2023年04月30日

暗渠と城跡34 渋取川と蓮上院土塁(小田原市)

小田原城総構の東側の堀跡と土塁跡の話です。

<蓮上院土塁>れんじょういん
renjouin-dorui-Odawarajo.JPG
すっかり市街地化された小田原市内に残る土塁跡です。豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)の際に小田原北条氏が築いた総構の一部で、近くの寺院の名から蓮上院土塁と呼ばれています。小田原城の痕跡は丘陵地帯に数多く残されていますが、街の開発が進む平野部に残された土塁はとても貴重です。

<土塁の窪み>
renjouin-doruiato.JPG
土塁が凹んでいる場所があります。土塁に何らかの建物を築いた跡かと思いきや、現地説明板によれば小田原空襲で投下された爆弾が着弾した跡だそうです。戦国時代の城のなごりを感じるためにここまで来ましたが、昭和の戦争の痛ましい傷跡をも実感することになりました。

<渋取川>しぶとりがわ
renjouindorui-Ankyo-Shibutori-Odawara.JPG
土塁に寄り添うように続くこの道は、総構の堀として利用された渋取川の暗渠です。暗渠とは、地下に埋設された川のこと。この付近は低地であるため、かつては湿地が広がり、川も流れていました。その場所ならではの事情を巧みに利用して、外敵の侵入を拒む工夫を施していたわけですね。


<土塁跡>
renjouindorui.JPG
それにしても、ここまで立派に残っていると見応えがあります。

<川跡>
Ankyo-Shibutorigawa-Odawara.JPG
一方で、土塁とセットの川は、もはや見ることは叶いません。ただ、暗渠だと気付けば感じることはできます。堀として機能した川も、貴重な歴史の証人。当ブログがきっかけで、渋取川の暗渠に気づき、水の流れを想像してもらえたら嬉しいです。


<街中の渋取川>
Ankyo-Shibutori-river-Odawara.JPG
暗渠も城のなごりです

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:蓮上院土塁
[神奈川県小田原市浜町]2丁目

■参考
・Wikipedia:2023/4/30
・現地説明板
(小田原市教育委員会)



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2023年03月19日

方形館の堀の跡(蕨城)暗渠と城跡33

今回は堀跡と思われる城址公園沿いの道の話です。
<城址公園通り>
Joshikoen-dori.JPG
Joshikoen-dori-Ankyo.JPG
位置的にむかしは堀だったのではないでしょうか

ただの道ではないか?

はい
ただかつてあった城の形からそう推定することができます。

<蕨城跡>わらび
Warabijoshi-entrance.JPG
Warabijo-Park.JPG
ご覧の通り城跡は整備された公園となっています

<城址碑>
Warabijo-monument.JPG
城址公園を象徴する巨大な城址碑

<城址碑と説明板>
Warabijo-earthworks.JPG
この付近がそのまま土塁跡と考えられています

蕨城は関東探題として派遣された足利将軍家の一族・渋川氏の居城でした。沼と深田に囲まれた微高地上に築かれた城で、周りには堀と土塁がめぐらされていたとのことです。

縄張りですが、方形の区画を堀と土塁で囲む極めてシンプルな構造だったようです。一概には言えませんが、こういった方形館は、軍事的な意味合いより、どちらかというと所領を治める拠点として機能した城でよく見かけます。中世初期の武士の館としては、決して珍しい形ではありません。

そんな方形館の跡地がほぼそのまま公園として整備されているのが蕨城址公園です。

<土塁沿いの池>
Warabijo-pond.JPG
これは人工的な池ですが、土塁との位置関係からして堀跡なのでしょう

そして

<暗渠>あんきょ
Warabijo-Ankyo.JPG
こちらには人工の池もありませんが、位置関係からして方形の区画を囲んだ堀跡と推定されます。

<水の路>
Warabijo-Ankyo-Water.JPG
道の下には公園内からの水が集まっているようなので、いわゆる暗渠ということですね。堀跡は道になりましたが、地下にはまだ水の路が確保されています。

ということで
方形の城跡からかつての堀の位置を推定してみた。その堀跡は暗渠になっていたという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

<和樂備神社>わらび
Warabij-shrinegate.JPG
城址公園のお隣の和樂備神社も城の一部だったと思われます。

■訪問:蕨城址公園
[埼玉県蕨市中央]4丁目

■参考
現地説明板(蕨市教育委員会)



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2023年02月12日

暗渠と城跡32 (岩槻)横矢掛かりの暗渠

岩槻の街中でこんな光景を目にしました。

<クランク>
Ankyo&Shiroato-32-Iwatsuki.JPG
ただの曲がった道?ではありますが、この道は堀の跡です。

城下町で道が曲がりくねっていること自体は決して珍しくありません。外敵の侵入に備えて、直進を防ぎながら見通しも悪くする工夫のなごりですね。ただ、ここはもともと堀が設けられていた場所です。堀とセットで、土塁や塀なども設けられていたことでしょう。城でよく見かける横矢の意味があったのかもしれませんね。

横矢?

これはそのまま「よこや」と読みます。敵に対し、側面からの攻撃を横矢といい、そのための仕掛けを横矢掛り(よこやかかり)といいます。具体的には、土塁や城壁を意図的に折り曲げ、近寄る者を正面と側面の両方から狙い討ちするための構造をいいます。

岩槻城の場合、城の中心的な部分だけではなく、城下町そのものを堀や土塁で囲む構造、いわゆる総構えになっていました。よって、街のあちらこちらにこの「横矢掛かり」が施されていても不思議ではありません。都市化のため、かつて総構えの城があった痕跡はどんどん街から消えてゆきますが、水の通り道として活かされたこの暗渠が、堀のなごりをいまに留めています。

<堀跡の暗渠>
Ankyo&Shiroato-32-Yokoya.JPG
曲がった道は更に奥でまた折れ曲がっていますね

■訪問:岩槻市内
[さいたま市岩槻区太田]1丁目7


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暗渠と城跡31 (岩槻)堀の暗渠と土塁の暗渠

城そのものだけではなく、城下町の外周も堀や土塁で囲む総構え。久しぶりの訪問となった岩槻の街中で、こんな光景を目にしました。

<堀跡と土塁跡>
Ankyo-Shiroato-31-Iwatsuki.JPG
すごい眺めだな

これもかつての岩槻城総構えのなごりです。右手の道はかつての堀跡。左手の坂はかつての土塁上へつながる道です。

岩槻の街中には、あちらこちらで堀の痕跡を目にすることができます。
Iwatsuki-Ankyo-Horiato.JPG
Iwatsuki-Ankyo&Shiroato-hori.JPG
こんな感じで

IwatsukiAnkyo-horiato.JPG
ここも

すべてかつて堀があった場所です。大半は埋められてしまっているので、ただの通り道にしか見えませんが、一部は水路として活用され、やがて蓋をされ暗渠となっています。堀のなごりです。

これに対し、土塁はというと…

往来の妨げになりますので、ほぼ崩されてしまいました。当たり前ですね。これは岩槻に限ったことではありません。繰り返しになりますが、都市開発には邪魔な存在といわざるを得ません。

<愛宕神社土塁>
Iwatsuki-Atagojingyadorui.JPG
岩槻で、ほぼ昔のまま土塁がのこっているのはここだけです。土塁上に神社があることから、取り壊しを免れた理由と思われます。

<総構えのなごり>
Ankyo&Shiroato31Iwatsukishi.JPG
愛宕神社ほど良好ではありませんが、この高低差も総構えの時のなごり。この付近は、加倉口と呼ばれた城下町の出入口の一つでした。都市化により、今では堀跡だけでなく、高い位置にも水の路が確保されています。

<水の路>
Ankyo&Shiroato31Iwatsukishi-kahitsu.JPG
ちょっと加筆させて頂きました。こんな感じですね

ということで
堀の暗渠と土塁の暗渠の話でした。拙ブログに最後までお付き合い頂きありがとうございました。

■訪問:岩槻の堀跡
[さいたま市岩槻区本町]2丁目3


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2023年01月28日

消えた三の丸堀跡と土塁跡(小田原城)暗渠と城跡30

今回は小田原城の北側の堀跡と土塁跡の話です。
<土塁跡>
Odawara-Castle-third-compartment-earthworks.JPG
市街地化された場所に堂々と残る土塁。小田原城三の丸の土塁跡です。現地は細長い公園のようになっています。

<説明板>
Odawarajo-Sannomaru-Explanation-board.JPG
通りに面したところにこの説明板が設置されてなければ、素通りしてしまったかもしれません。奥の土塁より、武田信玄・上杉謙信の顔が目に入ったというのが正直なところです。小田原城主北条氏康は、一番最後に気付きました。主役なのに失礼しました。
説明文の前半を以下に転記させて頂きます。
『この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は三の丸の土塁が残されている数少ない場所です。』
貴重な遺構ということですね。これはあくまで江戸時代の遺構ということになりますが、戦国時代に北条氏康・氏政親子が、謙信や信玄を迎え撃った場所もこの付近のようです。

<地図拡大>
Ankyo&shiroato-Map.JPG
なるほど、堀跡と土塁跡か…

<土塁>
Ankyo&shiroato-Odawarashi.JPG
土塁は確認できます

で、堀は?周囲はすっかり市街地化されています…

<道>
Horinonagori.JPG
位置的に堀跡と思われる道。あの曲がり具合は堀の形そのままでしょうか(推定です)

Odawara-Horiato.JPG
明らかに堀跡と推定される敷地。右手に先ほどの土塁が見えていますので、ここは間違いなく埋められた堀の跡です

もう一度土塁に戻って

<階段>
stairs-earthworks.JPG
土塁の橋には階段が設置されており、誰でも通ることができます

<土塁と壁の隙間>
OdawaraCastle-thirdcompartment-earthworks.JPG
土塁の下にはわずかに水の道が確保されています。堀は埋められ原形を留めていませんが、水の道として痕跡だけは残されています

その水の道も途中で姿を消します

<隙間>
Ankyo-Horiato.JPG
途切れたのか?そうではなく、ここから先は地下に埋設されています。いわゆる暗渠ですね。猫くらいしか通りそうもないこの隙間も水の道。ということは、堀のなごり…と思えないこともない

まぁ土塁は見た通りですが、ちょっと堀の方は想像力と思い込みが必要ですかね。ただ、埋もれている痕跡を見つけて勝手に想像してみる。そんな楽しみ方を共有できれば幸いです。

以上、小田原城三の丸堀跡と土塁跡のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:小田原城三の丸土塁
[神奈川県小田原市栄町]1丁目

■参考
・Wikipedia:2023/1/28
・現地説明板



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2021年10月21日

水の道のなごり(神田上水跡)暗渠と城跡29

文京区春日の徳川慶喜屋敷跡へ向かう途中で、自分の歩いている道がそのままかつての水路であることに気付きました。きっかけは通りに設置された説明板です。

<神田上水説明板>
Kandajousui- information-board.JPG
神田上水?ここが?

神田川を通り越し、やや高い場所を歩いている感覚だったので、水の道が通っていることに一瞬戸惑い、よくよく考えて納得しました。水は低い方へ流れるだけ。人の暮らしを支えるために、台地の端を縫うように水路が築かれたわけですね。これなら高い場所にも生活水がいきわたります。

<金富小学校付近>
Kandajousui-Ankyo.JPG
この道がそのまま神田上水の流路です。文京区春日を歩いているつもりでしたが、道の南側(画像左手)の住所は水道。ここに上水が通っていたことが地名の由来です。

神田上水は、徳川家康の家臣・大久保藤五郎により築かれました。大久保藤五郎は家康の命で既に小石川上水を完成させていましたが、その後の江戸の人口の増加や、周辺河川の再整備の影響などもあり、小石川上水を改良する形で神田上水を築き上げました。

<説明板拡大>
Kandajousui-Channel.JPG
神田川と別れた上水は小日向台地南端を通って水戸藩邸内(現在の小石川後楽園)に流れ込んでいたようです。更に東へ進んだのちに南下し、掛樋(=水道橋)で神田川を渡って武家地ほか江戸城下の広範囲に水を供給し続けました。重要なインフラだったわですね。

そんな神田上水も、明治34年(1901年)には役割を終えて暗渠化されました。つまり姿を消しました。

暗渠・・・

この見慣れない字は『あんきょ』と読みます。城跡を主テーマにしている当ブログですが、この暗渠にも着目し、『暗渠と城跡』と題して何度か記事を投稿させて頂いております。暗渠、つまり地下に埋設され姿を消した川や堀は、かつて防衛上重要な役割を担っていた。まぁそんな感じの内容です。

神田上水は、天然の川でも城の堀でもありません。ただこの日ふと頭をよぎったのは、そもそも城とはなんなのかということです。城の概念は時代によって変わっています。戦の時だけ籠もる砦のようなものから始まり、戦国時代末期には、小田原城に代表されるように町そのものを堀や土塁で囲む『総構え』というスタイルも確立されています。町はすなわち人の暮らし。同じく総構えの構造になっている江戸城にとって、暮らしの場はその一部。そういう意味では、上水道に限らず、城下の暮らしを支えるためのインフラは全て城の一部、といえなくもない。

ちょっと極端な考え方ですが、そんなことを思いながら、かつての神田上水の経路を通って徳川慶喜屋敷跡へ向かいました。

■訪問:水道通り
(神田上水跡)
[文京区春日]2丁目付近
[文京区水道]2丁目付近

■参考
・Wikipedia:2021/10/21
・現地説明板
(文京区教育委員会)



-------- 関連画像 --------
<徳川慶喜公屋敷跡>
Tokugawa-Yoshinobu-Yashikiato.JPG
[東京都文京区春日] 2丁目
次の記事で紹介させて頂きます


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2021年09月18日

暗渠となった堀のなごり(法音寺城跡) 暗渠と城跡28 

本来そこにあったものの余韻が漂う。人がそれを感じ取るアンテナはたくさんあるかと思いますが、今回は舗装された道路の表面に感じる城のなごりの話です。訪ねたのは栃木県野木町の法音寺城跡です。

まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
Earthworks.JPG
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
Earthworks-Moat.JPG
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。

つづきまして

<法音寺境内の堀跡>
Bamboo-forest.JPG
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林に残る堀跡です。

<堀跡>
Bamboo-Forest.JPG
盛り土したような僅かな起伏と共に堀跡が確認できます。

前回の法音寺城跡に関する投稿で、冒頭の土塁と堀について「いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます」とコメントさせて頂きました。現地で位置関係を確認しただけで充分そう思えましたが、『間違いない』という心境に至った目印をご紹介します。

<道路の舗装>
Ankyo&Castle.JPG
こちらです。ここだけ舗装が違いますね。道路全体とは異なる工事が施された証です。もう少し具体的に言うと、道を横切って水が通り抜けられるよう地下に水の路を設けた証ということになります。いわゆる『暗渠』ですね。

暗渠?

この見慣れない「あんきょ」と読みます。地下に埋設された水路とか川という意味に受け取って下さい。

城の堀がそのまま水路に転用される例はよくある話です。まぁ水路とまでいかないまでも、雨水が溜まらないように、低い所へ水が流れるよう人の手によって微妙な高低差がつけられていることはよくあります。ここも普段は水がありませんが、そんな役割を果たしているのでしょう。

道を通すからといって遮ってしまっては、水は溜まる一方。場合によっては溢れ出してしまいますね。これを避けるために、地表では途切れたかに見える堀と堀の間を、人知れず地下で繋いでいるわけですね。

何気ない道路の舗装工事にも、そんな事情が隠されている。何でそうしたかに気づくと、その場所ならではの固有の事情を知る手掛かりになります。素人の城跡巡りは、難しいことは考えず、感じたまま景色を受け入れるのが一番と思っています。ただ、暗渠というアンテナをちょっと加えるだけで、一味違った気付きになったりします。

ということで
暗渠に気付き、堀跡と堀跡がいまでも繋がっていることを実感したというお話でした。マニアックなお話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

<現地>
Ankyo&Castle-Nogi.JPG
さすがに土塁は繋げておけませんね

■訪問:法音寺城跡
[栃木県野木町友沼]
posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡

2020年09月08日

暗渠と城跡27 そこにあったもののなごり

今回は、城跡好きがなぜか暗渠に魅かれる理由(の一つ)をご紹介できればと思い、二つの画像を用意しました。

<護岸の跡>
sn479Ankyo.jpg
このコンクリの道はもともと水路でした。道の隅(左手)に残っているのは護岸の跡です。暗渠化工事の際に、構造上の理由から護岸はそのままにして水路が埋められため、こうして跡が残っています。

<見附跡>
shirononagori479.jpg
川の側面に昔の石垣が残されています。かなり高い位置まで積まれていますね。これは江戸城の城門の跡です。痕跡からして『桝形門』という立派な構造だったと思われます。開発の都合で桝形門の石垣は撤去されましたが、川に面した部分は護岸を兼ねているので、取り壊さなかったわけですね(きっと)。

水路は水の通り道として、城門は城の出入り口として、それぞれ役割を果たしていました。形を失いながら、痕跡だけが残されている

情緒的に似たものを感じるのは私だけでしようか?

ということで
今回はあまりくどくど説明しません。画像だけ見比べて頂ければと思います。何を感じるかはその人次第。思い浮かべるものが、その人らしさということで良いと思っています。

埋もれている痕跡を見つけて何かを想像してみる。そのきっかけになれば嬉しいです。


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-------追 記-------
ほぼ同じ内容で、もうちょっと意見を言わせてもらった投稿があります。良かったら覗いてみて下さい。

街の中で痕跡に気付く
sirononagori168sotobori.jpg
[投稿:2017年12月17日]
→記事へすすむ
posted by Isuke at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 暗渠と城跡
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