つわものどもが夢の跡
加賀百万石の居城を訪ねました。
<金沢城>
ひときわ目をひく五十間長屋
■ 城のはじまり ■
金沢城といえば加賀前田家の居城ですね。ただ、城が築かれた丘の軍事利用は、それよりずっと以前、加賀一向一揆の拠点が築かれた時(1546年)から既に始まっていました。あくまで浄土真宗の寺院(金沢御堂)でしたが、二本の川に挟まれた台地上という地の利に加えて、堀や石垣を廻らすことで要塞と化しており、ほぼ「城」だったと伝わります。
このほぼ「城」の寺院は、織田信長の命を受けた柴田勝家率いる軍によって攻略され、跡地に、勝家配下の佐久間盛政が新たに城を築きました(1580年)。これが金沢城のはじまりです。
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。織田軍が金沢御堂に攻めかかった際、一揆側の浪士・平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。一揆側のヒーローの名が坂の名として残っている。壮絶な歴史を感じさせますね。
<本丸付近の石垣>
加賀一向一揆の拠点はその後の金沢城の本丸付近だったと考えられています
■前田利家の居城■
金沢を任された佐久間盛政でしたが、織田信長の死後、柴田勝家が羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れ、斬首となりました。代わって能登から金沢に入ったのが前田利家でした。
利家は当初は柴田勝家に従っていましたが、賤ヶ岳の戦いにおいては、布陣しながら出撃せず。戦わないで帰ってしまい、間接的に秀吉の勝利に貢献しています。利家が秀吉に降伏するのは後の話になりますが、既に秀吉と通じていた、あるいは迷う状態に追い込まれていたようです。
いずれにせよ、利家がこの時に秀吉との対立を回避しなければ、のちの前田家の繁栄はありませんでした。
<尾上神社の前田利家像>
利家が赤母衣衆として活躍した頃の姿ですね。血気盛んだった若武者も、金沢城に入った時には既に40歳を越えていました。最後は知恵を使って生き残った感じですね。ここ尾上神社は、もともとは金沢城の出丸です。そういう意味では、かつての城内で撮影したことになります。ちなみに、金沢城と兼六園の間の道には、もう少し大人びた利家の像が立っています(私は撮影できませんでした)。
<二の丸の石垣と水堀>
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、利家の時代に5重6階の天守が築かれたのですが、落雷が原因で焼失(1602年)。以後は再建されませんでした。幕府への遠慮と思われます。時を経た1759年の火災をきっかけに、金沢城の中枢は本丸から二の丸へと移されました。幕末の金沢城の縄張り図を見ると、二の丸が一番充実しています。
■前田家の金沢城■
城主となった前田利家は改修工事に着手し、城を拡張しました(先述の通り天守も築きました)。まだ戦国時代の真っただ中です。念には念をいれた強固な城造りだったことでしょう。築城の名手とされる高山右近を招いて、指導を仰いだとも伝えられています。利家は金沢城を尾山城と改名しましたが、あまり普及せず、のちに元の名に戻りました。
<大手堀>
金沢城の大手口は北側でした。堀の多くは埋められてしまいましたが、ここは形を残しています。
<新丸>
大手堀の脇から坂を登ると、まず新丸と呼ばれる曲輪に出ます。ここは利家のあとを継いだ利長が拡張した曲輪です。
<三の丸石垣と河北門>
新丸より一段上にあるのが三の丸。金沢城が丘城であることを改めてと実感するポイントです。守りが強固なのはここからです。
<河北門>かほくもん
実質の大手門とも呼ばれる正面の出入り口。構造はいわゆる枡形門で、二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになっています。
<五十間長屋>ごじっけんながや
金沢城のシンボルのようにそびえ立つ五十間長屋。倉庫と防壁を兼ねた建物を金沢城では長屋と呼びます。
<橋爪門>はしずめもん
橋爪門も構造は枡形門です。金沢城は1759年(宝暦9)の火災で大打撃を受け、その後の再建では二の丸を城の中核とする整備が行われました。この門はその出入り口であり、金沢城で最も格式の高い門でした。
<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
一の門を見下ろす位置にある櫓も立派です。橋爪門を通って城の中枢へ向かう人を監視するための櫓です。
<石川門>いしかわもん
石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっていますね。1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。金沢城三御門のうち、河北門と橋爪門は復元ですが、石川門は江戸時代に建てられた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。ここも門の型式はいわゆる桝形門。兼六園側から金沢城公園に入ろうとするとまるで玄関口のようですが、城が現役の頃は搦手門、つまり大手門の逆で裏口にあたる門でした。
<三十間長屋>さんじっけんながや
本丸附段のやや地味な区画にひっそりと佇む三十間長屋。石川門と同じく国の重要文化財に指定されています。
<百間堀跡>ひゃっけんぼり
埋められて姿を消しましたが、こちらは金沢城最大の外堀跡です。城は前田利家・利長により強固な城に改修されますが、この堀は、築城者である佐久間盛政の時代に既に開削が始まっていたそうです。金沢城にとっていかに克服すべき場所だったかが伝わってきますね。丘伝いに攻め込まれないよう、台地を断ち切るようにして設けた堀でした。
<兼六園>けんろくえん
堀を挟んで金沢城に隣接する兼六園。こちらは第五代藩主の前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、以降の藩主たちにより設備されていった庭園です。あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。ただ管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。
■つわものどもが夢の跡■
加賀藩の藩祖・前田利家以降、長男で初代藩主となった利長から最後の藩主・慶寧(よしやす:13代)まで、金沢城は約260年にわたって加賀藩主前田家の居城であり続けました。戦国時代に名をあげた外様大名家が、明治までずっと同じ場所で存続したわけです(前田家はその後も続きます)。これは凄いことですね。
<つわものどもが夢の跡>
兼六園から見た石川門
金沢を任され、子孫の繁栄を願ってこの世を去った藩祖・前田利家も、200年以上先のことまでは考えていなかったかもしれませんね。
--------■ 金沢城 ■--------
別 称:尾山城 尾上城
築城年:1580年(天正8)
築城者:佐久間盛政
城 主:佐久間氏 前田氏
改修者:前田利家 利長
廃城年:1871年(明治4)
現 況:金沢城公園
[石川県金沢市丸の内]1-1
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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/25
・金沢城公園HP
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
・石川県HP
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html
2023年11月25日
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