2021年04月02日

羽生城主・木戸忠朝が入った膳城とは

前回の記事で羽生城をご紹介させて頂きました。戦国期真っただ中の関東で、上杉謙信に与して城を守った木戸忠朝が、羽生城を離れて膳城へ移ったことにも触れさせて頂きましたが、『膳城ってなに?』と思われた方のために、簡単にご紹介させて頂きます。当ブログでの過去記事もございますので、良かったら覗いてみて下さい。
→『記事へすすむ

■膳城■ぜんじょう
<膳城跡>
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膳城は現在の群馬県前橋市にあった城です。歴史は古く、築城は15世紀半ば頃ではないかと考えられています。膳氏が築いたこの山城(平山城)は、小田原北条氏と越後の上杉氏の奪い合いを経て、のちには武田氏(勝頼)の支配下になったこともあります。よって、城主はめまぐるしく変わりました。武田氏滅亡後は再び北条氏の支配下となり、その北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされたのち、廃城となったと考えられています。

<遺構>
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空堀跡です。室町時代から始まり、戦国時代末期まで城として機能したなごりです

<縄張り>
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現地で確認できる遺構だけで判断すると比較的小規模な山城にも映りますが、実際にはもっと広範囲に及ぶ城だったようです。川に挟まれた微高地全体が城だったようです。

さてさて
元城主がたくさんいる膳城の歴史に、羽生城主だった木戸忠朝の名は刻まれているのでしょうか?

■木戸忠朝と膳城■きどただとも
結論を先に言うと、非力なりにいろいろ調べたものの、決定的な資料はみつけられませんでした。興味深い情報もありましたが、出典元を明らかにして太鼓判を押すなんて、こんな程度のブログではおこがましいというのが本音です。かといって何もなしではまとまらないので、メジャーな情報源であるWIKIさんの膳城に関する説明の一部を抜粋させて頂きます。

『天正2年(1574年)上杉方に占拠され、木戸忠朝が入る。天正6年(1578年)上杉謙信死去によって後北条氏に属し河田備前守が城主となる。』
[出典:Wikipedia:2021/4/2]

WIKIさんいつもありがとうございます。一瞬とはいえ木戸忠朝の名が登場していますね。実は他の情報では、膳城に入ったのは木戸忠朝の息子であるとか、あるいはただ木戸氏と紹介されている例もありました。いずれにせよ、関東進出を果たした上杉謙信の戦略上羽生城の木戸氏は重要な存在であり、羽生城を断念しても、引き続き頼りにしたことは事実のようですね。

<膳城祉の石碑>
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上杉謙信の指示で膳城へ移った木戸氏配下には千人規模の兵がいたとも考えられています。戦略的に謙信が温存したくなる一大勢力だったわけですね。そして何より、武蔵の国衆の多くが、あっちへなびいたりこっちになびいたりするなかで、一貫して上杉に従う木戸氏は貴重な仲間だったのでしょう。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori Zen (7).JPG
本拠を失っても、木戸氏の夢はここでまだ続くわけですね

■画像ː膳城
[群馬県前橋市粕川町膳]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/4/2


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2021年03月01日

鎮火に向かった足利市の山火事(両崖山)足利城跡

2月21日から8日間も続いていた足利市の山火事も、ようやく鎮火に向かい、本日3月1日には市長から『鎮圧』が宣言されました。避難勧告もすべて解除となったとのこと。本当に良かったですね。

火災のあった両崖山(りょうがいざん)は、足利城と呼ばれる城が築かれた山でもあり、当ブログでは別名の両崖山城として過去にご紹介したことがあります。
→『記事へ進む

普段は訪問者が少ないこの記事に、突然アクセスが集中していることに気付いたものの、最初は『あの山がどこかで話題になってるのかな』くらいに受けとめていました。しかしニュースで火事になっていることを知り、茫然としました。

私の城巡りは基本的に独りですが、両崖山は旧友たちと苦労して登った山。それなりの思い入れがあります。その後もなかなか鎮火しないので、ずっと気にしていました。

<両崖山>りょうがいざん
Ryogaizan-Iwayama.JPG
岩山です

Ryogaizan-Trail.JPG
尾根道も岩だらけ

Ryogaizan-Ashikaga.JPG
尾根道以外は木々が生い茂っています

Ryogaizan-Rest- area.JPG
頂上手前の休憩所

Ryogaizan-Ishidan.JPG
山頂の神社へ向かう石段

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山頂

火は広範囲に広がり、およそ106ヘクタールが焼け、山頂の神社は全焼してしまったそうです。残念です。しかし消防隊員や自衛隊の皆さんの活躍のお陰で、民家の被害はほぼ無かったそうです。災難に見舞われた中にあって、その結果は何よりですね。

私は城跡として訪問しましたが、足利城跡にはもともと石垣やら城の建物はありません。山の斜面に、堀切や曲輪といった痕跡が確認できるだけです。それらは火事で失われるようなものではなく、今後も残り続けます。前回の私の訪問は、尾根道をただ登って降りただけで、それらの遺構をちゃんと確認できていません。山は当面立ち入り禁止となりますが、いつかまた登ってみたいですね。

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見どころの多い足利市。この山もまた行きますからね

2021年3月1日

■画像撮影:両崖山
[栃木県足利市本城]


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2021年02月23日

市河城比定地 真間山弘法寺  

国府台城の別名は市河城(市川城)です。現在の市川市に位置していることから、何ら不思議ではなかったのですが、ブログにまとめるにあたり調べているうちに、この『市河城』は国府台城の東側の真間山にあったもので、国府台城とは別の城という説があることを知りました。別?今回の国府台訪問で真間山へも足を運んでいますので、少しだけ紹介させて頂きます。

■真間山■ままさん
<真間山弘法寺>ぐほうじ
Mama-Ichikawa (8).JPG
こちらは真間山の石段です。この階段を登った先の弘法寺周辺が、市河城だったのではないかと考えられています。かつてはすぐ近くにまで入江が迫っていたといいますから、ほぼ海に面した高台だったのでしょう。

<仁王門>
Mama-Ichikawa-Guhouji-Gate.JPG
階段を登りきると仁王門が待っています。立派さに圧倒されました。弘法寺は長い歴史の刻まれた寺院。由緒ある古刹に相応しい堂々の佇まいです。

<祖師堂>
Mama-Ichikawa-Guhouji.JPG

<枝垂れ桜>
Guhouji-2.JPG
樹齢4百年といわれる桜。伏姫桜と呼ばれています。南総里見八犬伝の伏姫に由来する名前です。見事な花を咲かせるそうですが、私の訪問は2月。ちょっと早すぎました。

<説明板>
Guhouji-Note.JPG
弘法寺に関する詳細が記されています。

ちょっと長いので、市川市教育委員会さんの文を一部引用させて頂きながら説明させて頂きます。ここ弘法寺は『奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまり』とのこと。手児奈(てこな)とは女性の名前です。美貌が故の悲話が、この地の伝説として語り継がれています。『その後平安時代弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じた』とのこと。歴史ある寺だということが伝わってきますね。更に、かつて国府が置かれた下総国の中心地であったことや、『本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある』といった説明がなされています。文はまだ続きますが、ここで一旦終わりにします。『』内は説明板の抜粋です。市川市教育委員会さん、ありがとうございました。

さて
境内の見どころは沢山ありますが、今回はここが城だったかもしれないということがテーマなので、先ほどの説明板の左下にある絵図に注目したいと思います。

<説明板の絵図>
Guhouji-Map.JPG
中央が真間山弘法寺です。冒頭の石段の急こう配を含め、周辺の地形が良くわかりますね。麓は平地になっていますが、更に手前は水辺のようです。説明文にも登場した『真間の手児奈』は、自分さえいなければ人の争いが収まると考えて海に身を投げてしまいます。伝説からも、水辺が近かったことが伝わってきますね。また、地名の真間は「崖地」を意味しています。険しい地形がそのまま地名となっているわけですね。

環境を見る限り
何らかの砦が築かれても不思議ではない

そんな感じです
では国府台城とは別といわれるこの真間山の城は、誰の城として機能したのでしょうか?

諸説ありますが、千葉氏の内紛において、宗家(武蔵国へ逃れたため武蔵千葉氏とも呼ばれる)が下総千葉氏に対抗すべく籠城したのが『市河城』、つまり国府台城ではなく真間山の城だったと言われています。

<盛り土>
Mama-Ichikawa-Castle.JPG
そういう目線で見ると、門の隣の盛り土が城の土塁に見えなくもない?

事前に知っていればもうちょっとしつこく見て回ったのですが、この程度の画像でしか準備できず残念です。山頂は広く平らに造成されていますので、比較的規模の大きな拠点が築かれてもおかしくありません。山の斜面にはそれらしい痕跡もなさそうなので、あくまで単郭式の砦のような防衛施設だったのかもしれません。あるいは、既にあった寺院の境内を補強して砦としたのかも?(すべて個人的な想像、というより妄想です)。

<石段>
mama-stone-steps.JPG
また行ける日はくるのかな

繰り返しになりますが、国府台城と市河城が別の城というのは諸説あるなかのひとつです。素人会社員にこれ以上のことは言えませんが、そうだったかも知れないという丘に偶然足を運び、高低差などを体感できていたことに、いまさらながら満足しております。

ということで
城跡かもしれない真間山と弘法寺のご紹介でした。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:真間山弘法寺
[千葉県市川市真間]4-9-1


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2021年02月20日

道灌の陣城から始まる里見氏の前線基地 国府台城

つわものどもが夢の跡
今回は江戸川沿いの崖城の話です。

<国府台城>こうのだい
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あの太田道灌が陣城として選んだ場所が、そのまま城となった国府台城。江戸川沿いの高台に築かれ、戦国時代の激戦区の拠点として機能していました。

■陣城■
陣城とは戦のための臨時の城のこと。本格的に造成する場合もあれば、要害の地にとりあえず陣営を構えるような場合も含みます。

太田道灌が国府台にどのように陣取ったかはわかりません。ただ、戦上手の道灌に選ばれるだけの理由があったのでしょう。当時の道灌は、千葉氏宗家の血筋でありながら下総国を追い出された兄弟(武蔵千葉氏)を支援していました。下総国へ攻め込む足掛かりとして、江戸側から川を渡ってすぐの丘に仮の陣を構えたようです。

<江戸川>
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江戸川です。かつては太日川と呼ばれ、江戸湾に注ぐ渡良瀬川の下流でもありました。右手に見えている丘を道灌が陣城として利用し、のちに道灌の弟である太田資忠が千葉氏の臼井城を攻める際に城を築きました。太田氏から始まる城ということですね。

■激戦の地■
国府台はもともとは下総の国府が置かれる文化の中心地でした。しかし国の堺に位置するため、戦国期になってそこに築かれた城は、政治の中心というより、利害が反する勢力同士が奪い合う出城のような存在となりました。支配者は太田氏・千葉氏・里見氏・上杉氏、そして関東の覇者となる小田原の北条氏。ちょっと誰の城とも言い切れません。

<里見公園>
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城跡は里見公園として整備されています。

<城内>
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花見の名所にもなっているそうです

<羅漢の井>
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山城に井戸というと強い味方という印象ですよね。ただ、こちらの井戸は標高の低いところにあるので(目の前が江戸川)、戦闘とは切り離して見学させて頂きました。弘法大師がみつけた湧き水という言い伝えがあります。

<市川市最高標高地点>30.1m
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公園内のこの一角は市川市で最も標高が高い場所です

<城内からの眺め>
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江戸川の流れを見下ろす高台です。江戸方面がよく見えます

<明戸古墳>あけどこふん
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城内の古墳に関する説明板。国府台城はこの地にもともとあった明戸古墳と敷地が重なります。

<明戸古墳石棺>
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築城の時に発見されたと伝わります。国府台城は古墳を削って城を築いたわけですね。

<石積み>
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石垣?これは城として整備された時のものではありません。明治時代以降に軍の施設が置かれていたことから、城内はかなり手直しされていると思われます。

<地形>
shirononagori-515-kounodai-castle.JPG
二重土塁のようにも映りますが、明治以降の造成の程度が分からず、なんとも言えません。いまも残る地形の凹凸に、城らしさを感じて眺めてみる。そんな訪問となりました。


■里見の前線基地■
国府台を舞台に繰り広げられた戦いで、特に有名なのが第一次及び第二次国府台合戦です。背景は複雑なので今回は省略しますが、北条軍と里見軍が激突した戦いです。

関東制覇を目論む北条氏に対し、里見氏は激しく抵抗し続けました。国府台城は北条氏の下総国侵攻を食い止める前線基地として、どうしても守り抜きたかった城だったのでしょう。

<国府台駅ホーム>
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国府台駅で下車して最初に目に飛び込んできたのがこの『里見公園』の絵図でした。川沿いの高台であることが強調されています。国府台城は里見氏がずっと支配していたわけではありませんが、城跡は里見公園と呼ばれている。いいですね。

kounodai-castle-river.JPG
景色は変われど低地との高低差は昔も今も同じです。房総半島で勢力を誇った里見氏としては、なんとかここで強敵を食い止めておきたかったわけですね。

里見氏は第二次国府台合戦において北条氏に大敗。一旦衰退し、再び勢力を挽回するものの、最終的には北条に屈することとなります。しかしその北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされるに至り、戦乱の世を生き残った里見氏は、江戸初期において関東最大の外様大名となりました。


■つわものどもが夢の跡■
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里見氏にとって前線基地だった国府台城は、北条氏の手に落ちたあと更に拡張整備されました。その北条氏が滅亡すると、城としての役割は終りました。

---------■国府台城■---------
別 名:市川城・鴻之台城
築城主:太田資忠
築城年:1479年(文明11)
(太田道灌の陣城1478年)
城 主:千葉氏・里見氏・北条氏
廃 城:1590年頃
[千葉県市川市国府台]


-------追 記-------
国府台城は当ブログで二度目の投稿となります。最初の投稿は以下の通りです。
■江戸川沿いの崖城
SN124konodai (2).jpg
[投稿:2017年09月12日]
→『記事にすすむ



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2021年01月30日

蝦夷に逃れた小山若犬丸の伝説(祗園城・鷲城を拠点とした小山氏のなごり)

今回は北海道上ノ国町に伝わる関東武士の伝説の話です。具体的には、鎌倉の幕府軍に滅ぼされた下野国の小山氏の末裔の話です。よかったらお付き合い下さい。

■関東の名族・小山氏■おやまし
小山氏は現在の栃木県南部に勢力を誇った関東屈指の武士団でした。藤原秀郷の末裔・太田政光が移り住んだ土地の名から小山氏を名乗ったことに始まり(1150年頃)、嫡流が代々下野守護を務その継承は2百年以上続きました。
<祗園城跡>ぎおんじょう
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栃木県小山市の祗園城跡です。2百年以上続く名族小山氏の居城でした。

<思川と祗園城>おもいがわ
Oyama-Gionjo-River.jpeg
川に面した丘に築かれた城です

しかし11代目当主の小山義政の時に、鎌倉公方と争うことになり(小山義政の乱:1386年〜)、幕府軍に滅ぼされてしまいます。のちに小山氏再興のため、親戚関係の結城氏から当主を迎えることになりますが、長らく続いた嫡流はここで一旦途絶えました


■若犬丸とは■わかいぬまる
当主亡き後、その遺志を継いで鎌倉公方に抵抗する男が現れました。その名も小山若犬丸!諸説ありますが、小山若犬丸は小山義政の嫡男小山隆政のことだと考えられています。つまり幕府軍に滅ぼされなければ、小山氏12代目当主となっていた男。若犬丸は父の遺志を継いで鎌倉公方足利氏満に反抗し、居城である祇園城に立て籠もります。しかし、討伐軍に敗れました。

<祗園城本丸跡>
Oyama-Gionjo-Main-Mailey.jpeg
本丸跡とされる場所です

一度敗れた若犬丸ですが、十年の時を経て、再び鎌倉公方を相手に挙兵します。凄い執念ですね。しかし、やはり幕府軍には叶いませんでした。

<鷲城>わしじょう
Washi-Castle-Oyama.jpeg
二度目の挙兵はここ鷲城を拠点としたと伝わります。

若犬丸には幼い息子がいましたが、捕えられて鎌倉へ送られ、のちに海に沈められてしまいます。敗戦の将となった若犬丸ですが、逃れた先(会津)で自害したとする説もある一方で、蝦夷地に逃れたという説があります。

下野国の男が蝦夷に?

以下は北海道の上ノ国町のホームページから転記させて頂きます。
『15世紀にはいると、小山隆政(こやまたかまさ)、蛎崎季繁(かきざきすえしげ)が渡道し、花沢館を拠点として和人支配地の拡大を図っていました。当時各地の拠点として道南に12以上の館があったという。館を中心に次第に勢力を蓄えた各地の館主は、下之国(しものくに)、上之国(かみのくに)、松前の三守護職の支配下に置かれ、箱館、松前、上ノ国を拠点とする三つの商品流通圏が成立しました。』
[出典:上ノ国町ホームページ]

小山隆政の名がありましたね。隆政は11代当主の嫡男・若犬丸と見なされている一方で、実は若犬丸の弟ではないかという説もあります。私は前者を信じますが、仮に弟の方だとしても、名族の生き残りが当時の蝦夷地へ逃れ、拠点となる館まで築いていたことに驚かされます。他にも、先住民たるアイヌと争うことになったものの、勇敢な戦いぶりからカムイとして祀られたといった話もありますが、調べきれなかったことと、信憑性に欠けるといったご意見もあるようなので、今回はここまでにしておきます。

<鷲神社>
Washi-Shrine-Oyama.jpeg
鷲城の本丸跡に鎮座する鷲神社です。一族の祖・小山政光が武蔵国の鷲宮神社を勧請したことに始まると伝えられています。

ここを拠点に再起を期した若犬丸の夢は一旦途絶えました。しかし遠い北の大地で、そのつづきがあったのかもしれませんね。

<鷲神社の参道>
shirononagoriWashijinja (4).JPG
つわものどもが夢の跡

■画像の撮影■
●祗園城(城山公園)
[栃木県小山市城山町]
→『当サイト記事へすすむ
●鷲城(鷲神社)
[栃木県小山市外城]
→『当サイト記事へすすむ

■参考及び出典■
[上ノ国町ホームページ]
教育・文化 > 文化財 > お役立ち情報 > 北の中世を旅する


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2020年05月16日

明智家ゆかりの地 沼田城

<沼田城址>
ahirononagori432Nimata (2).JPG
沼田城といえば、まず真田家を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?沼田藩は真田昌幸の長男・信之から始まり、5代続きました。で、そのあとですが、天領を経て本多家が3代、黒田家が2代、そして12代続いた土岐家で明治維新となります。

土岐家は12代!
凄いですね。約130年だそうです。

この土岐家ですが、祖は土岐明智家の出です。武功を重ねて認められ、のちに土岐家の家名再興のため名を改めました。つまり、沼田には明智の流れが受け継がれていたことになりますね。

もう少し具体的に言います。まず、明智光秀で有名な明智氏は、清和源氏土岐氏の支流です。沼田藩土岐家の祖となる土岐定政は、父親が明智定明、母親は菅沼家の菅沼定広の娘でした。詳細はわかりませんが、定政は明智光秀のいとこにあたるという説もあります。父が戦で亡くなると、定政は母方の菅沼家に身を寄せ菅沼姓を名乗ります。やがて徳川家康の家臣となって活躍し、1万石の大名となり、土岐を名乗りました。

土岐家から枝分かれした明智家の出が、また土岐家を名乗った。そういうことですね。

ということで
真田ゆかりの沼田は、ちょっとだけ明智ゆかりの地でもあるというお話でした。名門『土岐氏のゆかり』と言ってしまえば済むものの、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせてあえて土岐明智ゆかりの地とご紹介させて頂きました。拙ブログ、最後までお読み頂きありがとうございます。沼田城訪問の記録は別途投稿していますので、よかったらのぞいてみて下さい。

記事:河岸段丘の地の利 沼田城
→『記事へすすむ

訪問:沼田城址
[群馬県沼田市西倉内町]

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本丸・二の丸が公園として整備されています


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2020年04月28日

上州のおんな城主・妙印尼輝子(新田金山城)

つわものどもが夢の跡
今回は名城を舞台に活躍したおんな城主の話です
<新田金山城>にったかなやまじょう
kanayamajo sn424.jpg
こちらは群馬県太田市の金山城。関東七名城のひとつに数えられる山城です。

■妙印尼輝子■みょういんにてるこ
この方は金山城を拠点とする由良家当主・成繁の正室です。由良家に嫁ぎ、のちに当主となる由良国繁、足利長尾氏の家督を継ぐことになる顕長らを生み、夫の死後に出家して妙印尼を名乗りました。諸説ありますが、妙印尼は館林城主の赤井氏の出と推定されています。そうすると、元の名は赤井輝子ということになりますかね。

<物見台>ものみだい
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外敵を見張るために設ける土台

妙印尼の嫁ぎ先である由良家は、もともとは金山城を築いた岩松家の家臣という立場でした。詳細は省略しますが、下克上により金山城城主となります。戦国の世に突入すると、関東の多くの武将がそうであるように、上杉・武田・北条の巨大勢力に翻弄され続けます。しかし、由良家は堅城・金山城を拠点に巧みに生き残り、着実に地元での勢力を拡大。やがては現在の群馬県東部の覇者にまで昇りつめます。

■関東覇者との対立■
戦国時代も末期をむかえると、それまで有力武将がしのぎを削ってきた関東は、ほぼ小田原の北条家が支配するところとなっていました。第5代当主となった北条氏直は、常陸の佐竹を攻めることを口実に、金山城の借用という無理難題を由良家に突き付けます。この時、当主の由良国繁と弟の長尾顕長、つまり妙印尼の息子二人は、氏直の要請で小田原城に赴いたまま実質幽閉されてしまいます。これでは、もはや打つ手がありませんね。

由良家の家臣団は、北条家に対し当主らの変換を求めます。これに対し、北条側は北条氏邦・氏照が兵を率いて城主不在の金山城を攻撃することとなりました。

北条家屈指のつわものが率いる軍勢です。状況からして、由良家はもう万事休すという感じですね。

<堀切>ほりきり
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山の斜面を削って設ける堀

しかし
当主の母である妙印尼は、残った家臣たちを指揮して籠城戦にもちこみます。リーダー不在で強敵を前にした者たちを束ねるには、それ相応の統率力が必要です。妙印尼はこれをやってのけ、更には北条家と対立する常陸の佐竹義重(18代当主)と連携し、関東の覇者に立ち向かいました実質的な城主ですね。

妙印尼輝子
この時すでに71歳です

凄いとしか言いようがありません。戦国時代屈指のおんな城主ではありませんか。

交渉の結果、同年和議が成立。由良家は当主の解放と引き換えに堅城・金山城を北条側に明け渡し、桐生城に移ることとなりました。まぁ最後は開城したわけですが、滅ぼされず和議まで持ち込んだだけでも大仕事と言えるのではないでしょうか。

<大手虎口>おおて・こぐち
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大手は城の正面・虎口は入り口の意味

■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて北条征伐に乗り出します。この時、妙印尼の息子二人(由良国繁・長尾顕長)は北条方として小田原城に籠城しました。妙印尼は息子に代わって桐生城を守っていましたが、前田利家を通じて降伏そして孫である由良貞繁(当主の息子)を大将として、北条配下の 松井田城を攻めるいわゆる北国軍(前田利家や上杉景勝らの連合軍)に参陣します。つまり豊臣軍の一員として戦ったわけですね。これが秀吉に認められ、小田原征伐の戦後処理において、常陸牛久に5400石を与えられています。

当主が北条に味方していながら
由良家の存続に成功

当主の母として、元当主の妻として、大役を果たしたわけですね。ちなみに、この時既に76歳でした。妙印尼は移住先の牛久にて81歳で没します。当時の81歳ですから大往生ですね。

■つわものどもが夢の跡■
<城内の大ケヤキ>
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推定樹齢が800 年の大木

北条軍を相手に金山城で籠城戦を指揮した妙印尼輝子。同じ時代に、石田三成が率いる軍勢による水攻めに耐えた忍城のなかに、妙印尼輝子の孫娘がいました。『のぼうの城』でも大きく取り上げられた甲斐姫です。母が妙印尼の娘、父は忍城城主の成田氏長です。のちに秀吉の側室となる甲斐姫は、美貌だけでなく、武芸にも秀でていたそうです。

上州の女は強いですね

そう言い切ってしまうと怒られそうですが、私の妻も群馬の女ですのでお許し下さい。

<金山の遠景>
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関東平野を見下ろせる群馬の山

■画像:金山城
[群馬県太田市金山町]

金山城のご紹介は↓こちらになります
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2020年04月19日

山城山頂に残る神秘の溜池 金山城 日ノ池

関東七名城のひとつに数えられる群馬県太田市の金山城。下剋上を成し得た由良氏の居城、上杉謙信でも落とせなかったといわれる戦歴、そして調査を基に復元された現在の姿。どれをとっても訪問する価値のある城と思っています。そんな金山城において、ちょっと異彩を放っているのが今回ご紹介の『日ノ池』です。

<日ノ池>
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こちらです。大きさは直径16mくらい。結構大きいです。深さは約2mから2.5m程度。金山城の溜池と受け止めて間違いないとは思いますが、見た瞬間に違和感というか、不思議に思いました。

土に浸み込んだ雨水が、山の中腹や麓で湧水となるのはよく分かります。そして、それらを利用して溜池が設けられる。城を訪問するよく見かける光景です。しかしこの『日ノ池』は山の頂上付近です。標高にして約240m、麓からでも150m以上はあります。構造として不思議な上に、枯れることがないとまで言われています。冒頭でご紹介の通り、軍神と呼ばれた男でも落とせなかった城。地形や縄張りに加えて、水の確保が完璧であったことも城兵を有利に導いていたのでしょうね。

実際に水は湧き出ているのかもしれませんが、素人がザッと見た感じでも、頂上付近の地形及び張り巡らされた排水路に、水が枯れない理由があるような印象でした。

<復元された城内の排水路>
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<日ノ池の位置>
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頂上付近とはいえ日ノ池は周辺よりは低い場所になっています。もともと岩の多い山ですが、その表面に更に石を敷くことで水は地面に浸み込まないまま低い場所へ集まる。そういう構造なのかもしれません。


それにしても
石で象られた円形の池はまるで西洋の神殿のようです。
shirononagori413  (23).jpg
独特の美しい形が、なんとも神秘的です。実はこの池は、何らかの信仰の場だったのではないかとも考えられています。

発掘調査の結果、城が築かれるより前の時代の土馬(どば)が出土しているそうです。土馬とは馬の形をした土製の人形ですね。こういったことから、池そのものは築城とは関係なく既にここに設けられていて、何らかの信仰の場だったのではないかという説があります。土馬は川跡などからよく出土され、雨乞いなどの祭事で本物の馬の代わりに使われたれするので、日ノ池もそういった祭事の場だったのではないかと推定されています。

また、金山城が築かれ、城に内包される構図になってからも、神聖な場所であることに変わりはなく、例えば武将たちが戦を前に神社で戦勝祈願をするように、ここで武運を祈願するようなことが行われていたのではないかとも考えられているようです。

特別な場所

まずは籠城の時に機能する溜池としてご紹介しましたが、もっともっと人らしい意味で特別な場所だったのかもしれませんね。


そして城内にはもう一つ
月ノ池』と呼ばれる池があります.
<月ノ池>
shirononagori424kanayama (2).jpg
こちらは直径約7mの溜池。日ノ池よりサイズは小さくなりますが、こちらもしっかりと石に囲まれた円形で、独特の雰囲気を醸し出しています。なんとも神秘的な溜池です。画像の奥は大手虎口。城の縄張りでは、大切な水場は目立たないところに設けられ例が多いですが、ここ金山城では堂々と入口付近で異彩を放っています。

shirononagori413  (13).jpg
向こう側に谷状の地形が見えますね。もともとの地形ではなく、二つの曲輪を遮断するために設けられた堀切です。そこから池の方向に向かって、いかにも水が集まってきそうな感じがします。日ノ池同様、水は湧き出るだけではなく、周辺の雨水が集まりやすいような構造になっています。


ということで
城内の溜池のご紹介でした。金山城は堅城と称される山城であるとともに、神秘的な雰囲気を醸し出す不思議な城でもありますね。

shirononagori413  (12).jpg

■訪問:金山城
[群馬県太田市金山町]

金山城の本編はこちらです。良かったら覗いてみて下さい。
→『金山城のなごり


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posted by Isuke at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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