関ヶ原の戦いと同じ日。遠く離れた北の大地でも、西軍と東軍が激しく戦っていました。
■ 長谷堂城 ■ はせどうじょう
<菅沢山から見た長谷堂城>
現在の山形市南部に位置する山城です。最上氏の居城・山形城にとって、防衛のための重要な支城の一つでした。歴史は古いものの、その存在が大きくクローズアップされたのは慶長出羽合戦の時。米沢から北上してくる上杉の大軍を、長谷堂城は最前線で受けとめました。
■ 慶長出羽合戦 ■ 北の関ヶ原
慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた合戦。具体的には、かねてから緊張状態にあった上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の激突です。この時点では、上杉120万石対最上25万石。明らかに最上側が不利ですね。まず上杉側が重臣・直江兼続を総大将に最上領へ侵攻し、最上側の支城を次々と攻略。当主にしてこの戦の総大将・最上義光は、甥の伊達政宗に援軍を要請し、自らも出陣。最終的には、上杉軍対最上・伊達連合軍の戦いとなりました。
■ 長谷堂城の戦い ■
長谷堂は慶長出羽合戦の主戦場となった場所です。この地で戦いが始まったのは、くしくも関ヶ原と同じ慶長5年9月15日。長谷堂城は集結した上杉軍1万8千に包囲されました。
<上杉軍本陣跡>菅沢山
上杉軍総大将は直江兼続。2万を率いて米沢方面から最上領内に攻め入りました。長谷堂城と並んで堅城と呼ばれる上ノ山城(かみのやまじょう)に2千の兵を送り、自身はここ長谷堂の地で采配を振ります。城の目と鼻の先にある「菅沢山」に陣取りました。
一番最初の画像は、その菅沢山から撮影しました。カメラだとやや遠く見えますが、肉眼では本当にすぐ近くです。攻める側も守る側も、かなりの緊張状態だったでしょうね。一瞬のことではなく、昼も夜もいつもですから。水田が広がっているのが見えますね。合戦の時も、城の周辺は稲田だったと伝わります。
<展示されている推定復元図>
[現地撮影(学習研究社)]
城を任されたのは最上家屈指の智将・志村光安(しむら あきやす)。そして副将格として、これもまた最上家屈指の名将である鮭延秀綱(さけのべひでつな)が入城。説明図にも、山の頂上主郭付近にこの二人の名が記載されています(オレンジ色)。千人という少数ながら精鋭を集結させ、上杉の大軍の前に立ちはだかりました。山城をかすめるように天然の川(本沢川)が流れています。推定図では、この川から水をひいて、掘削した堀を水堀としたようになっていますね。
一方、山城の右上に描かれているのが菅沢山(上杉本陣)。直江兼続のほかに、春日右衛門・色部修理・上泉主水の名があります。少し距離を置いたところには杉原常陸の名も。攻める側もそうそうたるメンバーですね。
この状況、千人対1万8千人です。城を出てまともに激突したら、最上側に勝ち目はありません。堅城の強みを生かし、まずは籠城。そう思わせておいて、夜襲を仕掛けて上杉軍を翻弄。また籠城する最上軍に対し、上杉軍は刈田狼藉(敵側の田畑を荒らす・あるいは収穫物を略奪する行為)で誘い出そうとしますが、智将・志村光安はこれに乗らず、直江兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされます。「笑わせるなアホ」という意味。アホは私の個人的な解釈ですが、とにかく老獪ですね。副将格の鮭延秀綱も、手勢を連れて城を出ては上杉軍を翻弄。敵の総大将に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」とまで言わせる活躍でした。
<縄張り図>
長谷堂城は独立峰に築かれた典型的な山城。構造的にも優れています。しかし「難攻不落の城」と呼ばれる所以は、大軍を前に必死で戦う城兵たち、そしてこの上杉軍との戦いの実績です。長谷堂城より前に上杉軍に立ちはだかった畑谷城(はたやじょう)では、城主・江口五兵衛光清を含む五百の城兵が全員討ち死にしています。いくら戦国の世でも、全員というのは珍しいケース。最上軍の士気がいかに高いか、それを物語っていると思います。
<パンフレット>
私の訪問時には、説明板の左下に無料パンフレットがありました。山形市作成「長谷堂城跡公園散策マップ」です。頂きました。ありがとうございます。公園内のみどころや、おすすめ周遊コースなど、いろいろと丁寧に記載されています。そしてこの城の遺構(土塁・曲輪など・写真付き)や歴史についても。
上杉軍は米沢方面(つまり南側)から最上領に侵攻すると同時に、当時やはり上杉の領地だった庄内地方(まぁ北側と思って頂ければよいかと)からも兵を進めています。これらの総称が慶長出羽合戦。長谷堂城の戦いは、そのなかでも最大の戦いとなりました。
■ 山城探索 ■
<薬研堀>
城の手前で堀の一部が復元されていました。ちょっと綺麗すぎますし、実際にはこんな程度ではなかったはず。まぁ雰囲気は味わいました。要するに、この付近より先は既に城内ということですね。
<長谷堂城の入口>
私はここから登ってみました。標高230mですが、麓からの高さで85mの小規模な山です。小規模といっても、城としては結構な広さになります。
<登山道>
山城らしい雰囲気が漂いますが、残念ながらこれは中世の登山道ではありません。現在は長谷堂城跡公園として整備されていますので、ある程度時間は要しますが、ウォーキングの感覚で登って行けます。頂上直前で、ちょっとだけ険しくなるだけです。私の訪問は夏。蚊の大軍に襲われました。訪問する人はそれなりの準備が必要です。
<山城の頂上>
主郭に到着しました。長谷堂城の天守からの眺め。中央に見える高層ビルの辺りが最上義光の居城「山形城」です。8q程度。この日は遠くまで見渡せました。味方の城を遠くに、そして敵の陣を目の前にして、立て籠もる兵たちはどんな気持ちで戦ったのでしょうか?私だったら「総大将、早く助けに来てくだされ」と思うことでしょう。しかし士気の高い最上の城兵は屈しません。関ヶ原の戦いが僅か一日で終わったことも知らないまま、城兵たちは約半月間も奮闘します。
■最上義光出陣■伊達軍も到着
9月21日 伊達の援軍
最上義光の依頼に応えて政宗が派遣した伊達政景(=留守政景:政宗にとって叔父)が率いる約3千の軍勢が到着。
9月25日 最上義光出陣
山形城を出陣し、自ら本隊を率いて長谷堂城救出へ向かいます。
上杉軍1万8千と最上・伊達連合軍1万2千の総力戦となりました。ただいきなり激突することはなく、しばらく緊張状態が続きます。これには諸説ありますが、上杉・最上双方が、美濃国関ヶ原の戦況が分るまで様子を見ていたとも考えられています。そして9月29日、会津若松城の上杉景勝より、関ヶ原の戦いの報せが直江兼続のもとへ届きます。石田三成率いる西軍の大敗を知り、上杉軍は兵を退くことに。ここでこれ以上犠牲を出しても意味が無いということですね。最上側にも10月1日には報せが届き、最上義光は自ら先頭にたって撤退する上杉軍を追いかけます。長谷堂城を任されていた志村光安もこの追撃に加わり活躍。この最上軍の追撃は相当激しいものになりましたが、上杉軍は総大将・直江兼続が自ら殿(しんがり=撤退する軍の最後尾で敵を食い止める役割)を務めてこれを防ぎ、最上領内から去っていきました。
慶長出羽合戦における最大の激突「長谷堂城の戦い」はこれで終わりました。
■つわものどもが夢の跡■
上杉の大軍を退けた長谷堂城。それから約二十年後の話になりますが、お家騒動により最上家は城も領地も没収となります。西軍上杉と戦った功績で57万石にまでなった最上家ですが、終焉を迎えます。幕府は領内各地に軍勢を向かわせ、城の明け渡しを要求。長谷堂城を任されたのは、米沢30万石の藩主となっていた上杉景勝でした。最上義光も直江兼続も、既にこの世を去った後の出来事。難攻不落の山城は、その後まもなく廃城となりました。
------■ 長谷堂城 ■------
別 名:亀ヶ城
築城年:不明
築城者:最上氏
城 主:最上氏・志村氏・坂氏
廃城年:1622年
[ 山形県山形市長谷堂 ]
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2017年08月14日
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