山形市の歌懸稲荷神社の境内奥には、この地が山形城三の丸跡であることを記した石碑が建てられています。
<霞城三の丸跡の石碑>かじょう
立派です。霞城三の丸跡と刻まれています。石碑は昭和36年に建てられました。
霞城は山形城の別称。城は大大名となった最上義光の時代に拡張され、全国有数の規模を誇る平城となりました。今回訪問の歌懸稲荷神社は、本丸跡などが整備されている霞城公園からけっこう離れていますが、広大な霞城(山形城)はこの付近にまで及んだということですね。
<三の丸土塁>
実は、この土塁を見るのは初めてではありません。前回は土塁の向こう側、細かいことを言うとかつての城内から眺めました。今回は城の外側からです。よくみると、土塁だけでなく、堀跡も確認できます。貴重な遺構です。
<歌懸稲荷神社>うたかけ
お邪魔させて頂いた歌懸稲荷神社についてですが、歌懸とは、そのむかし歌を短冊に書き奉納する風習に由来するそうです。何となく高尚な感じがして近寄りがたいし、短冊もありませんが、とりあえずは拝殿で手を合わせておきました。
<拝殿>
<本殿>
歌懸稲荷神社の創建年代は不詳ですが、最上家初代にして山形城の築城者である斯波兼頼が、城の守り神として建立したと伝わります。また、最上義光は天童氏との開戦に際して勝利祈願したとも伝わります。最上家ゆかりの神社ということになりますね。
もともとは山形城内でしたが、最上家が改易されてあとの鳥居忠政の時代に、この地、三の丸堀の外側へ移転したようです。
山形城を築き、城下繁栄の礎を作った最上家ゆかりの神社が、城外へと追い出された感がありますね。
ただそれ以後、縁日である10日ごとに門前で市が開かれ、十日町の名の起こりとなり、城下の人たちとのつながりは深まったようです。それはそのまま多くの人たちの信仰にもつながるわけですよね。殿様の神社とは別の価値が、そこにあるように思えます(あくまで個人感想です)。
<市神>
商の神が祀られています
ということで
霞城三の丸跡石碑と、最上家と深い関りのある歌懸稲荷神社のご紹介でした。
<土塁と石碑>
石碑は社殿の裏手になります。
■訪問:霞城三の丸跡碑
(歌懸稲荷神社境内)
[山形県山形市十日町] 1-1-26
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■参考
・現地説明板「山形城跡」
(山形県教育委員会)
(山形市教育委員会)
・山形市十日町商店街HP
http://tokamachi.sunnyday.jp/uta.html
2023年09月17日
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