清廉潔白な人柄から坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠の館跡を訪ねました。
<畠山重忠像>はたけやましげただ
馬を背負う畠山重忠の銅像です。騎馬像は時々見かけますが、馬を背負う像は珍しいですね。
■訪問記■
<永田駅>
最寄り駅は秩父鉄道の永田駅
<荒川の重忠橋>しげただばし
南へ向かって歩くと荒川に出ます。畠山重忠がそのまま橋の名になっています
ところで
<橋沿いの要塞>
何だかかなり重厚な施設がありますね
<六堰頭首工>ろくせきとうしゅこう
水路好きのためしばし見学。どうやら、荒川を一旦せき止めて、周辺の用水路に取り入れる仕組みになっているようです。歴史は古く、江戸時代初期に6つの堰を設け、それぞれの用水に水を供給したことに始まるとのこと。何も知らずに私が渡った重忠橋は、この施設とセット(管理橋)のようです。
再び南へ
<田畑>
先ほどの施設の恩恵を受けているのかもしれません。私の訪問は10月下旬。秋らしいのどかな景色が続きました
そして
<畠山重忠公史跡公園>
目的地に到着しました。入口付近から有名な畠山重忠の銅像が見えています。ここは畠山氏の館跡で、重忠とその家臣の墓と伝わる五輪塔があります。
<鵯越の逆落>ひよどりごえのさかさおとし
訪問した時間が良くなかったのか逆光でうまく撮れず。冒頭の画像はちょっと画像を明るく加工しました。愛馬・三日月を背負う畠山重忠の雄姿です。源義経の奇襲で知られる「鵯越の逆落」の際に、馬が怪我をしないように背負って崖を降りたという伝説にちなんでいます。
この話を聞いた時、いくらなんでも馬を担ぐのは無理なので、それくらい強靭な武将だったのだろうと受け止めました。日本在来馬がいくら小さめでも、裕に300sは越えますからね。
<三日月と重忠>
ただ、この担ぎ方なら何とかできたかもしれませんね?そのまま背負うのではなく、前足の負担を軽くしてやって崖での歩行を楽にしてあげる。それでも、そうとう足腰が丈夫でないとできませんが…。
馬を粗末に扱う武士もいたかもしれませんが、「坂東武士の鑑」がそんなことをするはずはありません。そういう人柄だらこそ、愛馬を担いだという話が語り継がれるのかもしれません。
<石碑と公園>
重忠が生まれたとされる畠山館跡は、市民のための公園として整備されています。右手の石碑は、奥が史蹟保存碑、手前は没後八百年慰霊碑と刻まれています。
<公園奥>
重忠の館といえば、現在の嵐山町の菅谷館が有名ですね。ここ深谷市(旧川本町)の館跡は、菅谷へ移る前の拠点だったようです。
<畠山重忠と家人の墓>
中には五輪塔が六基ならんでいます。中央のひときわ大きな五輪塔が重忠のものとされています。
<板石塔婆>いたいしとうば
こちらの説明板によれば、畠山重忠の百年忌に建立された板碑のようです。重忠の生きざまは百年たっても霞むことがなかった。私はそう受けとめました。
■つわものどもが夢の跡■
秩父平氏の嫡流である畠山重忠は、武蔵国を代表する知勇兼備の武将でした。鎌倉幕府の有力御家人として活躍しましたが、源頼朝の亡き後、執権・北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ、一族ともども滅ぼされました。ここ畠山の地で生を受けたのが1164年、二俣川(横浜市旭区)で亡くなったのが1205年でした(享年42)。
<重忠の幟>
盛土したと思われる僅かな起伏を除くと、館跡に遺構らしきものは残されていません。ただ畠山重忠ゆかりの地であることは存分に味わえました。
<坂東武士の鑑>
埼玉県の英雄です
■訪問:畠山館跡
(畠山重忠公史跡公園)
[埼玉県深谷市畠山]510-2

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■出典及び抜粋■
・現地説明板(深谷市)
・現地説明板(埼玉県)
・深谷市観光協会HP
「畠山重忠公史跡公園」
http://www.fukaya-ta.com/midokoro/shigetada/
・埼玉県HP
「六堰頭首工」
> 六堰頭首工って何?
https://www.pref.saitama.lg.jp/b0906/rokuseki/whatsrokuseki.html