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2024年07月08日

関城書 苦戦する関城から送られた北畠親房の書状

(関城の追記です)

<関城跡>せきじょう
Sekijo-Chikuseishi.JPG
茨城県筑西市の関城跡です。この城は南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となりました。戦いの最中に、籠城していた南朝方の重鎮・北畠親房は、白河の結城親朝に来援を求める書状を送っています

■関城書■ かんじょうしょ
関城書は関城に籠城していた北畠親房が、白河の結城親朝に送った書状です。結城親朝は南朝方の有力武将のひとりだった結城宗広の子で、宗広の病死(1338年)後、その動向が北朝方からも南朝方からも注目されていました。北畠親房が送った書状はで約70通にも及びます。一般的には、そのうちの一通(1342年3月22日付書状)を指して関城書と呼びます。

北畠親房は後醍醐天皇に仕えた上流貴族です。身をなげうって京から東国へ移り、劣勢の南朝を支え続けました。漢文による格調高い書面で記された親房の書状は、南朝の苦戦を伝えるだけではなく、神代以来の国のあり方を記し、本来の朝廷(つまり南朝)に尽くすことが武士の役割であることを説いています。あくまで結城親朝に決起を促すものですが、この時に親房が記した関城書は、後世の思想に少なからず影響を与えました。

■結城親朝■ ゆうきちかとも
北畠親房からの要請を受け、結城親朝はこれに応えるべく周辺の北朝方と交戦を続けました。白河の関を実質支配する結城親朝の奮闘は、南朝朝廷からも高い評価を得ています(修理権大夫任じられています)。

ここまでは北畠親房の期待通り。ただ、近衛経忠による北畠親房排除の動きが、東国の南朝勢に混乱を招くことになり、その流れで結城親朝と北畠親房の関係も徐々に悪化。最終的には、結城親朝の北朝方への寝返りに至りました。

<参考:小峰城>こみねじょう
shirononagori259 (2).jpg
[福島県白河市郭内]
日本100名城に選ばれている白河小峰城。戊辰戦争にも巻き込まれた歴史の長い城ですが、始まりは結城親朝による築城でした。当初の小峰城は、現在の本丸付近だったと考えられています。

結城親朝は、父である宗広とは別の基盤を自力で築いた武将です。父亡きあと、子である顕朝(あきとも)に白河結城氏の家督を継がせ、自らは独立した立場を貫き、小峰城を築いて居城としました(1340年)。

寝返りという言葉だと悪い印象しか残りません。ただ、周辺の諸勢力に囲まれながら、孤立した状態で南朝であり続けることは、身を滅ぼしかねない状況だったのかもしれませんね。

北畠親房からの書状は、たとえ筋が通っていたとしても、目の前の現実と照らし合わせると無理な要請。南朝方が分裂し始めていることも把握していたでしょうし、己の力を頼りに生き残ってきた親朝としては、受け入れられなかったのかも知れませんね。

<関城跡>
Seki-Castle-Chikusei.JPG
関城書に込められた北畠親房の願いは、結局のところは叶いませんでした。受取人も、発送元である関城の城主・関宗祐も結城氏の出です。血縁であっても、敵と味方に分かれせざるを得ない状況下。南朝の正統性、そして武士の本分を説いた書状が、結城親朝の心変わりに歯止めをかけることはありませんでした。

■訪問:関城
[茨城県筑西市関館]


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■参考
Wikipedia:2024/7/8
タグ:茨城
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2024年07月07日

関城の天然堀 大宝沼のなごり

関城を訪問した帰り道、こんな標柱と出会いました。
<大宝城跡の標柱>だいほうじょうあと
Daihou-numa.JPG
大宝城跡?ここって城跡なの?

場所は関城跡の目の前です。

<関城跡>
Main-Bailey-Seki-Castle.JPG
たったいま関城の南端の遺構を確認して…

<下り坂>
Daihounuma-Sekijo.JPG
微高地から低地へ降りたばかり…

関城の天然堀だった沼へ降り立ったことは意識していましたが、急に「大宝城跡」と言われても、意味が分かりませんでした。とりあえず現地からX(旧twitter)で冒頭の画像をアップ。すると、この付近に詳しいフォローワーさんからすぐに連絡からあり、標柱はこの付近のかなり広範囲に設置されていることを教えてもらいました。

更に現地でネット検索すると、大宝城そのものは、ここからもう少し南へ行った大宝八幡宮付近であることが分かりました。直線距離で2kmちょっと。本来なら余裕で徒歩圏内です。

行ってみたいなぁ…

ただ、この日は午前中が小山市、午後から筑西市探索というスケジュール。既に体力を使い切っていました。

また来られるとは限らないが…

断念しました(残念)。

仕方なく、帰宅してからゆっくり調べ直すことに。そこで分かったことは…

<国指定史跡>
Daihounuma-Signpost.JPG
設置されている標柱には『国指定史跡大宝城跡』と記されていますが、大宝城本体だけでなく、大宝城の天然の堀だった大宝沼をも含めた範囲を指しているということ。むしろ史跡指定区域の大半は、かつての大宝沼と重なるようです。

つまり私が出合った標柱は、ここがかつての大宝沼であることの目印になっていたわけですね。その沼の北岸に築かれたのが関城なのですから、やっと納得できました。

更に分かったことは

<飛び地あり>
Big-Swamp-Daihounuma.JPG
関城のまん前なので、私は筑西市のつもりで歩いていましたが、市境となるこの付近は、ところどころ下妻市の飛び地となっているようです。下妻市の城の標柱が、この付近に点在していることも納得できました。


■大宝城とは■
せっかくですので、大宝城について。茨城県教育委員会さんのホームページによれば、大宝城は『西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われることから三方断崖に面した要害の地でした。』とのこと。北側に向かって突き出した舌状台地に築かれた城だったようですね。そして、その範囲は東西288m、南北576mといいますから、相当広かったようです。
『』内はHPの原文をそのまま転記)

大宝城主の築城者は下妻長政。元の名は小山長政です。つまり下野の小山氏の出です。下妻の地頭となり、そのまま地名を名乗りました。そして孫にあたる下妻政泰の時に、南朝・北朝の壮絶な戦いに巻き込まれることになりました。

私が訪問した関城同様、南朝方の重要拠点だったようです。というより、戦においては関城とセットで機能していたようです。関城には北畠顕家が、大宝城には同族の春日顕国が南朝の征夷大将軍・興良親王を奉じて入城。南朝方の二大拠点という感じですね。ただその後の戦況は好ましくなく、北朝方による激しい攻撃に晒され続けます。長期の籠城戦の末に大宝城は関城とほぼ時を同じくして落城(1343年)。城主である下妻政泰は命を落としました。

<水田地帯>
Daihounumaato.JPG
大宝沼は大宝城と関城の天然の堀でした。いまは御覧の通りで、水田に姿を変えています。私の訪問は3月下旬のためこんな眺めでしたが、いずれ稲穂がたなびく素晴らしい景色になるのでしょう。

ということで
関城跡を訪ねた帰りに、大宝沼のなごりを感じ、帰宅してから大宝城についても調べてみたという内容でした。会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

<内沼川>うちぬまがわ
Uchinumagawa.JPG
この水の流れも沼地だったなごりですね

■訪問:大宝沼の跡
(大宝城指定区域)
[茨城県筑西市関舘]
[茨城県下妻市福田](飛び地)


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■参考及び出典
・Wikipedia:2024/7/7
・茨城県教育委員会HP
 いばらきの文化財>大宝城跡

https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-94/
タグ:茨城
posted by Isuke at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年06月28日

関城のなごり (筑西市)

つわものどもが夢の跡
南北朝時代の関東で、南朝方の重要拠点となった城跡を訪ねました。
<関城>せきじょう
Seki-Castle-Chikusei.JPG
ここは茨城県筑西市。旧関城町の城跡です。

■ 南朝の城跡 ■
関城の築城は鎌倉時代。名族・結城氏当主(朝広)の四男だった朝泰が、領地の一部を相続して関氏を名乗り、居城を築いた時から始まります。

南北朝時代に突入すると、本家の結城氏が北朝方だったのに対し、関氏は南朝方につきます。親戚関係ではありますが、利害が一致しなかったのでしょう。城主の関宗祐(せき むねすけ)は、小田治久の南朝離反を機に、それまで小田城在城だった北畠親房を関城に迎え入れます。北畠親房は南朝方の重鎮です。高師冬ら北朝軍の攻撃は激しさを増しましたが、籠城戦でこれに耐え続けました。この間に、北畠親房は小田城で着手していた歴史書『神皇正統記』に筆を加えて完成させています

<北畠親房が籠城>きたばたけちかふさ
Sekijo-Castle-Ruins.JPG
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。ここ関城は、戦の重要拠点であったと同時に、日本の歴史観に多大な影響を与えた歴史書が完成した場所もあります。

■ 現地訪問 ■
私は城の北側から徒歩で現地へ向かいました。
<関城跡案内図>
Guide-Map-Sekijo.JPG
こちらは関城駐車場で撮影した地図です。関城は沼に向かって半島のように突き出した台地の南端に築かれました。つまり北を除く三方向が天然の水堀に守られていました。とはいえここは関東平野のど真ん中。台地と低地に劇的な高低差があるわけではありません。分類すると平城ということになります。

<関城北側の土塁>
Earthwork-Sekijo-Sekitate.JPG
Earthwork-Hachiman-Shrine-Sekitate.JPG
沼に囲まれた城が、唯一台地続きとなるのが北側です。こちらはその付近に設けられた土塁の跡。開発により遺構がほとんどない関城にあって、この土塁は良好な状態で残されています。当時の姿からはほど遠いのでしょうが、ありがたい遺構です。

<八幡神社>
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
土塁はこちらの神社の境内で撮影しました。神域であるが故に、開発から取り残されたのでしょう。

ところで
土塁のあった八幡神社のすぐ近くで、こんな遺構と出会いました。

<関城坑道跡>こうどうあと
sekijo-koudoato.JPG
trace-of-tunnel-seki-castle.JPG
坑道跡です。設置されている筑西市の説明板によれば、この坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で、関城の物見櫓を攻め落とすために掘られたものとのこと。地盤の柔らかさから崩落し、作戦は失敗に終わりますが、城の土塁のすぐ外側で、こんな工事がなされていたわけです。別な見方をすると、城の間近に攻め寄せながら、ここから先が難儀だったのでしょう。

<城の東側>
East-Side-Seki-Castle.JPG
南へ移動しながら振り返って、先ほどの八幡神社付近を撮影。あの付近から続く左手(西側)の微高地は全て関城跡ということになります。逆に右手の低地はかつての沼(大宝沼)。沼の畔を歩いている感じなのでしょうか?あるいは、足が水に浸かった状態なのかもしれませんね。

地形に従って歩き続け、城の南端へ回り込むと

<関城通り>
Sekijo-Street.JPG
おお。こういうのが目に入ると気分が盛り上がりますね。あとで知りましたが、左手の斜面の奥は、沼に舟を出すための船着き場があったようです。

<地蔵尊>
Jizo-Statue-Sekijo.JPG
低地から台地へ。坂を登るとお地蔵さんが出迎えてくれました。向きは逆ですが…

そして

<関城跡>
Main-Bailey-Seki-Castle.JPG
冒頭の画像の場所に到着。ここが本丸跡と思ってやってきましたが…

<縄張り図>
Guide-Map-Sekijo-ato.JPG
厳密に言うとこの地点は本丸ではなく、そのすぐお隣といった感じのようです。まぁ広大な関城の中心付近であることに違いはありません。

<説明板>
Guide-Plate-Seki-Castle.JPG
南北朝対立争乱の時代に、関城が小田城などとともに南朝方の拠点であったことが冒頭に記されています。少し抜粋させて頂くと『関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。』とのこと。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Houkyoin-Tower-Seki.JPG
正面の宝篋印塔が関宗祐の墓と伝えられています。右側の石柱には「関宗祐之墓」と刻まれていますが、現地の説明文からして、宗祐・宗政父子の墓と受け止めてよいのでしょう。すぐお隣、左手に小さく映っているのが、北朝方として関城に攻め込み戦死した結城直朝の墓。直朝は当主だったため、弟が結城氏の家督を継ぐことになりました。

全体的に画像が見づらくてすみません。当ブログ、お墓そのものは遠くから撮るようにしています。

<土塁跡>
Main-Bailey-Earthwork-Sekijo.JPG
宝篋印塔の背後には土塁の跡。ここが城であった証が形として残っています。


■ つわものどもが夢の跡 ■
朝廷が二つに分かれた余波は、全国に拡大しました。関城での攻防戦は、日本中で約半世紀続いた動乱の一部に過ぎませんが、焦点を絞ってじっくりと城跡と向き合うと、その壮絶さが伝わってきます。

<関城のなごり>
Earthworks-Sekijoato.JPG
心にとどめおくべき先人たちのなごりですね

-------■ 関 城 ■-------
築城者:関朝泰
築城年:鎌倉時代
城 主:関宗祐 他
廃城年:不明
[ 茨城県筑西市関館 ]


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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・Wikipedia:2024/6/28
・筑西市HP
 国指定文化財>関城跡

https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
posted by Isuke at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年06月23日

劣勢の南朝を支え続けた北畠親房の足跡(筑西市)関城跡

筑西市の関城は、南北朝時代に南朝の重鎮だった北畠親房が、歴史書・神皇正統記を完成させた場所としても知られています。

<北畠親房が入城した関城跡>
Main-Bailey-Seki-Castle.JPG
関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。

当時、関城の関宗祐宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛かっていた神皇正統記を完成させました

<説明板>
Guide-Plate-Seki-Castle.JPG
関城に関する説明板です。最後のほうに、北畠親房が『小田城で書いた日本史の「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です』と記されています。

神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。後醍醐天皇から信任を受けた北畠親房は、状況が厳しい環境下でこれを書きあげました。

<関城土塁跡>
Main-Bailey-Earthwork-Sekijo.JPG
のちの時代の日本の歴史観に大きく影響した歴史書が、ここ茨城県筑西市で書き上げられたわけですね。

やがて関城は北朝側からの総攻撃を受けて陥落。関宗祐・宗政親子は討死しました。北畠親房親房は、落城寸前に落ち延び吉野に逃れ(1343年)、その後も南朝方の中心人物として活躍を続けました。

<宝篋印塔>ほうきょういんとう
Houkyoin-Tower-Seki.JPG
こちらの宝篋印塔は関宗祐の墓と伝えられています。

<つわものどもが夢の跡>
Sekijo-Castle-Ruins.JPG
南朝の公家・北畠親房が関東武士・関氏とともに籠城した城跡です。

■訪問:関城跡
[茨城県筑西市関館]


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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
 国指定文化財>関城跡

https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
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2024年06月17日

関城の北を守った土塁跡(筑西市)関舘の八幡神社

難攻不落と言われた関城の土塁が、良好に残っている八幡神社にお邪魔させて頂きました。

<鳥居>
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
こちらです

<八幡神社>
Hachiman-Shrine-Sekitate.JPG
言うまでもなく、多くの武将から崇敬された八幡神を祀る神社です。

<拝殿>
Hachiman-Shrine.JPG
まずは手を合わせたものの、社殿裏手の土塁に気付いてしまっているので、やや興奮を抑えられませんでした。

<本殿と土塁>
Earthwork-Behind-Shrine.JPG
関城の土塁跡です

関城は南北朝時代に戦乱に巻き込まれた城です。南朝方の重要拠点であったことから、北朝方の激しい攻撃に晒され続けました。今回お邪魔させて頂いた八幡神社は城の北側です。

<関城跡案内図>
Guide-Map-Sekijo.JPG
これは別な場所(関城駐車場)で撮影した地図です。城は巨大な沼に半島のように突き出した台地の南端に築かれました。よって東・南・西の三方向は天然の水堀に守られています。台地続きとなるのは北側のみで、ここに人の手で土塁や空堀を配置するのはごく自然な流れと言えます。この地図だと、右上に八幡神社が記されています。城を囲んでいた土塁は、途中から既に失われていますが、八幡神社内だけは残っていることがわかります。

<土塁>
Earthwork-Hachiman-Shrine-Sekitate.JPG
Hachiman-Shrine-Earthwork.JPG
貴重な城のなごりです。開発により遺構が少なくなっている関城跡ですが、八幡神社境内の土塁は、かなり良好な状態といえます。

<良好な遺構>
Earthwork-Sekijo-Sekitate.JPG
神域であることが幸いした結果ですね

■訪問:関城 北側土塁跡
 ( 八幡神社 )
[茨城県筑西市関舘]


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■参考及び引用
・関城跡案内図 [関城駐車場設置]
・関城坑道跡説明板(筑西市)
・筑西市HP
 国指定文化財>関城跡

https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
・城郭図鑑HP>関城
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/008ibaraki/033seki/seki.html
タグ:茨城
posted by Isuke at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年06月16日

関城を攻めた北朝軍のなごり(筑西市)関城坑道跡

関城跡へ向かう道中、攻め手が掘った坑道跡に立ち寄りました。

<関城坑道跡>せきじょうこうどうあと
sekijo-koudoato.JPG
まもなく関城到着という地点です。遥か彼方に筑波山。手前には説明板が設置されています。

<現地説明板>
Tunnel-Warfare-Explanatory-Text.JPG
なるほど、分かりやすい

■高師冬による坑道跡■こうのもろふゆ
現地の説明文によれば、坑道は南北朝時代に北朝方の高師冬の指揮で掘られたようです。関城跡は南朝方の拠点です。説明文をそのまま引用させて頂くと『関城の物見やぐらを攻め落とすために抗夫を募って地下道を掘ったあと』とのことです。

凄い作戦に出ましたね。城内の櫓の支柱を地下から破壊しようとしたのでしょう。攻め手が城の東北から掘りはじめると、関城の城兵も城の外に向かって掘り進んだと記されています。これは、どうするつもりだったのでしょうね?いずれにせよ、地盤の軟弱さから攻め手の坑道が落盤してしまい、結局は双方が坑道の掘削を中止したようです。

<未完の坑道>
trace-of-tunnel-seki-castle.JPG
その時の坑道跡が発見されたのは大正時代。関館の青年2人が、八幡宮西部里道の側面に偶然発見し、世に知られるようになったそうです。『日本3坑道の一つとして戦史上貴重な価値を有するもの』とのこと。念のため他の二つを調べてみましたが、分かりませんでした。(『』内は原文のまま転記)
  
地盤の弱さから落盤した南北朝時代の坑道が、大正時代まで残っていたことが奇跡ですね。今はコンクリで補強されています。

<坑道入口>
trace-of-tunnel-sekijo.JPG
まさか入ろうとは思いませんが、ちょっとで良いので中をのぞいてみたかったですね。ただ御覧の通り立入禁止の鎖が張られています。ルールを守って外からの撮影だけにしました。

<坑道跡石碑>
koudoato.JPG
こちらは説明板背後の盛土の上に設置されている石碑です。周囲に縄が張ってあるので近づけず、ちょっと厳しい角度から撮影しました。盛ってある土は穴を掘った時のなごりでしょうか?あるいは関城の土塁のなごり?石碑の向こうに森が見えていますが、そこはかつての関城の城内で、現在は八幡神社となっています。

<八幡神社鳥居>
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
説明文にあった八幡様です。

<八幡神社境内>
Hachiman-Shrine-Earthwork.JPG
関城北側の土塁がはっきり残っています。土塁はいまでこそ境内のみですが、城が現役の時には、坑道口付近まで繋がっていたようです。この堅い守りを、北朝方はどうしても突破したかったわけですね。

<つわものどもが夢の跡>
Valuable-Remains-Tunnel-Warfare.JPG
見た目は地味ですが、存在そのものが貴重です

■訪問:関城坑道跡
(八幡神社近く)
[茨城県筑西市関舘]


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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
 国指定文化財>関城跡

https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
タグ:茨城
posted by Isuke at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2024年06月08日

井上城のなごり(筑西市)北朝軍武将高師冬の本陣址

つわものどもが夢の跡
南北朝時代に北朝方が拠点とした山城跡を訪ねました。

<井上城>いのうえじょう
Inoue-Castle-Chikusei.JPG
ここは旧真壁郡関城町。南朝方の関城を攻略するための臨時の城だったと考えられています。

南朝勢力を鎮圧すべく、北朝方は足利尊氏の重臣・高師冬を関東へ派遣。高師冬は巨大な沼(大宝沼)に囲まれていた関氏の城を攻略するために、約2q北のこの地に陣を敷いたと考えられています。

<現地説明板>
Inoue-Castle-Explanation-Board.JPG
冒頭に『北朝軍武将高師冬の本陣址』と記されています。攻め手の本陣は普通なら仮設の陣地、しかしここ井上城は堀と土塁を備えた本格的な城だったようです。このことから、攻略すべき関城は攻めるのに難儀な要害で、攻め手も長期戦を想定していたのではないかと考えられているようです。

<説明板縄張り図>
Inoue-Castle-Territory-Map.JPG
Aが現在位置で主郭ですね。Bが二ノ郭、Cが三ノ郭。城は更に北にまで達していたようです。臨時の城といっても、兵が長期的に滞在する必要があったようですから、あまり手狭だと困りますよね。各曲輪に分散して待機していたのでしょう。

曲輪と曲輪は谷で仕切られています。人の手も加えられたかもしれませんが、この時代ですから、ほぼ自然地形を活かしたものなのでしょう。説明文によれば、この付近の低湿地は、関城の天然堀である巨大沼と水路で繋がっていたとのこと。戦で舟が大きな役割を果たしたようです。各曲輪に船着き場があったなんてこともあるかもしれませんね(想像です)。

<微高地>
Inouecastle-differenceinheight.JPG
奥が城跡。手前はむかし低湿地だったのでしょう

<城内>
Inouejo-Inside-View.JPG
長期戦に備えて北朝方の兵が寝泊まりしたかもしれない場所

事実として、敵である関城は長期間籠城を続けました。敵地に乗り込んだ北朝の兵は、どんな思いで過ごしたのでしょうね

<城内からの眺め>
Inouejo-Outside-View.JPG
城の外は当時は足場の悪い低湿地。逆に攻め込まれたら逃げ場はありません

ということで
遺構はほぼありませんが、現地でいろいろ想像して楽しめたので満足な訪問となりました。ただの城好き会社員のブログですので、その程度に受け止めてください。

<高師冬の陣城>こうのもろふゆ
View-Inoue-Castle.JPG
北朝軍を率いる高師冬が指揮を取った陣城跡です

------■ 井上城 ■------
築城者:北朝方
築城年:南北朝時代
城 主:高師冬
廃城年:不明
[茨城県筑西市木戸]

<黒子駅>くろご
Kurogo-Station-Kanto-Railway.JPG
最寄り駅の黒子駅。井上城跡はここから北西に約1q弱です。


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■参考及び出典
現地説明板(梨想の会)
タグ:茨城
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2024年03月29日

リニューアル祗園城(小山市)城山公園

<城山公園>
Renewal-Shiroyamakoen-Monument.JPG
こちらは北関東の名族・小山氏の居城として知られる祇園城跡です。現在は城山公園として整備されています。

<思川>おもいがわ
Renewal-Shiroyama-Park-River-View.JPG
祇園城は思川を望む高台に築かれた山城です。

<観晃橋>
Renewal-Shiroyama-Park-Oyama-City.JPG
思川に架かる観晃橋

<公園内>
Renewal-Shiroyama-Park.JPG
Renewal-Gionjo-Honmaruato.JPG
曲輪跡です。舗装された道が妙に綺麗ですね?

これらの画像は、工事が終了した直後に撮影したものです。公園全体のリニューアル工事はまだ続いていましたが、一部が公開されている状態でした。

<リニューアル前>
Shiroyamakoen-Monument.jpg
Oyama-Gionjo-Horikiri.jpg
Oyama-Gionjo-Moat.jpeg
工事前の祇園城です。城のなごりが漂い、これはこれで魅力的でした。ただ、やや薄暗い雰囲気だったことは否めません。市民からはあまり評判が良くなかったようです。公園施設そのものの老朽化もあり、大規模な修繕工事が施されることになりました。

深い歴史の刻まれた城跡ですが、今はあくまで市民のための公園です。小さな子供も含めて、安心して利用できる方が良いですね。

<堀切跡>
Renewal-Gion-Castle-Horikiri.JPG
本丸と二の丸の間の堀切跡です。むかしは草木が生い茂り、見通しが悪かったのですが、今では思川の河原がはっきりと見えます。

<結城道>
Renewal-Gionjo-Horikiri.JPG
堀切の底は結城道と呼ばれた古道の一部。河原にはかつて舟付場があったとされています。この堀切は本丸の防衛施設であると同時に、人やモノの移動をスムーズする交通の役割も担っていたことになります。整然とし過ぎて、城好きとしてはちょっとだけ寂しいですが、リニューアル後の方が、この堀切が果たしていた役割が分かりやすいですね。

<曲輪の説明>
Renewal-Gioncastle-Ruins.JPG
上段曲輪かぁ。貴重な城跡ですから、こういう説明は嬉しいですね。

ということで
リニューアル祗園城のご紹介でした。

<土塁跡>
Renewal-Gion-Castle-Ruins.JPG
公園の隅の土塁がなんだか愛おしい

■訪問:祇園城
 ( 城山公園 )
[栃木県小山市城山町]


■当ブログ過去記事■

名族小山氏波乱万丈の城跡
→記事へすすむ

工事中の夏(祇園城跡)
→記事へすすむ


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タグ:栃木
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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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