つわものどもが夢の跡
北の関ヶ原とも呼ばれる慶長出羽合戦で、西軍の上杉家臣直江兼続と東軍の最上義光が激戦した場所を訪ねました。
<富神山> とがみやま
綺麗な円錐と聞いていたので間違いありません。富神山です。ここでの合戦の際に上杉軍総大将の直江兼続が登った山。敵方である最上義光の居城・山形城を眺めようとしましたが、霞で十日間見ることはできませんでした。これによりあの山は十日見山(とうかみ→とがみ)、山形城は霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれるようになりました。
■長谷堂古戦場■ はせどう
関ヶ原の戦いと同時期に始まった慶長出羽合戦。上杉軍と最上軍の激突です。その最大の戦いの舞台となったのがここ長谷堂。最上側の防衛の要である長谷堂城を陥落させるべく、上杉勢が怒涛のごとく攻め寄せました。「北の関ヶ原」と呼ばれる攻防戦。山形市南部に位置するその古戦場を探索しました。
<長谷堂>
到着しました。山形市南部のバス停。かつて歴史に残る合戦があった場所です。山形城から約8kmの距離を実感すべく、今回は山形駅前からバスを利用しました。
■ 稲田と山城 ■
関ヶ原の戦いは慶長5年9月15日。西暦だと1600年10月21日。遠く離れたここ出羽国長谷堂における合戦も偶然同日に始まりました。この地には過去に2度来ていますが、今回は意識してこの季節に訪問。稲穂が波をうつ古戦場で難攻不落の山城を眺めるために。
<稲田と長谷堂城>
あら、稲刈りは済んでますね。
いきなり見込み違いです。そりゃそうか・・・。残念です。まぁ想像力で補います。
攻め手の上杉軍は、稲を荒らして籠城する最上軍を挑発しました。まぁ当時はこんなに整備された姿ではないでしょうが、やはり食糧となる命の息吹に囲まれていたはずです。上杉兵はその深田に足をとられ、機動力が大幅に制限されました。城の強さには、周辺の環境も含まれます。
<古戦場>
広い古戦場は、一見すると平らに映りますが、実際に訪れてみれば、水の流れと稲田の段差が、緩やかな傾斜であることを教えてくれます。
<古戦場暗渠>あんきょ
復元された堀もいいですが、何とか昔の堀のなごりでもないかとうろうろ。この暗渠(道の部分です)は怪しいと思いながら撮影しましたが、あまり根拠はありません。まぁハズレも含めて探索です。
<復元>
薬研掘(やげんぼり)をイメージした堀跡の復元。この付近にかつて堀があったという目印ですね。
<長谷堂城跡公園入口>
山城の「八幡崎口」付近の広場と無料駐車場。トイレもあり。裏の小山が長谷堂城。
<案内板>
案内板も設置されています。左下のガラスケースにはパンフレット。訪問者に親切な公園です。
<八幡崎口>
案内板のすぐ近くが登山道入り口なので、今回もここから登りました。私はすんなり通過できますが、上杉軍は当初ここ八幡崎口と大手口を目掛けて力攻めを敢行し、堅い守りに阻まれました。
<城内>
前回の投稿とほぼ重複するので省略しますが、季節が違うとなんとなく気分も変わりますね。城内の緑も多少は秋らしくなりつつあります。それと、あまり汗をかかずに済みました。
■ この時点での城の意義 ■
長谷堂城は最上義光の本城である山形城の支城の一つ。上ノ山(かみのみや)城、畑谷(はたや)城と並び、守りの固い城でした。畑谷城は壮絶な戦いの末に落城しており、本城での決戦を避けるためには、この城で上杉軍の進攻を食い止める必要がありました。
攻める上杉軍にとって、長谷堂城は通過点。目指すのはその先の山形城です。攻め滅ぼすというより、相当有利な条件での和議を考えていたのではないでしょうか。上杉軍は直江兼続の本隊が米沢方面から進撃するのと並行して、当時上杉領だった庄内地方からも最上領を侵攻していました。つまり、現在の山形県のほぼ全域が戦に巻き込まれていたわけですね。
■ 長谷堂城の戦い ■
長谷堂城については夏の訪問記を「北の関ヶ原・激戦の山城」というタイトルで投稿させて頂きました。よろしければ覗いてみて下さい。
→記事へ進む
この時は最上側の視点でしたので、今度は上杉目線でふれさせて頂きます。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
-----最上側の武将-----
ともに最上家屈指の名将です。
■志村光安(しむら あきやす)
■鮭延秀綱(さけのべひでつな)
-----上杉側の武将-----
名前が載っている5名について
■直江兼続
ながらく上杉景勝を支えてきた智将。そして家老。この戦では総大将。上杉景勝より最上領攻略の指揮を任されていました。山城の右上に描かれている菅沢山に陣を敷いて全体を指揮しました。
■春日右衛門
春日元忠(かすがもとただ)はもともと武田氏の家臣。上杉に逃れ、家臣として活躍しますが、長谷堂城の戦いでは最上側の夜襲で陣屋を焼かれるなどの大敗を喫しました。右衛門は通称。
■色部修理
金山城主・色部光長(いろべみつなが)。直江兼続とは義兄弟(兼続の妹が正室)。この戦いでは先鋒を任されました。色部氏は謙信時代から上杉を補佐した家柄です。修理は自称の官位。
■上泉主水
上泉泰綱(かみいずみ やすつな)は新陰流の祖・上泉伊勢守信綱の孫で、会津一刀流剣術の開祖。小田原北条氏に仕えていたが、滅亡後は浪人となり、軍備補強を図る上杉家に仕官。臨時で集められた浪人衆とは異なり、身分はあくまで上杉家の正式な家臣です。長谷堂城の戦いで奮闘しますが戦死。
■杉原常陸
水原親憲(すいばらちかのり)は謙信にも仕えた上杉屈指の武将。長谷堂城の戦いでも活躍し、撤退戦では鉄砲隊二百を率いて最上軍の追撃を阻止した。のちに将軍家が書状の宛名を間違えて「杉原」としたのを機に改名。読み方は「すいばら」のまま。常陸は自称の官位(常陸介)。
以上、そうそうたるメンバーです。記載はありませんが、別な資料によれば、上泉主水と並んで前田利益(慶次郎)も陣取っていたと思われます。「花の慶次」のファンなので念のため。他に家臣とて溝口左馬之助や、牢人衆では山上道及なども参戦しています。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●最上軍 1,000(城兵)
<航空写真>
[現地の案内板を撮影]
まぁ写真だとこんな感じなので、色分けさせてもらいました。オレンジ●が長谷堂城。水色●が上杉軍が陣を敷いた菅沢山。
■最上・伊達の連合軍■別々に布陣
大軍をもってしても、志村光安が守る長谷堂城はなかなか陥落しません。そんなさなか、最上義光の援軍要請に応えるかたちで伊達軍が到着(上杉に和睦を申し出たばかりでしたが反故にして参戦)。政宗の叔父・留守政景が率いる3千です。更に最上義光も山形城を出陣。いよいよ本隊が動き始めました(9月25日)。
[兵力比較]
●上杉軍18,000
●連合軍12,000(城兵+最上・伊達軍)
だいぶ状況が変わりました。ただ伊達軍も最上本隊もいきなり長谷堂へ雪崩れ込むのではなく、適度な距離(2qくらい?)を保って止まります(合流せずそれぞれに布陣)。途中で川(須川)を渡る必要がありますが、その気になればいつでも接近できる距離です。ここからしばらくこう着状態となりました。
そして9月29日
上杉軍は長谷堂城へ総攻撃を仕掛けます。激しい戦闘となり、上杉軍の猛将・上泉主水が最上側に討ち取られました。
<主水塚>
古戦場に残る主水塚。上泉主水が壮絶な最期を遂げた場所です。後ろに見える小山が長谷堂城。すぐそばですね。
戦いが終わると、村人が主水ほか両軍の死者の供養のためにこの塚を作りました。
■ 西軍敗北の報せ ■三成敗北
上杉軍1万8千をもってしても、約千人で立て籠もる長谷堂城は落ちませんでした。 戦いが始まってから約半月が過ぎ、関ヶ原における「西軍敗北」の報せが届き、上杉軍は退却を余儀なくされます。
上杉はもともと徳川家康を敵に回しています。こんなところで戦っている場合ではないということですね。ただ撤退というのはそう簡単なことではありません。更に、それまで戦況を見守っていた伊達軍と最上軍が足並みを揃えて動き始め、上杉軍の撤退は困難を極めます。
■ 総大将の殿 ■しんがり
ここで総大将の直江兼続が自ら殿(撤退する自軍の最後尾で敵をくい止める危険な役割)を買って出るところが泣かせます。自身の配下であっても、兵は主君・上杉景勝から預かったもの。これを守るために戦いました。
上杉側の視点では、ここが最大のポイントです。数的優位だったのが一転、逆に数で劣る状態で退きながら戦うことになりました。さすがに苦戦し、追い詰められた直江兼続は自害しようとしますが、前田利益(慶次郎)らに叱咤激励を受け、生きて役割を全うしました。鉄砲隊を率いた水原常陸介(親憲)の活躍が際立つのもこの場面です。
■つわものどもが夢のあと■
<最上義光>
[撮影:山形城] 霞城公園
北の関ヶ原で東軍として戦った最上義光。徳川家康から善戦を評価され、57万石の領地を支配することになります。足利一門(清和源氏)の最上氏は、義光の時に繁栄を極めます。
<上杉景勝と重臣・直江兼続>
[撮影:米沢城] 上杉神社
長谷堂城の戦いの翌年、上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。これ以降、直江兼続は領内の土地の開墾や治水事業に力を入れ、表向きの石高を大幅に上回る国を築き上げました。町の整備や殖産興業を推進し、米沢藩の基礎を築いてその生涯を閉じます。上杉家の米沢藩は幕末まで存続。上杉景勝はその初代藩主として藩政確立に力を注ぎました。
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[当ブログについて]
会社員が興味で運営している個人ブログです。内容につきましては、その程度であることをご理解願います。訪問頂き、ありがとうございました。
2017年10月21日
この記事へのコメント
私もそう思います。ただ、だからこそこうして共有できて嬉しいです。拙ブログを覗いて頂きありがとうございます。
Posted by Isuke2020 at 2018年01月24日 22:22
長谷堂城の戦いは、もっと世間に知られて当然だと思いますが、マイナーなのが残念ですね。参考になりました。ブログ、今後とも期待してます。
Posted by うまのすけ at 2018年01月24日 22:13
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