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2023年12月03日

畠山館跡(深谷市)畠山重忠ゆかりの地

つわものどもが夢の跡
清廉潔白な人柄から坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠の館跡を訪ねました。

<畠山重忠像>はたけやましげただ
Shigetada-Favorite-Horse.JPG
馬を背負う畠山重忠の銅像です。騎馬像は時々見かけますが、馬を背負う像は珍しいですね。

■訪問記■
<永田駅>
Nagata-Station.JPG
最寄り駅は秩父鉄道の永田駅


<荒川の重忠橋>しげただばし
Arakawa-flowing-through-Fukaya.JPG
南へ向かって歩くと荒川に出ます。畠山重忠がそのまま橋の名になっています

ところで

<橋沿いの要塞>
Shigetada-Bridge.JPG
何だかかなり重厚な施設がありますね

<六堰頭首工>ろくせきとうしゅこう
Fortress-Along-Bridge.JPG
水路好きのためしばし見学。どうやら、荒川を一旦せき止めて、周辺の用水路に取り入れる仕組みになっているようです。歴史は古く、江戸時代初期に6つの堰を設け、それぞれの用水に水を供給したことに始まるとのこと。何も知らずに私が渡った重忠橋は、この施設とセット(管理橋)のようです。

再び南へ

<田畑>
Countryside-Fukaya.JPG
先ほどの施設の恩恵を受けているのかもしれません。私の訪問は10月下旬。秋らしいのどかな景色が続きました

そして

<畠山重忠公史跡公園>
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目的地に到着しました。入口付近から有名な畠山重忠の銅像が見えています。ここは畠山氏の館跡で、重忠とその家臣の墓と伝わる五輪塔があります。

<鵯越の逆落>ひよどりごえのさかさおとし
Statue-Hatakeyama-Shigetada.JPG
訪問した時間が良くなかったのか逆光でうまく撮れず。冒頭の画像はちょっと画像を明るく加工しました。愛馬・三日月を背負う畠山重忠の雄姿です。源義経の奇襲で知られる「鵯越の逆落」の際に、馬が怪我をしないように背負って崖を降りたという伝説にちなんでいます。

この話を聞いた時、いくらなんでも馬を担ぐのは無理なので、それくらい強靭な武将だったのだろうと受け止めました。日本在来馬がいくら小さめでも、裕に300sは越えますからね。

<三日月と重忠>
Shigetada-Carrying-Horse.JPG
ただ、この担ぎ方なら何とかできたかもしれませんね?そのまま背負うのではなく、前足の負担を軽くしてやって崖での歩行を楽にしてあげる。それでも、そうとう足腰が丈夫でないとできませんが…。

馬を粗末に扱う武士もいたかもしれませんが、「坂東武士の鑑」がそんなことをするはずはありません。そういう人柄だらこそ、愛馬を担いだという話が語り継がれるのかもしれません。

<石碑と公園>
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重忠が生まれたとされる畠山館跡は、市民のための公園として整備されています。右手の石碑は、奥が史蹟保存碑、手前は没後八百年慰霊碑と刻まれています。

<公園奥>
Hatakeyama-Shigetada-Park.JPG
重忠の館といえば、現在の嵐山町の菅谷館が有名ですね。ここ深谷市(旧川本町)の館跡は、菅谷へ移る前の拠点だったようです。

<畠山重忠と家人の墓>
Grave-Hatakeyama-Shigetada-Fukaya.JPG
中には五輪塔が六基ならんでいます。中央のひときわ大きな五輪塔が重忠のものとされています。

<板石塔婆>いたいしとうば
Itaishitouba-1304.JPG
こちらの説明板によれば、畠山重忠の百年忌に建立された板碑のようです。重忠の生きざまは百年たっても霞むことがなかった。私はそう受けとめました。


■つわものどもが夢の跡■
秩父平氏の嫡流である畠山重忠は、武蔵国を代表する知勇兼備の武将でした。鎌倉幕府の有力御家人として活躍しましたが、源頼朝の亡き後、執権・北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、一族ともども滅ぼされました。ここ畠山の地で生を受けたのが1164年、二俣川(横浜市旭区)で亡くなったのが1205年でした(享年42)

<重忠の幟>
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盛土したと思われる僅かな起伏を除くと、館跡に遺構らしきものは残されていません。ただ畠山重忠ゆかりの地であることは存分に味わえました。

<坂東武士の鑑>
hero-of-musashi.JPG
埼玉県の英雄です

■訪問:畠山館跡
(畠山重忠公史跡公園)
[埼玉県深谷市畠山]510-2


お城巡りランキング

■出典及び抜粋■
・現地説明板(深谷市)
・現地説明板(埼玉県)
・深谷市観光協会HP
「畠山重忠公史跡公園」

http://www.fukaya-ta.com/midokoro/shigetada/
・埼玉県HP
「六堰頭首工」
> 六堰頭首工って何?

https://www.pref.saitama.lg.jp/b0906/rokuseki/whatsrokuseki.html

posted by Isuke at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2023年11月25日

金沢城のなごり

つわものどもが夢の跡
加賀百万石の居城を訪ねました。

<金沢城>
Gojukken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
ひときわ目をひく五十間長屋

■ 城のはじまり ■
金沢城といえば加賀前田家の居城ですね。ただ、城が築かれた丘の軍事利用は、それよりずっと以前、加賀一向一揆の拠点が築かれた時(1546年)から既に始まっていました。あくまで浄土真宗の寺院(金沢御堂)でしたが、二本の川に挟まれた台地上という地の利に加えて、堀や石垣を廻らすことで要塞と化しており、ほぼ「城」だったと伝わります。

このほぼ「城」の寺院は、織田信長の命を受けた柴田勝家率いる軍によって攻略され、跡地に、勝家配下の佐久間盛政が新たに城を築きました(1580年)。これが金沢城のはじまりです。

<甚右衛門坂>じんえもんざか
jinemonzaka-kanazawa.JPG
金沢城と城下をつなぐ坂道です。織田軍が金沢御堂に攻めかかった際、一揆側の浪士・平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。一揆側のヒーローの名が坂の名として残っている。壮絶な歴史を感じさせますね。

<本丸付近の石垣>
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加賀一向一揆の拠点はその後の金沢城の本丸付近だったと考えられています


■前田利家の居城■
金沢を任された佐久間盛政でしたが、織田信長の死後、柴田勝家が羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れ、斬首となりました。代わって能登から金沢に入ったのが前田利家でした。

利家は当初は柴田勝家に従っていましたが、賤ヶ岳の戦いにおいては、布陣しながら出撃せず。戦わないで帰ってしまい、間接的に秀吉の勝利に貢献しています。利家が秀吉に降伏するのは後の話になりますが、既に秀吉と通じていた、あるいは迷う状態に追い込まれていたようです。

いずれにせよ、利家がこの時に秀吉との対立を回避しなければ、のちの前田家の繁栄はありませんでした

<尾上神社の前田利家像>
Maeda-Toshiie-bronze-statue-yarino-mataza.JPG
利家が赤母衣衆として活躍した頃の姿ですね。血気盛んだった若武者も、金沢城に入った時には既に40歳を越えていました。最後は知恵を使って生き残った感じですね。ここ尾上神社は、もともとは金沢城の出丸です。そういう意味では、かつての城内で撮影したことになります。ちなみに、金沢城と兼六園の間の道には、もう少し大人びた利家の像が立っています(私は撮影できませんでした)。

<二の丸の石垣と水堀>
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金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、利家の時代に5重6階の天守が築かれたのですが、落雷が原因で焼失(1602年)。以後は再建されませんでした。幕府への遠慮と思われます。時を経た1759年の火災をきっかけに、金沢城の中枢は本丸から二の丸へと移されました。幕末の金沢城の縄張り図を見ると、二の丸が一番充実しています。


■前田家の金沢城■
城主となった前田利家は改修工事に着手し、城を拡張しました(先述の通り天守も築きました)。まだ戦国時代の真っただ中です。念には念をいれた強固な城造りだったことでしょう。築城の名手とされる高山右近を招いて、指導を仰いだとも伝えられています。利家は金沢城を尾山城と改名しましたが、あまり普及せず、のちに元の名に戻りました。

<大手堀>
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金沢城の大手口は北側でした。堀の多くは埋められてしまいましたが、ここは形を残しています。

<新丸>
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大手堀の脇から坂を登ると、まず新丸と呼ばれる曲輪に出ます。ここは利家のあとを継いだ利長が拡張した曲輪です。

<三の丸石垣と河北門>
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新丸より一段上にあるのが三の丸。金沢城が丘城であることを改めてと実感するポイントです。守りが強固なのはここからです。

 
<河北門>かほくもん
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実質の大手門とも呼ばれる正面の出入り口。構造はいわゆる枡形門で、二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになっています。

 
<五十間長屋>ごじっけんながや
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金沢城のシンボルのようにそびえ立つ五十間長屋。倉庫と防壁を兼ねた建物を金沢城では長屋と呼びます。
 

<橋爪門>はしずめもん
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Hashizumemongate-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
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橋爪門も構造は枡形門です。金沢城は1759年(宝暦9)の火災で大打撃を受け、その後の再建では二の丸を城の中核とする整備が行われました。この門はその出入り口であり、金沢城で最も格式の高い門でした。

<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
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一の門を見下ろす位置にある櫓も立派です。橋爪門を通って城の中枢へ向かう人を監視するための櫓です。


<石川門>いしかわもん
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Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata-inside.JPG
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugatamon.JPG
石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっていますね。1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建金沢城三御門のうち、河北門と橋爪門は復元ですが、石川門は江戸時代に建てられた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。ここも門の型式はいわゆる桝形門。兼六園側から金沢城公園に入ろうとするとまるで玄関口のようですが、城が現役の頃は搦手門、つまり大手門の逆で裏口にあたる門でした。

<三十間長屋>さんじっけんながや
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本丸附段のやや地味な区画にひっそりと佇む三十間長屋。石川門と同じく国の重要文化財に指定されています。


<百間堀跡>ひゃっけんぼり
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埋められて姿を消しましたが、こちらは金沢城最大の外堀跡です。城は前田利家・利長により強固な城に改修されますが、この堀は、築城者である佐久間盛政の時代に既に開削が始まっていたそうです。金沢城にとっていかに克服すべき場所だったかが伝わってきますね。丘伝いに攻め込まれないよう、台地を断ち切るようにして設けた堀でした。

<兼六園>けんろくえん
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堀を挟んで金沢城に隣接する兼六園。こちらは第五代藩主の前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、以降の藩主たちにより設備されていった庭園です。あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。ただ管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。


■つわものどもが夢の跡■
加賀藩の藩祖・前田利家以降、長男で初代藩主となった利長から最後の藩主・慶寧(よしやす:13代)まで、金沢城は約260年にわたって加賀藩主前田家の居城であり続けました。戦国時代に名をあげた外様大名家が、明治までずっと同じ場所で存続したわけです(前田家はその後も続きます)。これは凄いことですね。

<つわものどもが夢の跡>
Kanazawa-Castle-Back-Gate.JPG
兼六園から見た石川門

金沢を任され、子孫の繁栄を願ってこの世を去った藩祖・前田利家も、200年以上先のことまでは考えていなかったかもしれませんね。

--------■ 金沢城 ■--------
別 称:尾山城 尾上城
築城年:1580年(天正8)
築城者:佐久間盛政
城 主:佐久間氏・前田氏
改修者:前田利家・利長
廃城年:1871年(明治4)
現 況:金沢城公園
[石川県金沢市丸の内]1-1


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/25
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
・石川県HP
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html


posted by Isuke at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月23日

河北門(金沢城)本格的な防衛ラインの枡形門

広大な金沢城にあって、ここより先が本格的な防衛施設と実感する場所があります。

<河北門>かほくもん
Kahokumon-major-gate-Kanazawa-Castle.JPG
三の丸の虎口に設けられた河北門です。石川門、橋爪門と共に、金沢城三御門と呼ばれる重要な城門です。


金沢城は北側が大手口です。そこから金沢城公園へ入って「いよいよ金沢城に入ったなぁ」と実感するのが新丸と呼ばれる広々とした曲輪です。

<新丸広場>しんまる
Shin-maru-Kanazawa-Castle.JPG
広いです。この曲輪は、前田利長が城を拡張した時に造られました。現在は広場として設備されています。もともとは藩の重臣たちが屋敷を構える区画でしたが、のちには細工所が設けられ、職人たちによって甲冑や武器類の製造・修理などが行われていたとのこと。重臣たちの屋敷は徐々に城下へと移ったようです。

<新丸説明板>
Shin-maru-Kanazawa-Castle-Map.JPG
今でこそ真っ平ですが、昔は南北に伸びる堀があり、大手堀ともつながっていたのですね。また、この説明によれば、建築に関わる仕事や、藩士たちの食事の支度をする仕事など、区画ごとの役割があったようです。

さて
新丸も城内であることに間違いありませんが「これが金沢城だぁ」と強く意識するのはこの先、三の丸の入り口からになります。

<三の丸の石垣>
Stone-Wall-Sannomaru-kanazawa-Castle.JPG
石垣の上が三の丸になります。新丸も周辺の平地よりは高い場所に位置していますが、三の丸はもっともっと上。金沢城が丘城であることを実感します。

そして

<河北坂>
Kahokumon-Kahoku-zaka-Hill.JPG
丘へ続く坂道。坂の上の門が三の丸の正面玄関である河北門になります。河北門へ通じる道は他にありませんので、大軍で攻め寄せても、ここより先はこの坂の幅に合わせ、縦長になって進むしかありませんね。そして、攻め手を待ち受ける河北門の構造は、いわゆる枡形門。二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになった守りの堅い城門となっています。

<一の門>
Kahokumon-one-of-the-three-major-gates.JPG
最初の門は高麗門。高すぎず屋根が小さめなのは、城内からの死角を減らすためです

<枡形>ますがた
Kahokumon-masugata-square.JPG
一の門を通過すれば壁に囲まれた区画。まるで巨大な枡の中にいるようです。枡形門と呼ばれる所以ですね。一の門を潜ってこの区画を左に曲がれば次の門です

<二の門>
Kahoku-mon-second-gate.JPG
二の目の門は上部が櫓になっている櫓門。一の門と違ってこちらは大きいです。これ以上は通さないという構えですね

<枡形の出口(二の門)>
Kahokumon-second-gate.JPG
枡形を出て二の門を撮影。私はすんなり通り抜けましたが、枡形門は侵入者を拒むために考案された城門です。私が攻め手で、仮に一の門を突破できても、閉ざされた二の門の前で勢いを削がれ、自由の利かない枡形のなかで仕留められていたでしょう。いや、一の門の奥が枡形と分かった時点で、逃げ帰るかもしれません。死地に飛び込むようなものですからね。

<河北門二の門内部>
Kahokumon-Inside-building.JPG
二の門内部が一般公開されています。新品?と思わせるような綺麗さです

<二の門断面図>
Kahokumon-Structural-drawing.JPG
土台の大柱や二階中央の柱はケヤキが使われているようです。私は構造を何となく納得したという程度。建築に精通した方なら、もっと楽しめたのかもしれません

<復元門>
Kahoku-mon-gate.JPG
河北門は江戸時代に復元したものが明治まで残っていましたが撤去されてしまった(1882年)ため、130年ぶりに復元したものです。模擬ではなく、あくまで調査結果を踏まえた上での再構築です。中央の城門の奥(左手)の建物はご紹介した二の門の櫓です。一方、手前(右手)は建物ではなく土塀に出窓(出し)を付けた造りで、内側は城兵が待機できる小規模な区画になっています。もともと(宝暦の大火より前)は2 層の櫓があったせいか「ニラミ櫓台」と呼ばれています。迫力がありますね。

ところで

<河北門付近の石垣>
Kahokumon-Stone-Wall.JPG
ややマニアックな話になりますが、河北門付近の石垣は場所によって雰囲気が異なりますよね。石の加工具合で分類すると、少なくとも3種類あります[色分けさせて頂きました]。土台となっている下の方[]は自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」、城門近く[]は四角に整形した石を密着させて積む「切込み接ぎ」、そして右隣[オレンジ]は、石の角や表面をたたいて平たくし、なるべく隙間の無いように積む「打込み接ぎ」です。城好きの人はこんなところも見ています。


<防衛ライン>
Kahokumon-the-third-enclosure-Gate.JPG
三の丸は眼下に広がる新丸とは明らかに一線を画す曲輪となります。右手の池はもともと水堀でした。金沢城は城下町全体を堀などで囲う総構えの構造ですが、城そのものの防衛ラインは、ここから始まるという印象を受けました。河北門はその出入り口に設けられた城門です。

■訪問:金沢城河北門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/23
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
posted by Isuke at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月19日

雁木坂跡(金沢城)橋爪門から御殿へ向かう石段のなごり

<雁木坂>がんぎざか
Gangizaka-Kanazawa-Castle.JPG
二の丸の正門である橋爪門を通り抜けたところで撮影しました。

<説明板>
Gangizaka-Guideplate.JPG
城にはありがちな段差と思って素通りしそうになりましたが、説明板が設置されていたため足が止まりました。

<説明板拡大>
Gangizaka-Guideplate-Map.JPG
以下は説明文です[『』内原文]。
『このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂と呼ばれる石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿の玄関へ至ります。』

城の中核となっていた二の丸御殿へ向かうには、橋爪門を潜ったあと、右手へ曲がって雁木坂を登るという動線となっていたわけですね。雁木は雁の群れが斜めに並んで飛ぶ様子からきた言葉。傾斜に沿うよう規則正しい石段が設けられていたのでしょう。

<橋爪門二の門と雁木坂>
Gangizaka-Hashizumemon-Kanazawa-Castle.JPG
橋爪門を抜けると五十間長屋の裏手に沿うように石段が続いていたわけですね

以上
橋爪門の追記でした。

■訪問:金沢城雁木坂跡
(金沢城公園内橋爪門付近)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
現地説明板(金沢市)
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

城の中核を担った二の丸の正門(金沢城)橋爪門

加賀前田家の居城・金沢城で、最も格式の高い門とされるのが橋爪門です。

<橋爪門>はしずめもん
Hashizume-Mon-Castle-Gate-Kanazawa.JPG
立派です。ここは二の丸の正門です。手前の説明板には『高麗門型式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門型式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模ほ誇ります』と記されています。

金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、前田利家の時代に5重6階の天守が築かれましたが、落雷が原因で焼失。以後は再建されませんでした。本丸に代わって政治の中枢を担ったのが二の丸。御殿が造営され(1631年)、この時に橋爪門も造られました。いわば藩政の中心地へ至る最後の門ということになります。二の丸は1808年に焼失してしまいますが、翌年には再建。現在の橋爪門はその時の姿を忠実に復元したものです。

<一の門>
Hashizumemon-one-of-the-three-major-gates.JPG
高麗門型式の一の門

<枡形>
Hashizumemon-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
Hashizumemongate-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
一の門を通過すれば壁に囲まれた方形の区画

<二の門>
Hashizumemon-2nd-Gate-Kanazawa-Castle.JPG
重厚な櫓門型式の二の門

金沢城で特に重要な役割を担ったここ橋爪門、そして石川門と河北門を金沢城三御門と呼びます。石川門は江戸時代のものが現存し、国の重要文化財に指定されているのに対し、橋爪門と河北門は復元です。ただ、史実に沿った復元となるよう研究を重ねて整備されたものです。

<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
Hashizumemon-Yagura-Kanazawa-Castle.JPG
この付近だと、どうしてもこの櫓が目立ちますよね。ただ、門そのものもじっくり見る価値があります。

<1808年頃の雰囲気>
Hashizumemon-Castlegate-Kanazawa.JPG
金沢城のなごりを後世に伝えるべく、専門家の英知と職人の技がつぎ込まれた城門の姿です。

■訪問:金沢城橋爪門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/19
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/hashizume-gate/
posted by Isuke at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月16日

ひっそり佇む重要文化財(金沢城)三十間長屋

見どころの多い金沢城内にあって、やや地味な区画にひっそりと、しかし堂々と佇む建物を見つけました。

<三十間長屋>さんじっけんながや
ICP-Sanjikken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
なんだか凄い建物だが、周りに誰もいないなぁ…

ここへ着くまでに多くの観光客とすれ違っていましたので、何となくもの寂しさすら感じてしまいました。

<説明板>
Sanjikken-Nagaya-Guideplate.JPG
三十間は長さとして、長屋?城詰め藩士のアパートのようなものか?

あまり予習しないで訪問したため、長屋という呼び名から勝手な想像をしました。しかし説明板をよく読んで納得。『金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋』と呼ぶそうです。

<武器庫>
Important-cultural-asset-Sanjikken-Nagaya-storehouse.JPG
もともとは食器類を納めた倉庫だったようですが、江戸時代後期には武器や弾薬が保管されていたとのこと。防壁を兼ねているのだし、これはもう完全な軍事施設ですね。鉄砲蔵とも呼ばれたようです。

<多聞櫓>たもんやぐら
Sanjikken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
形状で分類すると多聞櫓(石材等の土台の上に乗せるように築く細長い櫓)です。かなり細長いです。幅3間に対し、長さは26間半とのこと。ん?30間ではないのですね(少なくとも今は)。1間182pとして、幅は約5.4mで長さは約48mということになります。

<金場取り残し積み>かねばとりのこしづみ
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土台には多彩な石材。あまり詳しくないのですが、石は酸化する時間によって色がまちまちになるようです。近世の城らしく、積み方はいわゆる「打込みはぎ」と受け止めましたが、現地説明板には『金場取り残し積み』という技法が紹介されていました。簡単に言えば、これは石材の加工具合が違うようです。表面の縁取は揃えて内側はわざと粗く残した石材を積む。これを金場取り残し積みと呼ぶそうです。


建物は1759年の「宝暦の大火」で焼失し、長らく土台だけだったようです。それはちょっと寂しい光景ですね。この付近、本丸の中心からはずれている(本丸附段と呼ばれる場所)とはいえ、大枠では本丸の一部です。それにも関わらず長いあいだ放置された理由は分かりかねますが(城の中心が既に二の丸御殿に移っていたから?)、1858年になってようやく再建されました。安政5年なので、ギリギリですが江戸時代です。貴重な遺構であり、石川門と並んで国の重要文化財に指定されています。

石川県のホームページによれば、金沢城にはこの他に計14の長屋があったと伝えられているとのこと。繰り返しますが防壁も兼ねています。金沢城内はかなり重厚な構造だったことが想像できますね。

■訪問:金沢城三十間長屋
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・石川県HP
>建造物(国指定)>金沢城石川門・三十間長屋

https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html

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2023年11月11日

石垣に空いた巨大な穴(金沢城)レンガ造りのトンネル

金沢城跡では石垣も見どころです。ただ、一か所だけ、異様な光景となっている場所があります。

<石垣に大きな穴>
Stone-walls-hole-Kanazawa-Castle.JPG
なんだあれ?

下調べなしで訪問してたるので正直驚きました。

<レンガ造り>
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よく見ればレンガ造り。これはかつて金沢城跡に旧陸軍が駐屯した時のなごりです。トンネルは弾薬庫の通路でした。

<説明板>
Military-facility-Kanazawa-Castle.JPG
明治から大正期に作られてと記されています

石垣が崩れかけていたり、草木に埋もれているのは見慣れていますが、人工的で大きな穴というのはかなり不自然な光景。加賀百万石の城跡になんてことを!城好きの目には、ちょっと痛々しく映りますね。 

金沢城に限らず、日本にあった城の大半は、明治以降は廃城処分、または陸軍所轄となって再利用となりました。当時は城を文化遺産として残すより、優先しなくてはならないことがあったのでしょう。これは仕方ないことですね。

<明治以降の城の運命>
Brick-tunnel-Kanazawa-Castle.JPG
軍の施設を造るために、土塁は削られ、石垣は取り除かれ、堀は埋め立てられる。そういう城跡をたくさんみてきました。石垣に空いた巨大な穴は、見慣れない光景ではありますが、それと同じですね。いや、見方を変えれば、明治以降の城の運命を、今に伝える貴重な遺産なのかもしれませんね。

■訪問:金沢城戌亥櫓付近
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考
現地説明板
「レンガ造りのトンネル」
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2023年11月06日

隠し狭間(金沢城)海鼠壁と鉄砲狭間

金沢城の石川門で、こんな狭間を見かけました。

<鉄砲狭間>
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata.JPG
ここはいわゆる枡形門の内部です。鉄砲用の狭間が設けられています。門に迫ってくる外敵を、内側から狙い討ちするための仕掛けですね。決して珍しい構造ではありません。

ただよく見ると

<狭間の構造>
Hole-for-shooting-Ishikawamon.JPG
穴が開いていないのかぁ

向こう側が見えません。城壁の狭間と言えば穴が開いているものが多いですよね。ここは櫓など建物内部で見かける狭間と同じで、蓋がされているようです。外からはどんな風に見えるのですかね?

<石川門>
Kanazawajo-Castle-Gate-Ishikawa-mon.JPG
あれ?狭間はどこたろう?

石川門を外側から見るとこんな感じです。ちょっと変わった城壁ですね。よく見かける土壁を漆喰で仕上げた壁ではなく、なまこ壁。平らな瓦を、壁に貼り付けて仕上げています。

瓦が並べて貼ってある…

<海鼠壁>なまこかべ
Kanazawajo-sea-cucumber-wall.JPG
もうお察しと思われますが、いざという時は、この平瓦を内側から割り、狭間の穴とします。ただ、ここまで整然と並んでいると、どの瓦が狭間の蓋となっているのか見分けがつきませんね。


ここ石川門に限らず、なまこ壁は金沢城のあちこちで見ることができます。あくまで防火・防水などが主な目的だったと思われますが、どこに「隠し狭間」が仕組まれているのか分かりにくいという恐ろしい仕掛けになっています。

<石川櫓>
Kanazawajo-Castle-Ishikawayagura.JPG
なまこ壁だらけ…どこから狙われるのか分かりませんね

以上です。
金沢城石川門の追記でした。

■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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posted by Isuke at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月05日

威風堂々の搦め手(金沢城)石川門

兼六園側から金沢城址公園へ向かうと、堂々とした城門が出迎えてくれます。

<石川門>いしかわもん
Kanazawajo-Castle-Gate-Ishikawa-mon.JPG
Kanazawajo-Castle-Ishikawayagura.JPG
立派です。金沢城三御門のひとつ石川門です。最初の画像は入り口の門。次の画像は門に併設されている櫓。名の由来はどなたかの名前かと思いきや、石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっています。

1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建。修理を重ねて現在に至ります。つまり、江戸時代に建てられた門が現存しています。国の重要文化財です。

<枡形門>ますがたもん
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugatamon.JPG
門の型式はいわゆる桝形門です。最初の門(高麗門)を潜れば、待っているのは壁に囲まれた方形の空間、そしてその先は重厚な門(櫓門)。侵入してきた外敵は、あちらこちらから飛び道具で狙われます。

私は外敵ではないので、隅から隅まで見学させて頂きました。

<枡形の内側>
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata-inside.JPG
あれ、同じ空間で石垣の加工が異なるのかぁ…(左は「打ち込みハギ積み」で正面は「切り込みハギ積み」の石垣です)

<隠し狭間>さま
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata.JPG
こちらは最初の門の内側です。門の外を鉄砲などで攻撃できるように狭間が設けられています。(有事の時以外は穴は塞がれていて、外からは見えません)

<内部公開中>
Kanazawajo-Ishikawamon-Gate.JPG
え、入って良いの?しかも無料?

私の訪問時は内部も無料公開されていました。ありがたいことです。

<建物内部>
inside-Kanazawajo-Ishikawamon.JPG
Kanazawajo-Ishikawamon-inside.JPG
内部で撮影した画像です。やや暗いため映りが悪く、ご紹介できるのはこの程度。細部は無理ですが、雰囲気は伝わると思います。

<搦手門>からめてもん
Kanazawa-Castle-Gate-Ishikawamon.JPG
さすがは加賀藩主前田家居城の門です。ちなみに、金沢城の三御門とは河北門(かほくもん)と橋爪門、そしてここ石川門になります。

まるで城址公園の玄関口のようですが、金沢城が現役の頃は搦手門、つまり大手門を正面玄関とすると、こちらは裏口にあたる門でした。

<搦め手>
Kanazawa-Castle-Back-Gate.JPG
兼六園側から見た金沢城です。威風堂々の搦め手です。

■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/5
・金沢市HP
「文化財・歴史遺産」
>世界遺産> 2金沢城石川門他

https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/2/5002.html
posted by Isuke at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月03日

いざとなれば砦を築けそうな庭園(金沢市)兼六園

<兼六園>けんろくえん
Kenrokuen-Garden-Kanazawa-Castle.JPG
Kanazawa-sightseeing-spot-Kenrokuen.JPG
koumon-bridge-Kenrokuen.JPG
Kenroku-en-Garden-Kanazawa.JPG
日本三名園のひとつとして名高い兼六園。情報はネットに溢れていますので、城跡ブログらしい目線でまとめさせて頂きます。


これは城に隣接する他の庭園にも言えることですが、優雅な庭園も、万が一の時は防衛施設になることを意識して造られていたという見方ができます。つまり二ノ丸・三ノ丸といった曲輪と同じ役割です。

金沢城は二本の川に挟まれた台地(厳密には段丘)の先端に築かれました。よって周辺とは高低差があります。ただ、台地の続いている側、金沢城の場合は城の南側は、地形上の有利さはありません。よって、何らかの手を加えて補強する必要があります。

<百間堀跡>ひゃっけんぼり
Kenrokuen-Kanazawa-Castle-Gate.JPG
兼六園側から見た金沢城です。手前の低地はもともとあった谷ではなく、台地を断ち切るようにして設けた堀跡です。このように台地を遮断する方法は珍しいことではありませんが、金沢城の場合はスケールが違います。丘伝いに攻め込みやすい南側、つまり城とっては弱い部分を補うため、金沢城で最大の堀が設けられました。

堀の更に南側に位置しているのが兼六園です。始まりは第5代藩主・前田綱紀が築いた蓮池庭(1676年)。既に幕府が大名たちの城の修理を監視している時代ですが、あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。その辺りも考慮した上での補強だったのではないでしょうか。正式な曲輪ではありませんが、管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。

KenrokuenGarden-KanazawaCastle.JPG
起伏に富んだ園内

Kenrokuen-located-in-Kanazawa-City.JPG
天然の川から引き込んだ新鮮な水の流れ

Kenrokuen-Garden.JPG
意識して設けた水のたまり場

Kenrokuen-Kanazawa-Castle.JPG
庭園そのものが高台に位置している

いざとなれば・・・

ということで
城好きによる兼六園のご紹介でした。学術的に認められた見解ではありません。ただ、そういう見方をする人は少なくないという程度に受け止めて頂けると助かります。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:兼六園
[石川県金沢市兼六町]


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