2022年11月26日

千歳御門(富山城址公園)現存する富山城唯一の建築遺構

今回は富山城址公園に佇む城門の話です。

<千歳御門>ちとせごもん
castle-gate-Chitosemon-Maedake.JPG
この立派な門は、越中富山藩の第10代藩主・前田利保が、隠居のために城内の出丸に造営した『千歳御殿』の正門として建てられたものです。御殿そのものは安政2年(1855年)に焼失してしまいましたが、門は残りました。遺構が少ない富山城にあって、現存する唯一の建築物です。

<赤瓦>
Maedake-kamon.JPG
赤瓦と前田家の家紋が目をひきます

門は明治初期に解体され、一旦民間に払下げられましたが、平成になって所有者から市に寄贈され、城址公園内に移築されたそうです。

<三間薬医門>
Cultural-property-gate-Toymajo.JPG
門の構造も貴重なものらしいのですが、建築にあまり詳しくないので、WIKIさんの説明をそのまま抜粋させて頂くと『門は総欅造りで、門形式は三間薬医門(さんげんやくいもん)といわれる格式の高い城門建築で、桁行(正面)が約6mで梁間(側面)が約2mである。現存する同形式の門は東大の赤門(旧 加賀屋敷御守殿門)だけとされる』とのことです(『』内はWikipedia)。

凄いことのようですね

<富山市指定文化財>
Toyama-castle-gate-Chitosemon.JPG
現在は城址公園の玄関口移設されている江戸時代の城門。富山市の指定文化財となっています。

■訪問:千歳御門
(別名:埋門)うずみもん
[富山県富山市本丸]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/11/26
現地説明板(富山市教育委員会)



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佐々成政ゆかりの神社(富山市)千歳神社

戦国武将の佐々成政ゆかりの神社を訪ねました。

<千歳神社>ちとせじんじゃ
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富山市の千歳神社です。佐々成政が戦勝祈願をした神社と伝わります。

<説明板(御由緒)>
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情報が少ないので、現地説明板(御由緒)を参考にさせて頂きます。下記に一部を転記させて頂きます。(『』内は原文の写し)
『天正九年(一五八一)佐々成政公が、越中五十四万石を領して富山城主となった時、敬神の念が厚かったので、この神明社を産土大神として崇め、城下町富山を東西に二分し、東は北の神明、西は南の神明と称し、それぞれ富山の守護神とした。』

佐々成政というと、勇猛果敢に戦うイメージが強いですが、他の名だたる戦国武将がそうであるように、神を尊び、うやまうことを大切にしていました。若い頃から織田信長に仕えて、徐々に頭角を現していった佐々成政が、ここ越中で一国を任されたのが40代の半ばのこと。越中54万石ですからね。凄いことです。そのまま何事なければ、更に飛躍できたのかもしれません。

しかし
主君が本能寺で討たれてしまいます。

状況は激しく変化。成政は時代の流れに激しく抵抗しますが、良い結果は得られませんでした。終わってみれば、越中を領してこの神社を保護した頃が出世のピークだったのかもしれません。

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勢いに乗っていた佐々成政が大切にした地元の神明社。現在の社殿は昭和になって再建されたものですが、富山の土地神として最も古いとされています。

ただ、最初からこの場所だったわけではないようです。説明文によれば『当神社は北の神明にあたり、当時は蛯町の地に鎮座していましたが、富山藩祖前田利次公が入城後、寛文年間城下の町割に際し現在地に移った。』とのこと。江戸時代になって移転したわけですね。

また、神明社が千坂神社と改称されたのは明治になってからとのこと。説明文には、越中富山藩の第10代藩主である前田利保が、富山城の出丸に隠居所として千歳御殿を造り、城の近くを流れる神通川の下流を千歳川と名づけたことが記されています。改称はこれに因んだようです。

citose-bridge.JPG
こちらは千歳神社近くの千歳橋を撮影。川はかつての神通川の流路とほぼ一致します。

ということで
富山市内の佐々成政ゆかりの神社を訪ねたというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

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■訪問:千歳神社
[富山県富山市千歳町]2丁目

■参考及び抜粋
現地説明板(千歳神社由緒)



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2022年11月23日

岩瀬宿のなごり(北陸街道)北前船寄港地

富山市にお邪魔する機会があったので、海沿いの宿場跡を訪ねてみました。

<岩瀬の町並み>
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雰囲気のある街並みです

■北前船寄港地・街道の宿場■
岩瀬は神通川河口に位置し、北前船の重要な寄港地として栄えた町です。同時に、北陸街道の宿場でもありました。北陸街道は新潟県(越後)から富山県(越中)や石川県(加賀)を経由して滋賀県(近江)へと繋がる街道。この付近では、内陸を南下して富山城下へ直接繋がるルートと、海岸線を西に行くルートの二手に分かれていました。いうまでもなく、岩瀬は後者の街道沿いということになります。

街道・海路、両方に恵まれた場所だったわけですね。

<岩瀬運河>
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この運河の先は日本海。神通川の河口でもあります。

かつて岩瀬には加賀藩の年貢米を貯蓄するための蔵が設けられ、廻船問屋が軒を並べていたそうです。明治の大火で多くの建物が焼失してしまったそうですが、むかしの面影をいまも漂わせる町並みが維持されています。

<旧森家住宅>
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こちらは岩瀬の有数の廻船問屋・森家の住宅

<旧馬場家住宅>
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こちらも岩瀬を代表する廻船問屋の家です。馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家を岩瀬の五大家と呼ぶそうです。

<岩瀬銀行>
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こちらは町並みに調和している現役の北陸銀行岩P支店。かつての岩瀬銀行本店です。岩瀬銀行?いかに繁栄したか伝わってくるようですね。

<北前船のモニュメント>きたまえぶね
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先ほどの森家住宅付近に設置されているモニュメント。北前船は蝦夷地(北海道)とも海路で繋がっていました。行きは本州から米などを、帰りは北海道から海の幸を運びました。行きと帰りの両方で儲けたということになります。北前船は荷物を預かって運送費を得るのではなく、船主自体が商品を買いとり、それを販売することで大きな利益を得ていました。


そして
ここ岩瀬には、富山県を代表する日本酒「満寿泉」の酒造所もあります

<桝田酒造店>
iwase-sakagura.JPG
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ルーツは北海道(旭川)のようですが、明治には既にこの地で創業していました。昔の雰囲気を漂わせる岩瀬に蔵を構えている。素敵ですね。

ということで
駆け足で通り過ぎたに過ぎませんが、北前船寄港地にして北陸街道の宿場だった岩瀬の雰囲気を、少しだけ味わったというお話でした。

最後に
<東岩瀬駅休憩所>
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こちらは畳にほっこりした駅の待合室(休憩所)です。かつての駅舎とのこと。足が棒になっていたので、5分ほど座らせてもらいました。ありがとうございます。

<旧東岩瀬駅ホーム>
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このホームは現役ではありませんが、何となく心が和みました

以上です。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:岩瀬浜〜東岩瀬
[富山県富山市岩瀬町付近]

<富山港線>
Iwasehama.JPG
岩瀬へは富山駅から富山港線を利用すると便利です。画像は岩瀬浜駅(終点)。

■参考及び出典
現地説明板(森家住宅)
Wikipedia:2022/11/23



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タグ:北陸街道
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2022年11月05日

板橋宿のなごり(中山道)

中山道六十九次のうち日本橋から数えて最初の宿場である板橋宿を訪ねました。

Itabashi-syuku-Explanation-board.JPG


■ 板橋宿 ■いたばししゅく
板橋宿という呼び名は実は総称で、上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていました。かなり大雑把に位置を説明すると、JR板橋駅付近から都営三田線の板橋本町駅付近までがかつての板橋宿です。一番北側が上宿となりますが、これは中山道の経路で最も京に近いからです。

<JR板橋駅西口>
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板橋駅の西口駅前広場で撮影。この日のスタート地点です。

<国道17号>
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現在の中山道(国道17号)に出ました。旧中山道はこの道の東側です。

<旧中山道>
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かつての宿場らしい雰囲気が漂う場所に到着しました。このまま南北に長い商店街を北に向かいます。

<案内板>
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東光寺・観明寺といった街道沿いの寺院が記されていますが、ひときわ目をひくのは宿場の東側の加賀藩下屋敷ですね。21万坪という広大な敷地です。さすがは加賀百万石。板橋には今でも加賀という地名が残っています。

この日は加賀藩下屋敷跡へは足を延ばしませんでしたが、加賀藩前田家がこの地を拠点としたなごりを少しご紹介します。

<東光寺>
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先ほどの場所から少し南へ戻って東光寺を訪問。ご本尊は阿弥陀如来。現地説明板によれば延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山とのこと。歴史ある寺院です。

<宇喜多秀家供養塔>
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境内にある宇喜多秀家供養塔。石塔には秀家卿と刻まれています。関ヶ原で敗れ流罪となったため墓は八丈島ですが、秀家の妻が前田利家の娘であったことから、前田家ゆかりのここ板橋に供養塔が建てられました。

つづいて

<観明寺>かんみょうじ
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創建が室町時代と伝わる真言宗寺院。この山門は、板橋宿お隣の加賀藩下屋敷の裏門が移設されたものと伝わります。

<本堂>
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本尊の聖観音立像は12世紀頃の作とのこと

<境内の稲荷社>
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こちらの稲荷社は、もともとは加賀藩下屋敷内に祀られていました。明治になって遷されたそうです。

加賀前田家との深いつながりが伝わってきますね。せっかく立ち寄らせて頂いたので、観明寺さんの境内の古い庚申塔もご紹介させて頂きます。

<観明寺寛文元年庚申塔>
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こちらが観明寺境内の庚申塔です。寛文元年(1661年)に造立されたものとのことです。

<青面金剛像>しょうめんこんごうぞう
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説明板によれば青面金剛像が彫られたものとしては都内で最古とのことです。


さて
旧中山道をもう少し進みます

<平尾脇本陣豊田家跡>
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下宿(平尾宿)の脇本陣跡。この地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。板橋で新政府軍に処刑される近藤勇が幽閉されていた場所でもあります

下宿を出て中宿へ

<仲宿>
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旧中山道と交差する王子新道を渡って中宿(仲宿)へ

<板五米店>いたごこめてん
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むかしの雰囲気が漂います。この土蔵造りの建物は、築100年を越えており、板橋区の登録有形文化財となっています。もともとは大きなお米屋さんでした。しばらく空き家となっていたようですが、現在は店舗として活用されており、仲宿商店街の人気スポットとなっています。


<遍照寺>へんしょうじ
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天台宗寺院でしたが明治初期に一旦廃寺となりました。のちに復活し、現在は成田山新勝寺末寺です。現地の説明板によれば、宿場だったころ、境内は馬つなぎ場だったそうです。

そしていよいよ板橋宿の本陣へ

<板橋宿本陣跡>
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こちらは注意していないと素通りしてしまいそうな石碑です。ここが本陣跡です。一般のご家庭の入り口と思われるため、かなり遠慮して撮影しました。

<説明板>
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板橋区教育委員会さんの説明によれば、板橋は江戸から近いため、本陣は宿泊より休憩所として利用されていたようです。まぁ日本橋から10q程度ですからね。これと関係して『他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。』とのこと。納得です。本陣のお役目は飯田家が務めていました
[『』内は原文からそのまま転記]

<ライフストア>
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先ほど本陣跡の石碑は、こちらのスーパーの南側です。この付近一帯が本陣でしたが、明治の火災で建物は失われ、今は何も残っていません。

そして

<中宿脇本陣跡>
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こちらは板橋宿の中宿名主を務めた飯田家の屋敷跡。あれ、また飯田?本陣も飯田さんでしたよね。

説明板によれば、こちらが飯田家の総本家のようです。板橋宿の本陣は分家に譲り、脇本陣として役割を担ったようです。詳細が説明板に記されていますので、以下に転記させて頂きます。

<説明板>
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『当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(一七〇四)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を努めました。世襲名は宇兵衞。
 飯田家は、大阪の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和〜寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして当家が御茶屋守としてとしてこれを管理していたと思われます。なお、御林四〇町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
 江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿 の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。
 そのような中で、文久元年(一八六一)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(一八六八)の岩倉具定率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。
平成二十年三月』

[出典:板橋区教育委員会]
明治の話になりますが、大宮の氷川神社へ向かう明治天皇が休憩した場所でもあるようですね。現在は石碑と説明板のみですが、深い歴史が刻まれた場所です。板橋宿の歴史そのものが伝わってくるようです。

最後に

<板橋>
Symbolbridge-itabashi.JPG
旧中山道と石神井川が交差する地点に架かる橋。いわば街道の一部です。とんでもなく身分の高い方も、そうでもない人も、ここで石神井川を越えていったわけですね。板橋という地名の由来ともいわれています。

以上です。
宿場跡はまだ続きますが、この日の私の探索はここまででした。

都市化が進んだ街並みですが、その気になって歩いてみると、まだまだ昔の雰囲気を感じることができる通りです。当ブログがきっかけで、足を運んでくれる人がいたら幸いです。

拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。

twitter-Isuke-2022.jpg

■訪問:旧板橋宿(下宿・中宿)
[東京都板橋区仲町付近]

■参考及び出典
現地説明板
・板橋区教育委員会
Wikipedia:2022/11/5


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2022年11月03日

地名の由来となった橋(板橋)距日本橋二里二十五町三十三間

<旧中山道の橋>
Symbolbridge-itabashi.JPG
こちらは旧中山道と石神井川が交差する地点に架けられている橋です。

<板橋>
itabashi.JPG
橋の名は板橋。地名の由来となったとされる橋です。

板橋という地名は古い軍記にも登場していることから、かなり昔からの呼び名と言えます。板の橋?もともとは石神井川を何とか渡れる程度の簡素な橋だったのでしょう。江戸時代になると、板橋は中山道の宿場町として栄えました。その頃には、長さ9間・幅3間(約16m×5m強)の立派な橋が架かけられていたようです。

<石神井川>
syakujiigawa.JPG
かつては深い渓谷でした

<板橋宿>
2210板橋宿 (63).JPG
中山道の板橋宿は、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、そして日光街道の千住宿と並んで江戸四宿の一つとして栄えました。大勢の人が行き来する重要な道だったわけですね。

<現在の板橋>
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距日本橋二里二十五町三十三間と記されています。日本橋を起点として約10.6kmの距離。中山道最初の宿場に架かる橋です

■訪問:板橋
[東京都板橋区加賀]

■参考
・Wikipedia:2022/11/3
・板橋区ホームページ

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/1014983/1015448/1015453/1015885.html


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タグ:中山道
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加賀藩前田家ゆかりの赤門(板橋区)観明寺山門

赤門と言えば本郷の東京大学。本郷キャンパスの敷地には、かつて加賀藩前田家の上屋敷がありました。赤門はそのなごりです。今回ご紹介の赤門も、加賀藩前田家ゆかりの門です。

<観明寺山門>かんみょうじ
itabashi-kanmyoj-gate.JPG
こちらです。場所は板橋区板橋。観明寺さんの山門です。この地はかつ中山道の宿場として栄えました。そして、宿場のすぐお隣が、広大な加賀藩前田家の下屋敷でした。屋敷は明治になって取り壊されましたが、通用門として使われていた門が、ここに移設されたそうです。

ちなみに

<稲荷社>
itabashi-kanmyoj-inari.JPG
観明寺さんの境内である稲荷社も、もともとは加賀藩の下屋敷にあったそうです。赤門と同じく、明治になってからこちらに移されました。

どちらも、ここ板橋に加賀百万石前田家の屋敷があったなごりですね。

■訪問:観明寺
[東京都板橋区板橋]3-25

■参考サイト
猫の足あと

https://tesshow.jp/itabashi/temple_itabashi_kanmyo.html


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2022年10月22日

板橋宿平尾脇本陣(板橋区)近藤勇が幽閉されていた屋敷跡

流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇が、処刑までのあいだ幽閉されていた板橋宿の脇本陣跡を訪ねました。
<板橋宿脇本陣跡>
itabashi-wakihonjin-ato.JPG
板橋宿の脇本陣跡です。脇本陣は、本陣の役割を補うための重要な施設。この地はその役割を担っていた豊田市右衛門の屋敷跡です。近藤勇がここへ連行された時、本陣には新政府軍が駐留していました。

現在は立派なマンションが建つのみで、かつての面影はありませんが、通り沿いに目印の碑と説明板が設置されています。

<平尾町脇本陣の碑>
itabashi-wakihonjin-monument.JPG

<説明板>
Itabashi-Wakihonjin-Explanation-board.JPG
板橋区教育委員会による説明文が記されています。全てご紹介致しませんが、脇本陣を務めた豊田家と、近藤勇に関するところだけ転記させて頂きます

まずは豊田家について
『豊田家は、板橋宿 の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。』
ここでいう平尾は、板橋宿のなかのひとつのエリアを指します。もう少し具体的に言うと、板橋宿は上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていて、平尾宿は下宿の別称です。その平尾宿は3つの宿場でもっとも南側に位置するため、日本橋から中山道を通って北上してきた場合、最初の宿場となります。

次に近藤勇について
『慶応四年(一八六九)四月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。』
脇本陣で拘束された近藤勇は、本陣で新政府軍による取り調べを受けました。平尾一里塚とは、ここから少し離れた宿場の入り口付近で、現在のJR板橋駅付近(北区滝野川)になります。

近藤に対する取り調べは20日間続き、脇本陣では牢に入り、昼夜を問わず見張り役がついていました。お役目を申しつけられた横倉喜三次は、旗本・岡田将監の家臣にして剣の達人。言い換えると、もともとは幕府直属家臣配下の武士。最終的には近藤勇の介錯を務めることになります。立場は違いますが、横倉喜三次は同じく剣の達人である近藤に敬意を持って接したと伝わります。脇本陣で過ごすあいだ、どんな言葉を交わしたのでしょうか。

Itabashiwakihonjinato.JPG
横倉喜三次は、介錯を務めて受け取った報奨金を全て近藤の法要につぎ込みました。ここは二人の剣豪の思いが通じ合った場所なのかもしれませんね。

■訪問:板橋宿平尾脇本陣跡
(豊田家屋敷跡)
[東京都板橋区板橋]3-15

<補足>
itabashi-wakihonjin-sign.JPG
現地は旧中山道沿いではなく脇道に入ってすぐのところです。

■参考及び出典
現地説明板
(板橋区教育委員会)
Wikipedia:2022/10/22



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2022年10月15日

二ノ丸枡形のなごり(名古屋城)旧二之丸東二之門

今回は重要文化財に指定されている名古屋城の城門の話です。

<旧二之丸東二之門>
ninomaru-higashininomon.JPG
この門は復元ではなく、現存する名古屋城の城門です。もともとは二ノ丸に設置されていましたが、昭和47年に本丸跡に移築されました。重要文化財です。門の形式は高麗門。城好きが高麗門と聞けば、櫓門とセットの枡形虎口を想像するのではないでしょうか。その想像であっているようです。

<説明板>
Ninomaruhigashininomon-Explanation-board.JPG
説明板が設置されています。そのまま転記させて頂きます。
『本来は東鉄門(ひがしくろがねもん)という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。』
ちょっとややこしい話ですが、現在は本丸の東二之門の位置に移されたかつての二ノ丸の東二之門ということですね。櫓門は残っていませんが、二ノ丸に設けられた枡形のなごりです。

この門をくぐった先に見どころが多いことから、わりと素通りしてしまう人も多いのではないでしょうか。現存する貴重な城門です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいれば幸いです。

■訪問:旧二之丸東二之門
(名古屋城本丸跡)
[愛知県名古屋市中区本丸]

■参考及び抜粋
現地説明板



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2022年10月12日

清正石(名古屋城)加藤清正が運んだとされる巨石

今回は名古屋城に石垣に用いられている巨石の話です。その名も清正石。呼び名の通りで、加藤清正が運んだ石とされています。

<清正石と説明板>きよまさいし
Kiyomasa-stone.JPG
表面積は畳で十畳ほどとのこと。説明文をそのまま転記すると『名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。』とのこと。搦手(からめて)ですから、正門以外の出入り口といった感じでしょう。付近の工事そのものは黒田長政が担当したようですね。この石だけは清正が積み上げた?

よくわかりませんが、後世の作り話というお話もあります。では清正は何もしていないのか?といえばそうではなく、天守台の石垣を担当していました。ちゃんと持ち場が決められていたわけですね。メンバー全てをご紹介はしませんが、元豊臣家臣団、つまり築城を命じた徳川家康にとっての外様大名たちだったようです。

<加藤清正像>
Kiyomasanoishibiki-nagoyajo.JPG
こちらは清正石の近くに設置されている清正公石曳きの像。清正が巨石の上にのって、石を運ぶ人たちを鼓舞している姿です。清正石そのものは、どうも黒田長政の手によるものと考えた方が良さそうですが、言い換えられてしまうあたりが、加藤清正の人気ぶりを表しているような気がします。

Kato-Kiyomasa-Nagoyajo.JPG
清正は戦場での武功だけでなく、新田開発や治水工事でも実績を上げた武将。そして城づくりの名手と言われ、あの熊本城の改修者にも名を連ねます。名古屋城の築城の際も、現場で重要な役割を担っていたわけですね。

ということで
名古屋城の清正石のご紹介でした。

honmaru-higashininomon.JPG
清正石は本丸東二之門付近です

■訪問:清正石
[愛知県名古屋市中区本丸]

■参考及び抜粋
現地説明板



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2022年10月11日

豊臣恩顧の大名たちが積み上げた石垣(名古屋城)

<名古屋城本丸石垣>
nagoyacastle-ishigaki.JPG

■天下普請■てんかぶしん
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その後諸大名を動員して、伏見城や駿府城など、大規模な城の再建・造営を推し進めました。いわゆる天下普請の実行です。そのなかでも、ここ名古屋城の工事はかなり大規模なもので、スケールのわりには短期間のうちに築き上げられたと伝わります。これは大坂の陣より前のお話。家康がほぼ天下を手中に収めたといっても、まだ豊臣家の影響が残っている時の話です。大坂城の豊臣秀頼を意識した戦略の一環でした。


■豊臣恩顧の大名による築城■
名古屋城築城には加藤清正福島正則黒田長政ほかの豊臣恩顧の有力大名が動員されています。元豊臣秀吉の家臣たちは、この工事をどのように受け止めていたのでしょう。ちなみに、家康は豊臣家にも動員を命じていますが、これは拒否されています。

nagoyacastle-honmaru.JPG

労務提供だけでも大変なことですが、大名たちは石材などを自分たちで持ち寄り、技術者を集めて名古屋城を築きました。経済力を削がれた上に、尽くす相手は豊臣ではなく徳川。何となく納得はしていなかったような気もします(素人の想像です)。逆に、それでも従わせることで、家康は今後の序列を明らかにしていたのかもしれませんね。

nagoyacastleishigaki.JPG
当時の最先端技術が集結して積み上げられた石垣です

--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]


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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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