏切を渡った先のお話です。
まずは、岩槻城の構造をもう一度確認したいと思います。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
北側には川、そして本丸などを取り囲む巨大な沼が目を引きますね。今回の焦点は南側。城下に設けられた大構の堀です。
<縄張り図拡大>
愛宕神社付近を拡大しました。神社のすく脇に大構の堀が設けられていますね。
<堀跡>
堀跡がそのままこの道ということになります。右手が大構の内側、左側は外側です。
ではまっすぐ進むことにします。
堀は埋められ道となり、右手歩道が暗渠、つまり水の通り道となっています。
なんのへんてつも無い道、そして暗渠の歩道
ただよく見ると、道路の左右で住宅の出入り口の高さが異なります。
道の右側は少しだけ段差が確保されています。そのまま、建物の基礎部分も高くなっています。
こちらも
こちらも
高さが維持されている側が大構の内側です。つまり、古くは堀とセットの土塁が設けられていたということになります。愛宕神社付近のような明確な遺構は確認できませんが、この僅かな高さも、土塁のなごりなのかもしれませんね。
土地が高くなっているのは、歩道が暗渠(地下に埋設された水路)であることと無関係ではないかもしれません。ただ暗渠そのものが堀のなごりと言えるので、どちらにしても、岩槻城大構のなごりだと思えました。
ということで
堀跡の道の片側だけが、やや高くなっているというお話でした。
今回の投稿は、街探索のお仲間で岩槻にかなり詳しい『いこ〜』さんにヒントをもらい、一人で現地確認してきた結果です。今度は当ブログがヒントとなり、現地で似たような思いをする人がいれば嬉しいです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<愛宕神社裏手の土塁>
■訪問:岩槻愛宕神社付近
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]
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2023年10月28日
暗渠と城跡36 金沢城の外堀を潜った導水路のなごり
今回は、台地上に築かれた金沢城に水を供給した用水の話です。市内を散策中にこんな光景と出会いました。
<石管と説明板>
なんだろう
説明板には、金沢市内を流れる辰巳用水と、石管に関する説明が記されています。少し抜粋させて頂きながらご紹介します(『』内は原文の転記です)。冒頭に『寛永八年四月(一六三一年)に城下から出火、当時水利の便に悪かった金沢城が全焼した』とあり、これが用水を造るきっかけとなったと記されています。この惨事に対し『翌九年に三代藩主前田利常は十キロ隔たった犀川上流の上辰巳から水を引くことを企て、小松の町人 板屋兵四郎 にその工事を命じた』とのこと。犀川(さいがわ)は金沢市の南側から西側を通って北へ流れる川です。そこから水を引き込むということになりますが、金沢城は周囲と比べれば高台に位置し、更に堀で囲まれています。どうしやって水を引き込んだのでしょうか?
説明を読み進むと『計数に長じた兵四郎』が難工事に挑み、『現在の兼六園から木管をもって城内へ通水した』と記されています。兼六園も金沢城と同じ台地上(段丘上)にありますが、川の上流から、つまりまだ高い位置を流れている川から用水を築くことで、なんとかクリアしたようです。ただ、高低差は克服できましたが、かなりの工程でトンネルを掘らざるを得ない難工事だったとのこと。
そこまで苦労して引き込んだ水ですが、兼六園と金沢城との間には堀があります。台地を断ち切るように設けた、金沢城最大の外堀です。どうやって城側に水を渡したのでしょうか?
水路橋を架けた…
答えは
地下に導水管を設け、堀底より低い位置を経由した水を、サイフォンの原理を利用して高い位置へ上げたそうです。
サイフォンの原理!懐かしい言葉ですね。ホースを使って試してみたのは小学生の時だったか(?)。水は高いところから低いところへと流れるのが原則ですが、空気の入っていない管の中を水で満たせば、もとの位置より高いところを経由してから落下する、つまり一瞬は水位より高い方へ移動するあの原理ですね。『計数に長じた兵四郎』が造った水の路も基本的には同じ原理ですが、逆に一旦低いところを経由した水が、もう一度高い方へ登る構造にしたようです。最終的な水の出口が、スタート地点の水位よりは低いことに変わりはありません。水の動きだけみれば「登って降りて」ではなく「降りて登って」になることから、逆サイフォンと呼ぶそうです。
なんだか理科ブログになってしまいましたが、私は学校の先生ではないので、表現が不適切であったらすみません。ただの会社員が、大まかに理解しているとだけと受け止めて下さい。
さて
導水管は当初木管でしたが『天保15年(1844年)に石管に取り替えられた』そうです。
<石管>せきかん
その石管がここに置かれているのですね。辰巳用水そのものの全長は10km以上にも及びますが、兼六園から金沢城を通過する区間では、地中に埋設された石管を経由していたことになります。ごく普通の水路が、街の開発にともなって地下に埋設される例、つまり暗渠はたくさん見てきましたが、辰巳用水は誕生した時から一部の区間は暗渠だったということです。
石管はそのなごり。説明板の言葉を借りれば『遺品ということになります』。更に説明を付け加えると、こういった石管は『ニ千数百個といわれている』とのこと。そして、その膨大な数の石管のつなぎ目には『松脂、桧皮などを用いて』水漏れを防いだそうです。
ということで
金沢城のインフラである辰巳用水の一部は、江戸時代の開設当初から暗渠だったというお話でした。いわゆる伏越(ふせこし)ということになりますが、江戸時代初期に、既にそんな工事をしていたということを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:辰巳用水石管
(尾山神社の南側斜面)
[石川県金沢市尾山]11
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/28
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 辰巳用水
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18478.html
-----------( 追 記 )-----------
現地は別途ご紹介させて頂いた「尾山神社氷室跡地」のお隣です。
<現地>
石垣の左手が氷室跡地。右手に石管があります。説明板が設置されていなかったら、石管は見逃したかもしれません。後ろを振り向けば、そこは金沢合同庁舎です。
<参考>
こちらは別の場所(尾崎神社境内)で撮影した石管です。
<石管と説明板>
なんだろう
説明板には、金沢市内を流れる辰巳用水と、石管に関する説明が記されています。少し抜粋させて頂きながらご紹介します(『』内は原文の転記です)。冒頭に『寛永八年四月(一六三一年)に城下から出火、当時水利の便に悪かった金沢城が全焼した』とあり、これが用水を造るきっかけとなったと記されています。この惨事に対し『翌九年に三代藩主前田利常は十キロ隔たった犀川上流の上辰巳から水を引くことを企て、小松の町人 板屋兵四郎 にその工事を命じた』とのこと。犀川(さいがわ)は金沢市の南側から西側を通って北へ流れる川です。そこから水を引き込むということになりますが、金沢城は周囲と比べれば高台に位置し、更に堀で囲まれています。どうしやって水を引き込んだのでしょうか?
説明を読み進むと『計数に長じた兵四郎』が難工事に挑み、『現在の兼六園から木管をもって城内へ通水した』と記されています。兼六園も金沢城と同じ台地上(段丘上)にありますが、川の上流から、つまりまだ高い位置を流れている川から用水を築くことで、なんとかクリアしたようです。ただ、高低差は克服できましたが、かなりの工程でトンネルを掘らざるを得ない難工事だったとのこと。
そこまで苦労して引き込んだ水ですが、兼六園と金沢城との間には堀があります。台地を断ち切るように設けた、金沢城最大の外堀です。どうやって城側に水を渡したのでしょうか?
水路橋を架けた…
答えは
地下に導水管を設け、堀底より低い位置を経由した水を、サイフォンの原理を利用して高い位置へ上げたそうです。
サイフォンの原理!懐かしい言葉ですね。ホースを使って試してみたのは小学生の時だったか(?)。水は高いところから低いところへと流れるのが原則ですが、空気の入っていない管の中を水で満たせば、もとの位置より高いところを経由してから落下する、つまり一瞬は水位より高い方へ移動するあの原理ですね。『計数に長じた兵四郎』が造った水の路も基本的には同じ原理ですが、逆に一旦低いところを経由した水が、もう一度高い方へ登る構造にしたようです。最終的な水の出口が、スタート地点の水位よりは低いことに変わりはありません。水の動きだけみれば「登って降りて」ではなく「降りて登って」になることから、逆サイフォンと呼ぶそうです。
なんだか理科ブログになってしまいましたが、私は学校の先生ではないので、表現が不適切であったらすみません。ただの会社員が、大まかに理解しているとだけと受け止めて下さい。
さて
導水管は当初木管でしたが『天保15年(1844年)に石管に取り替えられた』そうです。
<石管>せきかん
その石管がここに置かれているのですね。辰巳用水そのものの全長は10km以上にも及びますが、兼六園から金沢城を通過する区間では、地中に埋設された石管を経由していたことになります。ごく普通の水路が、街の開発にともなって地下に埋設される例、つまり暗渠はたくさん見てきましたが、辰巳用水は誕生した時から一部の区間は暗渠だったということです。
石管はそのなごり。説明板の言葉を借りれば『遺品ということになります』。更に説明を付け加えると、こういった石管は『ニ千数百個といわれている』とのこと。そして、その膨大な数の石管のつなぎ目には『松脂、桧皮などを用いて』水漏れを防いだそうです。
ということで
金沢城のインフラである辰巳用水の一部は、江戸時代の開設当初から暗渠だったというお話でした。いわゆる伏越(ふせこし)ということになりますが、江戸時代初期に、既にそんな工事をしていたということを共有できれば幸いです。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:辰巳用水石管
(尾山神社の南側斜面)
[石川県金沢市尾山]11
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■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/10/28
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 辰巳用水
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18478.html
-----------( 追 記 )-----------
現地は別途ご紹介させて頂いた「尾山神社氷室跡地」のお隣です。
<現地>
石垣の左手が氷室跡地。右手に石管があります。説明板が設置されていなかったら、石管は見逃したかもしれません。後ろを振り向けば、そこは金沢合同庁舎です。
<参考>
こちらは別の場所(尾崎神社境内)で撮影した石管です。
2023年10月14日
普通の道にしか見えない堀跡(金沢市)暗渠と城跡35 西内惣構のなごり
金沢市内には、藩政時代に造られた用水が、網目のように張りめぐらされています。その一部は、金沢城総構えの堀、つまり城下町防御の役割を兼ねていました。
<西町藪ノ内通>にしちょうやぶのうちどおり
ここは交通量の多い国道157号と並行する裏通り。何の変哲もない道ですが、ここにもかつては堀の役割を担った用水がありました。地下に埋設、つまり暗渠化されて地表からは姿を消しましたが、この道そのものが、そのまま用水の流路なのです。
別な言い方をすると、ここが「西内惣構堀」と呼ばれる防衛ラインということになります。そう思うと、ただの道が違った景色に見えなくもありませんね(無理?)。この付近は西藪ノ内通りと呼ばれていますので、防衛ラインに沿って設けられた土塁と竹藪を勝手に想像しながら眺めました(竹藪が地名の由来という話はありません)。
実は
市内には総構え(=惣構)の堀跡としてもっと分かりやすいところ、例えば標柱や説明板が設置されている場所が複数あります。ただまぁ、そういったスポットはネット検索すれば分かりますので、当ブログでは敢えて、大半の方が素通りするであろう通りをご紹介させて頂きました。
<西内惣構堀>にしうちそうがまえぼり
規則性がある興味深いひび割れ
総構えの堀のなごりは、すなわち城のなごりです。
■訪問:西藪ノ内通付近
[石川県金沢市西町藪ノ内通]
-----------( 追 記 )-----------
ご紹介させて頂いた堀跡は、有名なこちらの神社の前と繋がっています。
<尾山神社>おやまじんじゃ
前田利家とおまつの方が祀られている尾山神社。有名な観光スポットです。ほとんどの人が上を見上げて鳥居をくぐります。
<鳥居前の水路>
ただ、足元には歴史ある水路が通っています。しかも暗渠ではなく、ここでは開渠(水面が見える状態)になっています。つまり意識すれば気付ける状態。都市化にともなって堀は狭くなったようですが、人の暮らしを潤す用水としていまも活かされています。
お城巡りランキング
■参考及び出典
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 金沢城惣構跡
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18455.html
<西町藪ノ内通>にしちょうやぶのうちどおり
ここは交通量の多い国道157号と並行する裏通り。何の変哲もない道ですが、ここにもかつては堀の役割を担った用水がありました。地下に埋設、つまり暗渠化されて地表からは姿を消しましたが、この道そのものが、そのまま用水の流路なのです。
別な言い方をすると、ここが「西内惣構堀」と呼ばれる防衛ラインということになります。そう思うと、ただの道が違った景色に見えなくもありませんね(無理?)。この付近は西藪ノ内通りと呼ばれていますので、防衛ラインに沿って設けられた土塁と竹藪を勝手に想像しながら眺めました(竹藪が地名の由来という話はありません)。
実は
市内には総構え(=惣構)の堀跡としてもっと分かりやすいところ、例えば標柱や説明板が設置されている場所が複数あります。ただまぁ、そういったスポットはネット検索すれば分かりますので、当ブログでは敢えて、大半の方が素通りするであろう通りをご紹介させて頂きました。
<西内惣構堀>にしうちそうがまえぼり
規則性がある興味深いひび割れ
総構えの堀のなごりは、すなわち城のなごりです。
■訪問:西藪ノ内通付近
[石川県金沢市西町藪ノ内通]
-----------( 追 記 )-----------
ご紹介させて頂いた堀跡は、有名なこちらの神社の前と繋がっています。
<尾山神社>おやまじんじゃ
前田利家とおまつの方が祀られている尾山神社。有名な観光スポットです。ほとんどの人が上を見上げて鳥居をくぐります。
<鳥居前の水路>
ただ、足元には歴史ある水路が通っています。しかも暗渠ではなく、ここでは開渠(水面が見える状態)になっています。つまり意識すれば気付ける状態。都市化にともなって堀は狭くなったようですが、人の暮らしを潤す用水としていまも活かされています。
お城巡りランキング
■参考及び出典
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 金沢城惣構跡
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18455.html
2023年04月30日
暗渠と城跡34 渋取川と蓮上院土塁(小田原市)
小田原城総構の東側の堀跡と土塁跡の話です。
<蓮上院土塁>れんじょういん
すっかり市街地化された小田原市内に残る土塁跡です。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)の際に小田原北条氏が築いた総構の一部で、近くの寺院の名から蓮上院土塁と呼ばれています。小田原城の痕跡は丘陵地帯に数多く残されていますが、街の開発が進む平野部に残された土塁はとても貴重です。
<土塁の窪み>
土塁が凹んでいる場所があります。土塁に何らかの建物を築いた跡かと思いきや、現地説明板によれば小田原空襲で投下された爆弾が着弾した跡だそうです。戦国時代の城のなごりを感じるためにここまで来ましたが、昭和の戦争の痛ましい傷跡をも実感することになりました。
<渋取川>しぶとりがわ
土塁に寄り添うように続くこの道は、総構の堀として利用された渋取川の暗渠です。暗渠とは、地下に埋設された川のこと。この付近は低地であるため、かつては湿地が広がり、川も流れていました。その場所ならではの事情を巧みに利用して、外敵の侵入を拒む工夫を施していたわけですね。
<土塁跡>
それにしても、ここまで立派に残っていると見応えがあります。
<川跡>
一方で、土塁とセットの川は、もはや見ることは叶いません。ただ、暗渠だと気付けば感じることはできます。堀として機能した川も、貴重な歴史の証人。当ブログがきっかけで、渋取川の暗渠に気づき、水の流れを想像してもらえたら嬉しいです。
<街中の渋取川>
暗渠も城のなごりです
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:蓮上院土塁
[神奈川県小田原市浜町]2丁目
■参考
・Wikipedia:2023/4/30
・現地説明板
(小田原市教育委員会)
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<蓮上院土塁>れんじょういん
すっかり市街地化された小田原市内に残る土塁跡です。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)の際に小田原北条氏が築いた総構の一部で、近くの寺院の名から蓮上院土塁と呼ばれています。小田原城の痕跡は丘陵地帯に数多く残されていますが、街の開発が進む平野部に残された土塁はとても貴重です。
<土塁の窪み>
土塁が凹んでいる場所があります。土塁に何らかの建物を築いた跡かと思いきや、現地説明板によれば小田原空襲で投下された爆弾が着弾した跡だそうです。戦国時代の城のなごりを感じるためにここまで来ましたが、昭和の戦争の痛ましい傷跡をも実感することになりました。
<渋取川>しぶとりがわ
土塁に寄り添うように続くこの道は、総構の堀として利用された渋取川の暗渠です。暗渠とは、地下に埋設された川のこと。この付近は低地であるため、かつては湿地が広がり、川も流れていました。その場所ならではの事情を巧みに利用して、外敵の侵入を拒む工夫を施していたわけですね。
<土塁跡>
それにしても、ここまで立派に残っていると見応えがあります。
<川跡>
一方で、土塁とセットの川は、もはや見ることは叶いません。ただ、暗渠だと気付けば感じることはできます。堀として機能した川も、貴重な歴史の証人。当ブログがきっかけで、渋取川の暗渠に気づき、水の流れを想像してもらえたら嬉しいです。
<街中の渋取川>
暗渠も城のなごりです
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:蓮上院土塁
[神奈川県小田原市浜町]2丁目
■参考
・Wikipedia:2023/4/30
・現地説明板
(小田原市教育委員会)
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2023年03月19日
方形館の堀の跡(蕨城)暗渠と城跡33
今回は堀跡と思われる城址公園沿いの道の話です。
<城址公園通り>
位置的にむかしは堀だったのではないでしょうか
ただの道ではないか?
はい
ただかつてあった城の形からそう推定することができます。
<蕨城跡>わらび
ご覧の通り城跡は整備された公園となっています
<城址碑>
城址公園を象徴する巨大な城址碑
<城址碑と説明板>
この付近がそのまま土塁跡と考えられています
蕨城は関東探題として派遣された足利将軍家の一族・渋川氏の居城でした。沼と深田に囲まれた微高地上に築かれた城で、周りには堀と土塁がめぐらされていたとのことです。
縄張りですが、方形の区画を堀と土塁で囲む極めてシンプルな構造だったようです。一概には言えませんが、こういった方形館は、軍事的な意味合いより、どちらかというと所領を治める拠点として機能した城でよく見かけます。中世初期の武士の館としては、決して珍しい形ではありません。
そんな方形館の跡地がほぼそのまま公園として整備されているのが蕨城址公園です。
<土塁沿いの池>
これは人工的な池ですが、土塁との位置関係からして堀跡なのでしょう
そして
<暗渠>あんきょ
こちらには人工の池もありませんが、位置関係からして方形の区画を囲んだ堀跡と推定されます。
<水の路>
道の下には公園内からの水が集まっているようなので、いわゆる暗渠ということですね。堀跡は道になりましたが、地下にはまだ水の路が確保されています。
ということで
方形の城跡からかつての堀の位置を推定してみた。その堀跡は暗渠になっていたという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
<和樂備神社>わらび
城址公園のお隣の和樂備神社も城の一部だったと思われます。
■訪問:蕨城址公園
[埼玉県蕨市中央]4丁目
■参考
現地説明板(蕨市教育委員会)
お城巡りランキング
<城址公園通り>
位置的にむかしは堀だったのではないでしょうか
ただの道ではないか?
はい
ただかつてあった城の形からそう推定することができます。
<蕨城跡>わらび
ご覧の通り城跡は整備された公園となっています
<城址碑>
城址公園を象徴する巨大な城址碑
<城址碑と説明板>
この付近がそのまま土塁跡と考えられています
蕨城は関東探題として派遣された足利将軍家の一族・渋川氏の居城でした。沼と深田に囲まれた微高地上に築かれた城で、周りには堀と土塁がめぐらされていたとのことです。
縄張りですが、方形の区画を堀と土塁で囲む極めてシンプルな構造だったようです。一概には言えませんが、こういった方形館は、軍事的な意味合いより、どちらかというと所領を治める拠点として機能した城でよく見かけます。中世初期の武士の館としては、決して珍しい形ではありません。
そんな方形館の跡地がほぼそのまま公園として整備されているのが蕨城址公園です。
<土塁沿いの池>
これは人工的な池ですが、土塁との位置関係からして堀跡なのでしょう
そして
<暗渠>あんきょ
こちらには人工の池もありませんが、位置関係からして方形の区画を囲んだ堀跡と推定されます。
<水の路>
道の下には公園内からの水が集まっているようなので、いわゆる暗渠ということですね。堀跡は道になりましたが、地下にはまだ水の路が確保されています。
ということで
方形の城跡からかつての堀の位置を推定してみた。その堀跡は暗渠になっていたという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
<和樂備神社>わらび
城址公園のお隣の和樂備神社も城の一部だったと思われます。
■訪問:蕨城址公園
[埼玉県蕨市中央]4丁目
■参考
現地説明板(蕨市教育委員会)
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タグ:埼玉
2023年02月12日
暗渠と城跡32 (岩槻)横矢掛かりの暗渠
岩槻の街中でこんな光景を目にしました。
<クランク>
ただの曲がった道?ではありますが、この道は堀の跡です。
城下町で道が曲がりくねっていること自体は決して珍しくありません。外敵の侵入に備えて、直進を防ぎながら見通しも悪くする工夫のなごりですね。ただ、ここはもともと堀が設けられていた場所です。堀とセットで、土塁や塀なども設けられていたことでしょう。城でよく見かける横矢の意味があったのかもしれませんね。
横矢?
これはそのまま「よこや」と読みます。敵に対し、側面からの攻撃を横矢といい、そのための仕掛けを横矢掛り(よこやかかり)といいます。具体的には、土塁や城壁を意図的に折り曲げ、近寄る者を正面と側面の両方から狙い討ちするための構造をいいます。
岩槻城の場合、城の中心的な部分だけではなく、城下町そのものを堀や土塁で囲む構造、いわゆる総構えになっていました。よって、街のあちらこちらにこの「横矢掛かり」が施されていても不思議ではありません。都市化のため、かつて総構えの城があった痕跡はどんどん街から消えてゆきますが、水の通り道として活かされたこの暗渠が、堀のなごりをいまに留めています。
<堀跡の暗渠>
曲がった道は更に奥でまた折れ曲がっていますね
■訪問:岩槻市内
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目7
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<クランク>
ただの曲がった道?ではありますが、この道は堀の跡です。
城下町で道が曲がりくねっていること自体は決して珍しくありません。外敵の侵入に備えて、直進を防ぎながら見通しも悪くする工夫のなごりですね。ただ、ここはもともと堀が設けられていた場所です。堀とセットで、土塁や塀なども設けられていたことでしょう。城でよく見かける横矢の意味があったのかもしれませんね。
横矢?
これはそのまま「よこや」と読みます。敵に対し、側面からの攻撃を横矢といい、そのための仕掛けを横矢掛り(よこやかかり)といいます。具体的には、土塁や城壁を意図的に折り曲げ、近寄る者を正面と側面の両方から狙い討ちするための構造をいいます。
岩槻城の場合、城の中心的な部分だけではなく、城下町そのものを堀や土塁で囲む構造、いわゆる総構えになっていました。よって、街のあちらこちらにこの「横矢掛かり」が施されていても不思議ではありません。都市化のため、かつて総構えの城があった痕跡はどんどん街から消えてゆきますが、水の通り道として活かされたこの暗渠が、堀のなごりをいまに留めています。
<堀跡の暗渠>
曲がった道は更に奥でまた折れ曲がっていますね
■訪問:岩槻市内
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]1丁目7
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暗渠と城跡31 (岩槻)堀の暗渠と土塁の暗渠
城そのものだけではなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構え。久しぶりの訪問となった岩槻の街中で、こんな光景を目にしました。
<堀跡と土塁跡>
すごい眺めだな
これもかつての岩槻城総構えのなごりです。右手の道はかつての堀跡。左手の坂はかつての土塁上へつながる道です。
岩槻の街中には、あちらこちらで堀の痕跡を目にすることができます。
こんな感じで
ここも
すべてかつて堀があった場所です。大半は埋められてしまっているので、ただの通り道にしか見えませんが、一部は水路として活用され、やがて蓋をされ暗渠となっています。堀のなごりです。
これに対し、土塁はというと…
往来の妨げになりますので、ほぼ崩されてしまいました。当たり前ですね。これは岩槻に限ったことではありません。繰り返しになりますが、都市開発には邪魔な存在といわざるを得ません。
<愛宕神社土塁>
岩槻で、ほぼ昔のまま土塁がのこっているのはここだけです。土塁上に神社があることから、取り壊しを免れた理由と思われます。
<総構えのなごり>
愛宕神社ほど良好ではありませんが、この高低差も総構えの時のなごり。この付近は、加倉口と呼ばれた城下町の出入口の一つでした。都市化により、今では堀跡だけでなく、高い位置にも水の路が確保されています。
<水の路>
ちょっと加筆させて頂きました。こんな感じですね
ということで
堀の暗渠と土塁の暗渠の話でした。拙ブログに最後までお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:岩槻の堀跡
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]2丁目3
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<堀跡と土塁跡>
すごい眺めだな
これもかつての岩槻城総構えのなごりです。右手の道はかつての堀跡。左手の坂はかつての土塁上へつながる道です。
岩槻の街中には、あちらこちらで堀の痕跡を目にすることができます。
こんな感じで
ここも
すべてかつて堀があった場所です。大半は埋められてしまっているので、ただの通り道にしか見えませんが、一部は水路として活用され、やがて蓋をされ暗渠となっています。堀のなごりです。
これに対し、土塁はというと…
往来の妨げになりますので、ほぼ崩されてしまいました。当たり前ですね。これは岩槻に限ったことではありません。繰り返しになりますが、都市開発には邪魔な存在といわざるを得ません。
<愛宕神社土塁>
岩槻で、ほぼ昔のまま土塁がのこっているのはここだけです。土塁上に神社があることから、取り壊しを免れた理由と思われます。
<総構えのなごり>
愛宕神社ほど良好ではありませんが、この高低差も総構えの時のなごり。この付近は、加倉口と呼ばれた城下町の出入口の一つでした。都市化により、今では堀跡だけでなく、高い位置にも水の路が確保されています。
<水の路>
ちょっと加筆させて頂きました。こんな感じですね
ということで
堀の暗渠と土塁の暗渠の話でした。拙ブログに最後までお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:岩槻の堀跡
[埼玉県さいたま市岩槻区本町]2丁目3
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