2021年05月04日

島屋敷跡と柴田勝家ゆかりの勝淵神社(三鷹市)

つわものどもが夢の跡
今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
Shima-Yashiki.JPG
こちらです

<新川団地>
Housing-complex.JPG
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています

あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。

<島屋敷遺跡>
Shima-Yashiki-Explanation-Board.JPG
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。

<新川・島屋敷通り>
Shima-Yashiki-Street.JPG
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。

柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。

あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。

<周辺>
Yashiki (1).JPG
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。

<説明板>
Yashiki-Explanation-Board.JPG
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう

<仙川>せんかわ
Sengawa-River.JPG
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。

<丸池公園>
Maruike-Park.JPG
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園

<丸池>
Maruike.JPG
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。

そして
<低地から見た台地>
Katsubuchi-hiii.JPG
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります

<勝淵神社>かつぶち
Katsubuchi-Jinja-Gate.JPG
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。

<柴田勝家の兜>
Explanation-Board.JPG
Katsubuchi-Jinja.JPG
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。

<つわものどもが夢の跡>
Katsubuchi-Shrine.JPG

■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20

■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板



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2021年05月03日

砦があったとされる調布市柴崎の丘(柴崎陣屋)

つわものどもが夢の跡
かつて武士の砦があったと伝わる調布市の丘を訪ねました。
<柴崎稲荷神社>しばさき
Shrine-on-the-hill.JPG
最寄り駅は京王線の柴崎駅。徒歩圏内の住宅地の小高い丘に鎮座するこの稲荷神社周辺が、砦跡ではないかと言われています。

■現地訪問■
<柴崎稲荷神社参道>
Approach-Shibasakijinja.JPG
ここから入ります

<坂道>
ShibasakiJinya-Slope.JPG
左手側に見えている鳥居が今回の目的地。それにしとも右側の道はかなりの急こう配です。

<急こう配>
Steep-Slope.JPG
横からみるとこんな感じです。徒歩以外で登るのはちょっと厳しいですね。神社の境内がそのまま砦跡だと仮定すると、丘の中腹を造成して築かれた?そんな感じになりますかね

<鳥居>
Shibasaki-Shrine-Gate.JPG
砦跡のつもりで訪問していますが、当然一礼して潜らせて頂きました。旧柴崎村の鎮守です。よそ者がお邪魔致します。

<稲荷神社>
Shibasaki-Inari- Shrine.JPG
稲荷神社です。祭神は倉稲魂命ですね。高台に鎮座しています。

<拝殿>
Shibasaki-Inari- Shrine-Main.JPG
大きすぎず小さすぎず。綺麗に管理されていて、凛とした空気が漂います。創建年代は不詳ですが、小田原北条氏の時代に社地の寄進を受けていたとのこと(参考サイト『猫の足あと』)。つまり戦国時代には既に存在していたわけですね。では砦だったというお話は、それよりもっと以前ということでしょうか…

<周囲との高低差>
difference-of-elevation.JPG
まぁ砦であってもおかしくない地形ですが…なんとも言えません

現地に城に関する説明板などはありません。武蔵七党のひとつ、与野党の柴崎氏(地名のままですね)の砦跡、あるいは江戸氏一族で、太田道灌に追われて現在の世田谷区喜多見に逃れた木田見(喜多見)の砦跡ではないかと言われています。

調布市と言えば深大寺城が有名ですね。ここから比較的近いのですが、支城?だったとか、何となく関係がありそうですがはっきりしません。

<丘の麓>
Jinya-Shibasaki.JPG
鳥居の手前は一段と低くなっています

<暗渠>あんきょ
ShibasakiJinya-Ankyo.JPG
蓋をされていますが水路ですね。かつての堀のなごり?という期待を込めて眺めましたが、開発途上で造られた用水路のなごりですね(たぶん)。

通りから奥に入った場所ですが、思いのほか人目につきます。階段を登ったり降りたり、はたまた水路に入り込んだりと、どう考えても怪しい行動をしているので、早々に立ち去りました。

かつてこの丘に何らかの砦があったのだろう

確証はないのですが、地形だけは納得ししました。少なくとも、むかしは見晴らしが良く、低地を遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。それを実感できただけで満足です。

------■ 柴崎陣屋 ■------
別 名:柴崎城・柴崎館
築城主:不明(柴崎氏?)
築城年:不明(柴崎氏?)
城 主:不明(柴崎氏?)
現 状:柴崎稲荷神社
[東京都調布市柴崎]2-11-4

■参考■
・Wikipedia:2021/5/3
・猫の足あと

https://tesshow.jp/tama/chofukomae/shrine_chofu_shibasaki.html


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2021年04月29日

夢の続き今しばらくご覧いただきたい(お勧め本)花の慶次〜雲のかなたに〜 

今回は名作花の慶次を改めてご紹介させて頂きます。
sirononagori yonezawa staion.JPG
[米沢駅にて撮影]
左は『義風堂々』の直江兼続。右が『花の慶次』の前田慶次ですね

■花の慶次・全巻購入■
むかし全巻持っていたのに、引っ越しを繰り返すうちにどこかで捨ててしまいました。ただただ仕事にまみれ、記憶からも遠ざかっていましたが、最近になって時代小説などを読むようになり、機会があって「花の慶次」の原作・一夢風流記を読むに至りました。そ結果、どうしてもまたあの感動を味わいたく、いわゆる大人買いすることにしました。
<全巻>
shirononagori 花の慶次.jpg
●作品概要
花の慶次〜雲のかなたに〜
かつて少年ジャンプに連載されていた歴史漫画。原作:小説家・隆慶一郎原作/作画:原哲夫。戦国一の傾奇者・前田慶次郎利益(とします)を中心に、魅力的な「つわものども」が描かれた作品です。前田慶次はあの前田利家の甥。実在した人物がモデルになっています。

<原作の小説>
FANmybook (4).JPG
原作の小説もお勧めです。こちらはかなり深いものがあります。

■大人買い■
この言葉、大人がカネにものを言わせたみたいであまり好きではありません。ただ現実としてお金持ちではなく、仕事に追われて時間が少ないのだから貧乏ともいえます(仕事があるだけ感謝はしてます)。無いと言ってもこんなブログをやっているのだから、通勤電車で携帯を見たり、帰宅してパソコンと向き合う時間くらいはあります。そういう会社員、けっこう多いのではないでしょうか。
そういう人こそ「あっ」と思ったら大人買い、つまり「まとめ買い」が良いと思います。あの、衝動買いとはちょっと違います対象となるものを熟知している。それを前提にしています。昔持っていたとか、借りて読んで感動したとか。つまり、少なくとも自分にとって間違いのないものです。
好きになれるものには意識して心を傾けないと、なかなかアクションに結びつきません。中途半端に大人だと、そこまでしなくてもとか、やらない理由を思慮深さとか言って正当化してしまいます。まぁ仕事ならそんなこともあるかも知れませんが、自分自身のことですよね。世間並みに遊ばねばと流行りを追ったって、そんなの人に合わせてるだけ。誰の時間でしょう。人と関係なく、自分の時間を過ごす。大人のまとめ買いも、そのための手段の一つです。

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読んだことがある方へ
■昔からのファンです■
<堂森善光寺>ゆかりの寺
shirononagori堂森.jpg
米沢市南部の堂森。ここに前田慶次ゆかりの寺があります。画像は夏の訪問。春も秋も、そしてわざわざ真冬に訪問したこともあります(米沢の冬を体感したくて)。周囲からは、同じ場所に何度も行くので笑われます。まぁそう言いたくなる気持ちも分かりますが、東京ディズニーランドに何度も行く人は笑われませんね。同じですよ。世間で流行ってるか流行ってないか。たったそれだけの違いです。

■根強い人気■
「花の慶次」でネット検索すると、根強いファンが多いですね(私もそうですが)。「名言集」なんていういいサイトもありますね。前半だと奥村助右衛門千利休、中盤からは直江兼続などなど。台詞を見ただけでシーンを思い出せます伊達政宗の「これが、母親が息子に食わせる初めての料理か」は、いわゆる名言というより、シーンそのものに涙が出ます(母親が政宗を毒殺しようとしたシーン)。このお話は史実もドロドロなのでどうなることかと思いましたが、弟の伊達小次郎が実は生きていて(史実とは異なりますが)、最後に「生きるだけ生きたら野垂れ死に致します」と爽やかに去って行くので、やや救われました。まぁ人それぞれ心に残る台詞は違うと思います。ファンなら誰でも知ってるのはこれですよね。

虎はなにゆえ強いと思う?もともと強いからよ

これは圧倒的な存在であり続ける慶次らしい台詞ですね。秀吉の命を狙って舞った後の「人としての意地でござる」とか、あるいは「手前にもわかりませぬ」。あの天下人との問答も忘れられません。

私が一つだけ選ぶとしたら、やはり背景も含めてですが、景勝の「これは夢であろう?」という思い(配慮)に応えた時の台詞ですね。

ならば
夢の続き 今しばらくご覧いただきたい


以上です。今回はご紹介でした。いつも以上に個人的な思い入れとなりましたが、最後まで読んで頂き、ありがとうございます。下は文中にもあった原作の小説『一夢庵風流記』です。このしっかりとした小説が、一見派手な『花の慶次』の奥深さに繋がっているのだなぁと思い知らされる作品です。

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2021年04月27日

まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門(お勧め本)

<細長い児童公園>
Children's-Park-Ankyo.JPG

今回はお勧め本のご紹介です。その名も「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門
by-lotus62ankyo.jpeg
2021年4月27日発売
著者:吉村生 著者:高山英男




まぁ内容そのものはタイトルのままですね。ただ「水路の上」には水面があるだけと思っている方に、ちょっとだけ補足させて頂きます。

<水路>
Yabata-River.JPG
この本で言うところの水路とはこういう道のことです。

<橋の跡>
Remains-of-Bridge.JPG
進んで行くと橋の跡があります。これは飾りモノではなく、本物の橋です。かつてここには水が流れていました。橋はそのなごりです。

<一の橋>
1stBridge.JPG
一の橋と記されています。二とか三もあるのですかね?

<二の橋>
2ndBridge.JPG
ありましたありました

<三の橋>
3rdBridge.JPG
続いているわけですね

<谷端川>やばたがわ
Waterway.JPG
このちょっと変わった道は、谷端川と呼ばれる川でした。いや、正確に言えば今も川です。護岸をコンクリで固められ、更には地下に埋設され、ほぼ人工の水路となっていますが、やはり川なのです。本来の姿なら、蛇行もするし溢れることもあったでしょう。そんな歴史を重ねた川が、いまは道となって静かに街に溶け込んでいます。

景色をもうちょっとご紹介しますかね

<細長い公園>
Children's-Park.JPG
冒頭の細長い公園です。ある程度の面積は確保されていますが、形としては不自然ですね。これは蓋をした水路の上を有効活用した結果です。こういう言い方が正しいかどうかわかりませんが、まずは水路ありきで、公園は後付けなのです。ちょっとヘンな公園も、そういうことなら仕方ないですね。事情がわかると、この景色に漂う仕方なさのようなものが、何となく愛おしくなりませんかね?(この感想は個人的なものです)

別なところも見てみますかね

Playset-Space.JPG
寂しいような楽しいような微妙な空間です

Ankyo-Playset-2.JPG
いたって真面目
Ankyo-Playset.JPG
こちらも

まぁ小さな子にはきっと素敵な遊び相手となるでしょう。この付近は住宅密集地です。育児をする親にとっても心強い味方ですね。こういう水路上は、入口に車止めが設置してあるので、なおさら安心です。

Yabata-River-Ankyo.JPG

地下に埋葬された水の流れ。そこには暗渠化される以前の長い長い歴史があります。今回は橋跡と遊具のみのご紹介でしたが、水辺だった頃に相応しい景色が、水路となったいまでも道沿いに残されているかもしれませんね。

ということで
本のご紹介というより『道になった水路』の説明でした。それをどう受け止めるのか。それはその人次第です。川だった道沿いの景色に何を思うか。それもその人次第です。「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」はそのヒントを教えてくれるいわばガイドブック。この本がきっかけで、その人ならではの世界が広がっていくのだと思います。

Ankyo-Object.JPG

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タグ:暗渠
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2021年04月24日

太田道灌が植えた槇の木(荻窪八幡神社)

今回は太田道灌が進軍の途上で植えたとされる槇の木の話です。
<道灌槇>どうかんまき
Tree-planted-by-Dokan.JPG
こちらです。太田道灌が植えた木が五百年以上の時を経て、今なお佇んでいます。凄いことですね。道灌槇と呼ばれています。

<荻窪八幡神社>おぎくぼはちまん
Ogikubo-Hachiman.JPG
お邪魔したのは杉並区の荻窪八幡神社です。

<鳥居>
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<神門>
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<境内>
Precincts.JPG
神門の先の境内

<狛犬>
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lion-dog-B.JPG

<拝殿>
Main-Shrine.JPG
創建は寛平年間(889年-898年)と言われています。

河内源氏2代目棟梁である源頼義が、奥州の騒乱を平定すべく北上する途上、この地に宿陣して戦勝を祈願したと伝わります。9年にも及ぶ長期戦に勝利したのち、源頼義は神恩感謝のため、帰路もこの地に立ち寄りました。

源氏の棟梁が戦勝祈願し、苦戦のあげくに勝利し、そのご利益に感謝した神社です。

道灌の話はそれから5百年近くあとの話になります。
源頼義の故事にちなんで、太田道灌も決戦を前にこの地で戦勝祈願しました。

<説明板>
Guide-plate.JPG
現地説明板です。こちらに『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』と題して詳しい説明が記されていますので、以下に抜粋させて頂きます。

『関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
 文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
荻窪八幡神社社務所』


とても参考になりました。ありがとうございます。

まず道灌の進軍の背景として、関東で長期間続いた争乱『長尾景春の乱』があるわけですね。関東管領は、幕府から関東を統括管理すべく任命される役職で、その職にある上杉定正に命じられて太田道灌が出陣。豊島氏と激突した『江古田の合戦』のことが記されています。道灌は野戦で勝利した勢いで、そのまま豊島氏の居城に迫り、落城させました。この途上、武運の神として崇敬を集める八幡神に祈り、槇の木を植えたというお話になります。

<本殿前の高野槇>こうやまき
Tree-age-over500.JPG
高野山でお供えの花の代りとして用いられたことに由来して高野槇と呼ばれるそうです。道灌が植えた高野槇は、荻窪八幡神社の御神木としていまも境内に佇んでいます。

ということで
太田道灌が戦勝祈願した神社と献植した槇の木のご紹介でした。

<つわものどもが夢の跡>
dokanmaki.JPG
道灌はのちに主君である上杉定正により暗殺されてしまうので、天命を全うすることはありませんでした。しかしそのなごりは、今も形となって残り続けています。

■訪問:荻窪八幡神社
[東京都杉並区上荻]

■参考及び出典資料
・現地説明板
(荻窪八幡神社社務所)
・Wikipedia:2021/4/24



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タグ:太田道灌

2021年04月17日

戦国大名今川家のなごり(観泉寺) 高家今川家菩提寺

戦国時代屈指の名門大名・今川家ゆかりの寺を訪ねました
<観泉寺>かんせんじ
Kansenji.JPG
ここは東京都杉並区です。こちらのお寺は駿河に君臨したあの今川家の菩提寺です。

■足利の一門の名家■
今川家は足利一門の名家。駿河国守護を代々継承し、戦国時代には大大名になっていました。11代当主今川義元を思い出す方が多いのではないでしょうか。今川家は義元の時には駿河国・遠江国を支配する巨大勢力となっていましたが、圧倒的有利と思われた桶狭間の戦い織田信長に敗北。当主本人が討たれてしまい、それ以降今川家は徐々に衰退することになります。

■今川氏真■うじざね
今川義元の跡を継いだ12代当主となった氏真も、よくよく調べてみれば復権を目指していろいろと画策したようですが、大きな流れは変えられませんでした。やがては妻の実家である小田原の北条氏を頼り、最終的には徳川家康を頼ります

今川家からみれば、家康はかつての家臣であり、更に桶狭間の戦いで今川家を見限った男です。その家康を頼る。誇り高き今川家の当主としては、そうとうな屈辱を感じたかもしれませんね。あるいは、既に疲れ果てたあげくの心境だったのかもしれません(あくまで素人の想像です)。

■今川直房■なおふさ
氏真が生き延びたことで、今川家の歴史は続きます。氏真の次男は名を品川氏と改め、幕府の儀式や典礼を司る高家となっています。高久の兄は徳川幕府に仕えませんでしたが、その子である直房は旗本となり、高家今川家の祖となりました。格式の高く権勢のある家柄として扱われたわけですね。名門家に相応しい役割です。直房は今川家中興の祖といえます。

■井草村と今川家■
今川直房は高家としての職務が徳川家光に認められ、もともとの所領とは別に井草村を含む3か村五百石を加増されました。これにより今川家の家禄は千石となりました。直房は井草村の観音寺を観泉寺と改め今川家の菩提寺と定めます。

<寺号標>
Kansenji-Stone- monument.JPG
門前にある立派な石碑です。右手は杉並区教育委員会による説明が記されています。

<今川氏累代墓の石碑>
Imagawa-family- tomb.JPG
石碑に記されている通り、境内には今川家代々のお墓があります。

<杉並区今川>
Suginamiku-Imagawa.JPG
今川は地名にもなっています。幕末まで今川家の所領でした。

あの今川家の末裔の菩提詩が杉並区にある。それだけで感慨深いものがあります。全ては国を追われながら落ち延びた今川氏真あってのこと。直房は早くに父を亡くしたため、祖父である氏真に養われたそうです。氏真の墓は当初別な場所にありましたが、井草村を与えられた直房により、ここ観泉寺に移されました。

<観泉寺山門>
Kansenji-gate.JPG
観泉寺は今川家の菩提寺であるとともに、知行地支配の拠点にもなり、年貢の取立てなども寺の門前で行われたそうです。世俗から切り離されたような寺ではなく、領民が集まる場所だったわけですね。

<本堂>
Kansenji-Main hall.JPG

<本堂の扁額> 
Kansenji-Gaku.JPG
観泉禅寺の文字。曹洞宗のお寺です。山号は宝珠山。

<鐘楼>
Kansenji-Temple- bell.JPG

<庭園>
Kansenji-garden.JPG

そして
今川家墓所

<今川氏累代の墓>
Kansenji-Imagawa's-grave.JPG
すみません。当ブログはお墓の撮影が苦手のため、遠くから撮影しました。画像の中央、手前の石仏の奥が今川氏累代の墓所となります。

<説明板>
Family- tomb-Description.JPG
墓所入口の説明板です。東京都教育委員会さんの説明によれば、墓碑は今川氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたるとのこと。また寺が年貢の徴収や裁判の拠点となっていたことも記されています。


<つわものどもが夢の跡>
Kansenji-Imagawa.JPG
ここ観泉寺は、戦国大名今川家のなごり、そして高家として再興した今川家の確かな足跡ですね。

■訪問:
宝珠山観泉寺
[東京都杉並区今川]2-16

■出典及び参考
・現地説明板
 (東京都教育委員会)
 (杉並区教育委員会)
・Wikipedia:2021/4/17


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2021年04月10日

徳川綱重ゆかりの水盤舎(増上寺)

今回は増上寺境内の水盤舎の話です。

■水盤舎■すいばんしゃ
Zojoji-Suibansha.JPG
こちらが増上寺の水盤舎です。参拝者が身を浄めるための場所ですね。「ちょうずや(手水舎)」という呼び方の方が一般的でしょうか。

Tokugawa-family-Tsunashige.JPG
説明板があります。こちらはもともと徳川綱重の霊廟にあったものだそうです。

綱重?

説明板にもある通り、この方は甲斐甲府藩主で、三代将軍徳川家光の三男です。五代将軍綱吉の兄、そして六代将軍徳川家宣の父でもあります。随分豪華な父・兄・息子ですね。綱重は甲斐甲府藩主ではありますが、将軍家の一員として江戸の屋敷で生活していたそうです。

Tokugawa-family- sign.JPG
徳川家の家紋が随所に刻まれています

綱重は1678年に35歳という若さで逝去し(死因については諸説ありますが今回は省略します)、当初は小石川伝通院に埋葬されましたが、家宣が将軍の時に徳川家菩提寺である増上寺へ移されました。霊廟は増上寺本堂の裏手にあったようですが、昭和の戦火で建物はほとんどが焼失したそうです。難を逃れた水盤舎が、現在も増上寺境内で使用されているというわけです。

Zojoji-Suibansha.JPG
私のような素人目にも凝った造りですが、もっと深い意味で、貴重な建造物なのですね

ということで
増上寺の水盤舎のお話でした。徳川家の菩提寺である増上寺は見どころが多いですが、当ブログがきっかけで、手を清める時に意識してもらえたら嬉しいです。

■訪問:増上寺水盤舎
[東京都港区芝公園]4-7-35 


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2021年04月04日

村境の道切り 上尾市のフセギ(川の大じめ)

今回は上尾市の道切りのお話です。

道切りとは、疫病や悪霊が村に侵入するのを防ぐために、いわば結界をはるようなものですね。かつては日本各地で行われていた習慣のようですが、最近ではあまり見聞きすることがありません。以下は上尾市に道切りの習慣が伝承されている場所があると聞き及び、訪ねた時の記録です。

<道切り>
Kawa-Fusegi-Michikiri.jpg
かなり重厚な縄が張られています。こちらではフセギと呼ばれているようです。

<草鞋>
Big-Shoes.jpg
馬のわらじと呼ばれる大きな草鞋がつるされています。いろんな解釈があろうかと思いますが、私は「この村にはこんな草鞋を履く大男がいるんだぞ!」という威嚇のようなものと受け止めています。

上尾市教育委員会のホームページによれば『県東部に分布する蛇縄を掛ける行事と、県西部で行われる村境に草履を掛ける行事が知られていますが、川の大じめ行事は、形式的にも位置的にも中間に位置し、フセギ行事全体を考える上でも重要なものです。』とのこと。道切りの方法は地域によって異なりますが、ここ上尾市の道切りは、県内の東西それぞれの特徴が取り入れられたいわばハイブリットな形式ということですね。

<川の大じめ>かわのおおじめ
Intangible-Cultural-Heritage-Ageo.jpg
大注連を張るこの地の道切り行事(フセギ行事)は『川の大じめ』と呼ばれ、上尾市の無形民俗文化財に指定されています。

<川>
Address-Display-Kawa.jpg
ここでいう『川』は地名です。

<村境>
Kawa-Village-Entrance-Fusegi.jpg
ここはかつての川村の入口ということになります。

<庚申塔>こうしんとう
God-Stone.jpg
傍らの庚申塔です。字がよく読めませんでしたが、道しるべも兼ねているようです。ここは古くから人の通り道だったのですね。

<神明神社>しんめいじんじゃ
Shinmei-Shrine-Ageo.jpg
こちらはすぐ近くの神明神社です。旧川村の鎮守です。毎年こちらの神社で注連縄が作られ、かつての村の出入り口に取り付けられるそうです。

<説明板>
Shinmei-Shrine-Kawa.jpg
地元の歴史までよく分かる説明です。もともとあった複数の村が、江戸初期にはひとつに統合されていたようです。神社の説明ですが、すみません、今回は省略させて頂くとして、最後の方にフセギ行事に関する記載がありますので、そのまま転記させて頂きます。
『当地には「川の大じめ」と呼ばれる魔除け行事がある。毎年五月十五日に大きな注連縄を作り、西方の今泉との村境まで運び常設の柱に下げ、村の悪霊災難除けとして祀る行事で、上尾市指定民俗文化となっている』とのこと。

昔はいま以上に疫病の類が怖れられていたはずです。それらにどう向き合ってきたのか?道切りの習慣を受け継ぐということは、そこに込められた思いも受け継ぐということですね。

Kawa-Michikiri.jpg
姿形も立派ですが、それ以上に貴重なことに思えました。

■訪問
川の大じめ
[埼玉県上尾市大字川]134
神明神社
[埼玉県上尾市川2丁目]3-2

■参考及び出典
・神明神社説明板
・上尾市教育委員会ホームページ
 『川の大じめ』
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110908.html
タグ:道切り
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2021年04月02日

羽生城主・木戸忠朝が入った膳城とは

前回の記事で羽生城をご紹介させて頂きました。戦国期真っただ中の関東で、上杉謙信に与して城を守った木戸忠朝が、羽生城を離れて膳城へ移ったことにも触れさせて頂きましたが、『膳城ってなに?』と思われた方のために、簡単にご紹介させて頂きます。当ブログでの過去記事もございますので、良かったら覗いてみて下さい。
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■膳城■ぜんじょう
<膳城跡>
shirononagori Zen (15).JPG
膳城は現在の群馬県前橋市にあった城です。歴史は古く、築城は15世紀半ば頃ではないかと考えられています。膳氏が築いたこの山城(平山城)は、小田原北条氏と越後の上杉氏の奪い合いを経て、のちには武田氏(勝頼)の支配下になったこともあります。よって、城主はめまぐるしく変わりました。武田氏滅亡後は再び北条氏の支配下となり、その北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされたのち、廃城となったと考えられています。

<遺構>
shirononagori Zen (8).JPG
空堀跡です。室町時代から始まり、戦国時代末期まで城として機能したなごりです

<縄張り>
shirononagori Zen (21).JPG
現地で確認できる遺構だけで判断すると比較的小規模な山城にも映りますが、実際にはもっと広範囲に及ぶ城だったようです。川に挟まれた微高地全体が城だったようです。

さてさて
元城主がたくさんいる膳城の歴史に、羽生城主だった木戸忠朝の名は刻まれているのでしょうか?

■木戸忠朝と膳城■きどただとも
結論を先に言うと、非力なりにいろいろ調べたものの、決定的な資料はみつけられませんでした。興味深い情報もありましたが、出典元を明らかにして太鼓判を押すなんて、こんな程度のブログではおこがましいというのが本音です。かといって何もなしではまとまらないので、メジャーな情報源であるWIKIさんの膳城に関する説明の一部を抜粋させて頂きます。

『天正2年(1574年)上杉方に占拠され、木戸忠朝が入る。天正6年(1578年)上杉謙信死去によって後北条氏に属し河田備前守が城主となる。』
[出典:Wikipedia:2021/4/2]

WIKIさんいつもありがとうございます。一瞬とはいえ木戸忠朝の名が登場していますね。実は他の情報では、膳城に入ったのは木戸忠朝の息子であるとか、あるいはただ木戸氏と紹介されている例もありました。いずれにせよ、関東進出を果たした上杉謙信の戦略上羽生城の木戸氏は重要な存在であり、羽生城を断念しても、引き続き頼りにしたことは事実のようですね。

<膳城祉の石碑>
shirononagori Zen (16).JPG

上杉謙信の指示で膳城へ移った木戸氏配下には千人規模の兵がいたとも考えられています。戦略的に謙信が温存したくなる一大勢力だったわけですね。そして何より、武蔵の国衆の多くが、あっちへなびいたりこっちになびいたりするなかで、一貫して上杉に従う木戸氏は貴重な仲間だったのでしょう。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori Zen (7).JPG
本拠を失っても、木戸氏の夢はここでまだ続くわけですね

■画像ː膳城
[群馬県前橋市粕川町膳]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/4/2


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posted by Isuke at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2021年03月13日

羽生城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は埼玉県羽生市の城跡です
<羽生城>はにゅうじょう
shirononagori520-Hanyu-Castle.jpg
上杉謙信の関東出兵において重要な拠点となった城跡です

■現地訪問■
私は羽生駅から徒歩で現地へ向かいました。その途上、こんな橋を渡りました。
<城橋>
Bridge-Hanyu.JPG
Castle-Bridge.jpg
なんとなく気分が盛り上がる名前です

もう少し進むと

<道しるべ>
Road-sign-Castle.jpg
ここに記載されている『羽生古城天満宮』がこの日のゴール。これもまた気分が盛り上がる名前です

<羽生城跡>
Hanyu-Castle (16).jpg
到着しました。羽生駅から20分くらいでしょうか。遺構らしい遺構は無いことを事前に聞いていましたので、何となく地形を意識しながらゆっくり歩いてきました。多少の起伏を除くと、駅からここまでほぼ平らな地形です。

<天満宮>
Hanyu-Castle-Shrine-front.jpg
城跡の天満宮

<史跡羽生城址>
Stone-monument-Castle-Hanyu.jpg
立派な石碑です

<説明板>
Map-Castle.jpg
石碑の隣には説明板。城の歴史と縄張り図が記されています。ちょっと見てみますかね

<羽生古城之図>
Map-Hanyu-Castle.JPG
ちょっと影で見にくいですが、雰囲気は伝わると思います。平らな低地の微高地に築かれた城だったのでしょう。埼玉県の平野にありがちですが、城は沼地に取り囲まれた浮き城のようです。いまでこそこの付近も整備されていますが、大昔は水郷だったのでしょう。そこに築かれた平城が今回訪問の羽生城ということですね。円状に設けられた曲輪の中央が本丸、西側が二の丸。右上(北東)の蓮池に面したところに建物が記されています。いま立っている場所があの位置と受け止めました。つまり、ここは本丸跡ではないということですね。

さて
羽生城の歴史について事前に知っていたことは、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東攻略の拠点とし、のちに小田原北条氏の配下に組み込まれたということだけです。現地の説明板で、もうちょっと詳しい情報を得ました。予習なしの訪問者にはありがたい説明です。折角ですので以下に抜粋させて頂きます(部分的に文字を省略していますがご容赦下さい。)

【羽生城のうつりかわり】
 西暦   主な事項
1540年代:広田直繁・木戸忠朝兄弟によって築城
1544年:古河公方(足利義氏)敗れ小田原北条氏の支配下になる
1560年:広田直繁・木戸忠朝 上杉謙信に属す
1561年:木戸忠朝 皿尾城(現在の行田市)に移る
     広田直繁 羽生城を守る
1570年:広田直繁 館林城に移る
     木戸忠朝 羽生城を守る
1574年:木戸氏上州の膳城に移り、羽生城北条氏に攻められ落城
     忍城の支城となる
1590年:大久保忠隣 羽生城主となり、1万石を領す
1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城となる

[出典:現地説明板]

築城者である兄弟、広田直繁木戸忠朝を中心に羽生城の歴史が紹介されています。あとで調べたことを補足すると、広田直繁が兄で、木戸忠朝が弟です。北武蔵において、忍城の成田氏と勢力争いをした木戸氏。弟が家督を継ぎ、兄は同じく北武蔵の地元豪族の広田氏を継いだようです(細かい事情まではわかりませんでした)。

つづいて
『古河公方敗れ小田原北条氏の支配下になる』ですが、兄弟は揃って古河公方に従っていましたが、その古河公方が北条氏に敗れてしまったことで、一度は城を奪われたということですね。しかし関東へ出兵する『上杉謙信に属す』ことで兄弟は羽生城を奪回。そのあと広田直繁は『館林城に移る』とありますので、謙信からよほど期待されていたのでしょう。館林城も謙信の重要拠点だったことで知られています。

上杉謙信と言えば、いうまでもなく現在の新潟県を本拠とした武将。関東出兵での拠点というと、私はまず前橋城(厩橋城)ほか群馬県の城を想像します。しかし今回訪問の羽生城は埼玉県です。山を越えて関東に入り、更に南下するための拠点ということでしょうか。南へ進むほど、小田原の北条氏と勢力が重なることになります。上杉謙信にとって、羽生城は関東攻略のための最前線の城のひとつだったのかもしれません。

説明板によれば、1574年に『羽生城北条氏に攻められ落城』となり、以降は北条配下の『忍城の支城と』なったようです。少しだけ補足すると、上杉対北条の争いが激化し、諸々の経緯を経たのち、羽生城は謙信の指示で破却され、木戸忠朝は城兵とともに群馬県の膳城に移されたそうです。

上杉謙信としては、守り切れない拠点を手放して、信頼できる木戸忠朝率いる兵力を温存したわけですね。木戸忠朝は討ち死にしてしまい、兵だけが膳城に移されたとする説もありますが、とりあえず前者を信じることにします。

<古城天満宮>
Hanyu-Castle-Shrine.jpg
Hanyu-Castle-Shrine-Main.jpg
Shrine-Hanyu-2.jpg
羽生城は上杉謙信が救援に駆けつける重要な城でした。遺構はなく、いまはかつての城の一部(天神曲輪跡)に天満宮が鎮座しています。この神社は藤原秀郷による創建に始まります。城主である木戸忠朝が古城天満宮と改称し、城の守護神としたと伝わります。

やがて戦国時代末期
豊臣秀吉による小田原征伐により、北条氏は滅亡。関東には徳川家康が入ります。羽生城は大久保忠隣(ただちか)に与えられました。忠隣は古くからの家康の家臣です。数々の戦で武功を立てるとともに、三方ヶ原で大敗を喫して敗走する時も、はたまた織田信長死後の伊賀越えの際にも、家康と同行していた武将です。家康から高く評価され、武蔵国羽生2万石を拝領しました。羽生城には城代がおかれ、徳森伝蔵らがつとめました。
大久保忠隣はやがて幕府の中核を担う存在となりますが、説明板にもある通り『1614年:忠隣、徳川家康の不振を買い、城地は没収され羽生城も廃城』となりました。老中や小田原藩主にもなった大物なんですがね。失脚の経緯はかなり複雑なため、今回は省略致します。

<羽生城のなごり>
Road-Castle (13).jpg
江戸初期まで城があったとは思えない景色ですが、ここには確かに武士の拠点がありました。三方を沼地で囲まれた天然の要害は、中世においては上杉謙信の戦略上の重要拠点、そしてそれに呼応する地元豪族の広田直繁・木戸忠朝兄弟の思いが込められた城でした。天満宮の境内であるがゆえに宅地化されなかった敷地に、微かながら城のなごりが漂います。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori520.JPG


------■ 羽生城 ■------
築城主:木戸忠朝
築城年:詳細不明(1540年代)
改修者:広田直繁・大久保忠隣
城 主:木戸氏・成田氏・大久保氏
廃城年:1614年(慶長19)
[埼玉県羽生市東]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2021/3/13
現地説明板


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posted by Isuke at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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