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2024年01月12日

高岡城のなごり

<高岡城跡>
Takaokajo-Toyama.JPG
晩秋の高岡城を訪ねました。

■ 現地訪問 ■
水堀に囲まれた城跡は、市民のための公園として整備されています。

<高岡古城公園入口>
Takaokajo-Castle-Ruins-Park.JPG
Takaokajo-Chushyun-Bridge.JPG
私は城の南側のこの橋を渡って城内に入りました。

<現地説明板>
Takaokajo-Guideplate.JPG
地図と歴史が記された説明板です。先ほどの橋(駐春橋)を渡ったところに設置されていました。左中央が現在地ですので、南外堀を渡って、いま二の丸にいることになります。この平面図だけだと、関東平野によくある沼地の城を連想してしまいますが、全て人が掘った堀です。城の規模は長辺648m,短辺416m。敷地の3割が水郷となっています。

<説明板拡大>
TakaokajoGuideplate.JPG
曲輪が本丸を取り囲むように配置されていますね。ただ、本丸の西側(この図だと上)だけは曲輪を配置することなく、水堀のみです。現地では想像できませんでしたが、後で調べると、こちら側は段丘となっており、その先の低地は沼を含む湿地帯だったようです。

天然の地の利を背にして、残りの方角の守りは厚くする。この縄張りは、前田家に客将として招かれていた築城の名手・高山右近と言われています。

<城内の土橋>
Takaokajo-Dobashi.JPG
二の丸と本丸を結ぶ土橋です。この土橋の両側の石垣は、築城当時のものとのこと。つまり江戸時代初期のものということですね。

<石段>
Takaokajo-Stonesteps.JPG
土橋の袂(本丸側)から下へ降りられます。下からの方が土橋も石垣も良く見えます。

<江戸初期の石垣>
Stone-Wall-Takaoka-Castle.JPG
廃城になっても残された貴重な遺構です。最近は石垣を復元している城跡も多いですが(それはそれで魅力ですが)、当時のままというのはやはり感慨深いですね。

<野面積み>のづらづみ
Stone-Wall-Takaokajo.JPG
自然の石をほぼそのまま積み上げています。いわゆる「野面積み」です。

石垣のみならず、高岡城は二の丸や三の丸といった曲輪が、ほぼ築城時のまま残り、それらを取り囲む堀も、むかしの姿を維持しています。この保存率の高さが、専門家から評価されている理由なのかもしれませんね。

ところで

<西内堀>
Takaokajo-Uchibori.JPG
案内図だと城内の堀は全て水堀ですが、外堀と比較すると、ここはやや雰囲気が異なりますね。

<外堀>
Takaokajo-Sotobori.JPG
満々と水が張られた外堀。幅は一番広いところでは約50mにもなるそうです。

城巡りをしていると「昔はもっと水があった」という例は珍しくありません。地下水の水位が下がってしまったとか、付近の川が整備されて伏流水が減ったとか、理由はいろいろです。高岡城の事情は分かりませんが、内堀は外堀と繋がっていますし、少なくとも昔は、土橋の近くまで水があったのかもしれませんね。

<相撲場>
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本丸西側の土塁の内側が土俵になっています。

<力士像>
Takaoka-Sumo-Wrestling-Statue.JPG
高岡は相撲熱が高いようですね

<土塁跡>
Takaokajo-Honmaru-Dorui.JPG
こちらにも土塁跡。左手土塁の向こう側は先ほどの内堀になります。分類すると平城ですが、曲輪は周囲より高い印象です。巨大な堀を掘ったわけですから、残土は土塁のみならず、城内に盛られたことでしょう。

<射水神社>いみずじんじゃ
Takaokakojyo-Park-Imizujinjya-Gate.JPG
imizujinjya-Takaokakojyopark.JPG
こちらは明治になって本丸跡に遷座された射水神社です。創建は奈良時代という歴史ある神社です。

<本丸広場>
Park-for-citizens-Takaoka.JPG
広々とした本丸跡。

<自然な雰囲気の堀>
Takaokajo-Suigo.JPG
のどかです。ただ、これはもともとの地形ではなく、あくまで人の手による城の防衛施設です。

<晩秋の古城公園>
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高岡城は桜の名所でもありますが、残念ながら私の訪問は11月。それでも、残された紅葉に癒される思いがしました。それぞれの季節で、自然の美しさを満喫できる城跡なのでしょう。


■ 前田利長の城 ■
築城者の前田利長は、前田利家の長男です。豊臣・徳川の双方に配慮せねばならない難しい環境下で、加賀藩の礎を築きました。利長は跡継ぎがいなかったため、弟の利常を養子としたあと家督を譲って隠居しますが、その後も藩政に深く関わりました。徳川政権下で外様の前田家が高い地位を確立できたことは、利長・利常の兄弟藩主(形の上では親子)の功績と言っても過言ではありません。

高岡城築城のきっかけは、隠居した利長が居城としていた富山城の焼失です。新たな居城として築いたのが高岡城でした。隠居のための城ということになりますが、まだまだ情勢が不安定な時期の築城です。戦いに耐えうる念入りな構造の城を完成させました。利長の死後間もなく、徳川幕府が一国一城令を発したため、高岡城は廃城となりました(1615年)。

<瑞龍前田公遺徳碑>ずいりゅう
Zuiryu-MaedaKoitokuhi-Takaokacastelruins.JPG
本丸広場の北側のこの石碑は、前田利長の遺徳を偲ぶものです。瑞龍は利長の法名です。

<石碑のレリーフ>
Zuiryu-Maeda-Ko-Itokuhi.JPG
鷹狩りの最中でしょうか?腕に鷹を止まらせた利長の姿が描かれています。

<前田利長像>
Takaokajo-Statue-Maeda-Toshinaga.JPG
高岡城の設計は高山右近と一般的には言われていますが、築城者である利長本人が場所を選び、縄張りの指示も出していたという話もあります。

<つわものどもが夢の跡>
Takaoka-Castle-Ruins-Park-Twitter240109Isuke.jpg
高岡城は築城から6年にも満たないで廃城となりましたが、実際は奉行所管理下で米蔵や火薬蔵などとして利用されたようです。つまり間接的には加賀藩の軍事拠点としての機能し続けたわけですね。保存状態の良い城跡は日本100名城に選ばれるとともに、古城公園として市民の憩いの場として活かされています。

--------■ 高岡城 ■--------
築城者:前田利長
築城年:1609年(慶長14)
城 主:前田利長
廃城年:1615年(元和元)
現 況:高岡古城公園
[富山県高岡市古城] 1-1


お城巡りランキング

■参考
・現地説明板
・Wikipedia:2024/1/12
・とやま観光ナビ
「高岡古城公園(高岡城跡)」

https://www.info-toyama.com/attractions/21103

[補足]
とても参考になるコメントを頂きました。コメント欄も見て頂けると嬉しいです。
posted by Isuke at 23:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月25日

金沢城のなごり

つわものどもが夢の跡
加賀百万石の居城を訪ねました。

<金沢城>
Gojukken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
ひときわ目をひく五十間長屋

■ 城のはじまり ■
金沢城といえば加賀前田家の居城ですね。ただ、城が築かれた丘の軍事利用は、それよりずっと以前、加賀一向一揆の拠点が築かれた時(1546年)から既に始まっていました。あくまで浄土真宗の寺院(金沢御堂)でしたが、二本の川に挟まれた台地上という地の利に加えて、堀や石垣を廻らすことで要塞と化しており、ほぼ「城」だったと伝わります。

このほぼ「城」の寺院は、織田信長の命を受けた柴田勝家率いる軍によって攻略され、跡地に、勝家配下の佐久間盛政が新たに城を築きました(1580年)。これが金沢城のはじまりです。

<甚右衛門坂>じんえもんざか
jinemonzaka-kanazawa.JPG
金沢城と城下をつなぐ坂道です。織田軍が金沢御堂に攻めかかった際、一揆側の浪士・平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。一揆側のヒーローの名が坂の名として残っている。壮絶な歴史を感じさせますね。

<本丸付近の石垣>
Stone-Wall-Kanazawajo.JPG
加賀一向一揆の拠点はその後の金沢城の本丸付近だったと考えられています


■前田利家の居城■
金沢を任された佐久間盛政でしたが、織田信長の死後、柴田勝家が羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れ、斬首となりました。代わって能登から金沢に入ったのが前田利家でした。

利家は当初は柴田勝家に従っていましたが、賤ヶ岳の戦いにおいては、布陣しながら出撃せず。戦わないで帰ってしまい、間接的に秀吉の勝利に貢献しています。利家が秀吉に降伏するのは後の話になりますが、既に秀吉と通じていた、あるいは迷う状態に追い込まれていたようです。

いずれにせよ、利家がこの時に秀吉との対立を回避しなければ、のちの前田家の繁栄はありませんでした

<尾上神社の前田利家像>
Maeda-Toshiie-bronze-statue-yarino-mataza.JPG
利家が赤母衣衆として活躍した頃の姿ですね。血気盛んだった若武者も、金沢城に入った時には既に40歳を越えていました。最後は知恵を使って生き残った感じですね。ここ尾上神社は、もともとは金沢城の出丸です。そういう意味では、かつての城内で撮影したことになります。ちなみに、金沢城と兼六園の間の道には、もう少し大人びた利家の像が立っています(私は撮影できませんでした)。

<二の丸の石垣と水堀>
Uchibori-Kanazawa-Castle.JPG
金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、利家の時代に5重6階の天守が築かれたのですが、落雷が原因で焼失(1602年)。以後は再建されませんでした。幕府への遠慮と思われます。時を経た1759年の火災をきっかけに、金沢城の中枢は本丸から二の丸へと移されました。幕末の金沢城の縄張り図を見ると、二の丸が一番充実しています。


■前田家の金沢城■
城主となった前田利家は改修工事に着手し、城を拡張しました(先述の通り天守も築きました)。まだ戦国時代の真っただ中です。念には念をいれた強固な城造りだったことでしょう。築城の名手とされる高山右近を招いて、指導を仰いだとも伝えられています。利家は金沢城を尾山城と改名しましたが、あまり普及せず、のちに元の名に戻りました。

<大手堀>
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金沢城の大手口は北側でした。堀の多くは埋められてしまいましたが、ここは形を残しています。

<新丸>
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大手堀の脇から坂を登ると、まず新丸と呼ばれる曲輪に出ます。ここは利家のあとを継いだ利長が拡張した曲輪です。

<三の丸石垣と河北門>
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新丸より一段上にあるのが三の丸。金沢城が丘城であることを改めてと実感するポイントです。守りが強固なのはここからです。

 
<河北門>かほくもん
Kahokumon-one-of-the-three-major-gates.JPG
Kahokumon-masugata-square.JPG
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実質の大手門とも呼ばれる正面の出入り口。構造はいわゆる枡形門で、二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになっています。

 
<五十間長屋>ごじっけんながや
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金沢城のシンボルのようにそびえ立つ五十間長屋。倉庫と防壁を兼ねた建物を金沢城では長屋と呼びます。
 

<橋爪門>はしずめもん
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Hashizumemongate-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
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橋爪門も構造は枡形門です。金沢城は1759年(宝暦9)の火災で大打撃を受け、その後の再建では二の丸を城の中核とする整備が行われました。この門はその出入り口であり、金沢城で最も格式の高い門でした。

<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
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一の門を見下ろす位置にある櫓も立派です。橋爪門を通って城の中枢へ向かう人を監視するための櫓です。


<石川門>いしかわもん
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Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata-inside.JPG
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugatamon.JPG
石川郡の方を向いていたので石川門と呼ばれたそうです。石川郡はそのまま県名となっていますね。1759年(宝暦9年)に焼失したものの1788年(天明8年)には再建金沢城三御門のうち、河北門と橋爪門は復元ですが、石川門は江戸時代に建てられた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。ここも門の型式はいわゆる桝形門。兼六園側から金沢城公園に入ろうとするとまるで玄関口のようですが、城が現役の頃は搦手門、つまり大手門の逆で裏口にあたる門でした。

<三十間長屋>さんじっけんながや
Sanjikken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
本丸附段のやや地味な区画にひっそりと佇む三十間長屋。石川門と同じく国の重要文化財に指定されています。


<百間堀跡>ひゃっけんぼり
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埋められて姿を消しましたが、こちらは金沢城最大の外堀跡です。城は前田利家・利長により強固な城に改修されますが、この堀は、築城者である佐久間盛政の時代に既に開削が始まっていたそうです。金沢城にとっていかに克服すべき場所だったかが伝わってきますね。丘伝いに攻め込まれないよう、台地を断ち切るようにして設けた堀でした。

<兼六園>けんろくえん
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堀を挟んで金沢城に隣接する兼六園。こちらは第五代藩主の前田綱紀が造った蓮池庭から始まり、以降の藩主たちにより設備されていった庭園です。あくまで庭園ですので、城を拡張したことにはなりません。ただ管理しているのは加賀藩であり、本部は金沢城です。外敵に攻められることを全く想定していないとは考えにくいですね。


■つわものどもが夢の跡■
加賀藩の藩祖・前田利家以降、長男で初代藩主となった利長から最後の藩主・慶寧(よしやす:13代)まで、金沢城は約260年にわたって加賀藩主前田家の居城であり続けました。戦国時代に名をあげた外様大名家が、明治までずっと同じ場所で存続したわけです(前田家はその後も続きます)。これは凄いことですね。

<つわものどもが夢の跡>
Kanazawa-Castle-Back-Gate.JPG
兼六園から見た石川門

金沢を任され、子孫の繁栄を願ってこの世を去った藩祖・前田利家も、200年以上先のことまでは考えていなかったかもしれませんね。

--------■ 金沢城 ■--------
別 称:尾山城 尾上城
築城年:1580年(天正8)
築城者:佐久間盛政
城 主:佐久間氏 前田氏
改修者:前田利家 利長
廃城年:1871年(明治4)
現 況:金沢城公園
[石川県金沢市丸の内]1-1


お城巡りランキング

■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/25
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
・石川県HP
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html


posted by Isuke at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月23日

河北門(金沢城)本格的な防衛ラインの枡形門

広大な金沢城にあって、ここより先が本格的な防衛施設と実感する場所があります。

<河北門>かほくもん
Kahokumon-major-gate-Kanazawa-Castle.JPG
三の丸の虎口に設けられた河北門です。石川門、橋爪門と共に、金沢城三御門と呼ばれる重要な城門です。


金沢城は北側が大手口です。そこから金沢城公園へ入って「いよいよ金沢城に入ったなぁ」と実感するのが新丸と呼ばれる広々とした曲輪です。

<新丸広場>しんまる
Shin-maru-Kanazawa-Castle.JPG
広いです。この曲輪は、前田利長が城を拡張した時に造られました。現在は広場として設備されています。もともとは藩の重臣たちが屋敷を構える区画でしたが、のちには細工所が設けられ、職人たちによって甲冑や武器類の製造・修理などが行われていたとのこと。重臣たちの屋敷は徐々に城下へと移ったようです。

<新丸説明板>
Shin-maru-Kanazawa-Castle-Map.JPG
今でこそ真っ平ですが、昔は南北に伸びる堀があり、大手堀ともつながっていたのですね。また、この説明によれば、建築に関わる仕事や、藩士たちの食事の支度をする仕事など、区画ごとの役割があったようです。

さて
新丸も城内であることに間違いありませんが「これが金沢城だぁ」と強く意識するのはこの先、三の丸の入り口からになります。

<三の丸の石垣>
Stone-Wall-Sannomaru-kanazawa-Castle.JPG
石垣の上が三の丸になります。新丸も周辺の平地よりは高い場所に位置していますが、三の丸はもっともっと上。金沢城が丘城であることを実感します。

そして

<河北坂>
Kahokumon-Kahoku-zaka-Hill.JPG
丘へ続く坂道。坂の上の門が三の丸の正面玄関である河北門になります。河北門へ通じる道は他にありませんので、大軍で攻め寄せても、ここより先はこの坂の幅に合わせ、縦長になって進むしかありませんね。そして、攻め手を待ち受ける河北門の構造は、いわゆる枡形門。二重の門と、壁に囲まれた方形の区画がセットになった守りの堅い城門となっています。

<一の門>
Kahokumon-one-of-the-three-major-gates.JPG
最初の門は高麗門。高すぎず屋根が小さめなのは、城内からの死角を減らすためです

<枡形>ますがた
Kahokumon-masugata-square.JPG
一の門を通過すれば壁に囲まれた区画。まるで巨大な枡の中にいるようです。枡形門と呼ばれる所以ですね。一の門を潜ってこの区画を左に曲がれば次の門です

<二の門>
Kahoku-mon-second-gate.JPG
二の目の門は上部が櫓になっている櫓門。一の門と違ってこちらは大きいです。これ以上は通さないという構えですね

<枡形の出口(二の門)>
Kahokumon-second-gate.JPG
枡形を出て二の門を撮影。私はすんなり通り抜けましたが、枡形門は侵入者を拒むために考案された城門です。私が攻め手で、仮に一の門を突破できても、閉ざされた二の門の前で勢いを削がれ、自由の利かない枡形のなかで仕留められていたでしょう。いや、一の門の奥が枡形と分かった時点で、逃げ帰るかもしれません。死地に飛び込むようなものですからね。

<河北門二の門内部>
Kahokumon-Inside-building.JPG
二の門内部が一般公開されています。新品?と思わせるような綺麗さです

<二の門断面図>
Kahokumon-Structural-drawing.JPG
土台の大柱や二階中央の柱はケヤキが使われているようです。私は構造を何となく納得したという程度。建築に精通した方なら、もっと楽しめたのかもしれません

<復元門>
Kahoku-mon-gate.JPG
河北門は江戸時代に復元したものが明治まで残っていましたが撤去されてしまった(1882年)ため、130年ぶりに復元したものです。模擬ではなく、あくまで調査結果を踏まえた上での再構築です。中央の城門の奥(左手)の建物はご紹介した二の門の櫓です。一方、手前(右手)は建物ではなく土塀に出窓(出し)を付けた造りで、内側は城兵が待機できる小規模な区画になっています。もともと(宝暦の大火より前)は2 層の櫓があったせいか「ニラミ櫓台」と呼ばれています。迫力がありますね。

ところで

<河北門付近の石垣>
Kahokumon-Stone-Wall.JPG
ややマニアックな話になりますが、河北門付近の石垣は場所によって雰囲気が異なりますよね。石の加工具合で分類すると、少なくとも3種類あります[色分けさせて頂きました]。土台となっている下の方[]は自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」、城門近く[]は四角に整形した石を密着させて積む「切込み接ぎ」、そして右隣[オレンジ]は、石の角や表面をたたいて平たくし、なるべく隙間の無いように積む「打込み接ぎ」です。城好きの人はこんなところも見ています。


<防衛ライン>
Kahokumon-the-third-enclosure-Gate.JPG
三の丸は眼下に広がる新丸とは明らかに一線を画す曲輪となります。右手の池はもともと水堀でした。金沢城は城下町全体を堀などで囲う総構えの構造ですが、城そのものの防衛ラインは、ここから始まるという印象を受けました。河北門はその出入り口に設けられた城門です。

■訪問:金沢城河北門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/23
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kahoku_gate/
タグ:石川
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2023年11月19日

雁木坂跡(金沢城)橋爪門から御殿へ向かう石段のなごり

<雁木坂>がんぎざか
Gangizaka-Kanazawa-Castle.JPG
二の丸の正門である橋爪門を通り抜けたところで撮影しました。

<説明板>
Gangizaka-Guideplate.JPG
城にはありがちな段差と思って素通りしそうになりましたが、説明板が設置されていたため足が止まりました。

<説明板拡大>
Gangizaka-Guideplate-Map.JPG
以下は説明文です[『』内原文]。
『このあたりには、橋爪門続櫓に接する雁木坂と呼ばれる石段がありました。橋爪門二の門を抜けると御番所と石垣台に仕切られた広場があり、そこから右手の雁木坂を登ると、石畳、そして二の丸御殿の玄関へ至ります。』

城の中核となっていた二の丸御殿へ向かうには、橋爪門を潜ったあと、右手へ曲がって雁木坂を登るという動線となっていたわけですね。雁木は雁の群れが斜めに並んで飛ぶ様子からきた言葉。傾斜に沿うよう規則正しい石段が設けられていたのでしょう。

<橋爪門二の門と雁木坂>
Gangizaka-Hashizumemon-Kanazawa-Castle.JPG
橋爪門を抜けると五十間長屋の裏手に沿うように石段が続いていたわけですね

以上
橋爪門の追記でした。

■訪問:金沢城雁木坂跡
(金沢城公園内橋爪門付近)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
現地説明板(金沢市)
タグ:石川
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城の中核を担った二の丸の正門(金沢城)橋爪門

加賀前田家の居城・金沢城で、最も格式の高い門とされるのが橋爪門です。

<橋爪門>はしずめもん
Hashizume-Mon-Castle-Gate-Kanazawa.JPG
立派です。ここは二の丸の正門です。手前の説明板には『高麗門型式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門型式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模ほ誇ります』と記されています。

金沢城に天守はありませんでした。正確に言うと、前田利家の時代に5重6階の天守が築かれましたが、落雷が原因で焼失。以後は再建されませんでした。本丸に代わって政治の中枢を担ったのが二の丸。御殿が造営され(1631年)、この時に橋爪門も造られました。いわば藩政の中心地へ至る最後の門ということになります。二の丸は1808年に焼失してしまいますが、翌年には再建。現在の橋爪門はその時の姿を忠実に復元したものです。

<一の門>
Hashizumemon-one-of-the-three-major-gates.JPG
高麗門型式の一の門

<枡形>
Hashizumemon-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
Hashizumemongate-Masugata-Kanazawa-Castle.JPG
一の門を通過すれば壁に囲まれた方形の区画

<二の門>
Hashizumemon-2nd-Gate-Kanazawa-Castle.JPG
重厚な櫓門型式の二の門

金沢城で特に重要な役割を担ったここ橋爪門、そして石川門と河北門を金沢城三御門と呼びます。石川門は江戸時代のものが現存し、国の重要文化財に指定されているのに対し、橋爪門と河北門は復元です。ただ、史実に沿った復元となるよう研究を重ねて整備されたものです。

<橋爪門続櫓>はしづめもんつづきやぐら
Hashizumemon-Yagura-Kanazawa-Castle.JPG
この付近だと、どうしてもこの櫓が目立ちますよね。ただ、門そのものもじっくり見る価値があります。

<1808年頃の雰囲気>
Hashizumemon-Castlegate-Kanazawa.JPG
金沢城のなごりを後世に伝えるべく、専門家の英知と職人の技がつぎ込まれた城門の姿です。

■訪問:金沢城橋爪門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・Wikipedia:2023/11/19
・金沢城公園HP

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/hashizume-gate/
タグ:石川
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2023年11月16日

ひっそり佇む重要文化財(金沢城)三十間長屋

見どころの多い金沢城内にあって、やや地味な区画にひっそりと、しかし堂々と佇む建物を見つけました。

<三十間長屋>さんじっけんながや
ICP-Sanjikken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
なんだか凄い建物だが、周りに誰もいないなぁ…

ここへ着くまでに多くの観光客とすれ違っていましたので、何となくもの寂しさすら感じてしまいました。

<説明板>
Sanjikken-Nagaya-Guideplate.JPG
三十間は長さとして、長屋?城詰め藩士のアパートのようなものか?

あまり予習しないで訪問したため、長屋という呼び名から勝手な想像をしました。しかし説明板をよく読んで納得。『金沢城では倉庫と防壁を兼ねた建物を長屋』と呼ぶそうです。

<武器庫>
Important-cultural-asset-Sanjikken-Nagaya-storehouse.JPG
もともとは食器類を納めた倉庫だったようですが、江戸時代後期には武器や弾薬が保管されていたとのこと。防壁を兼ねているのだし、これはもう完全な軍事施設ですね。鉄砲蔵とも呼ばれたようです。

<多聞櫓>たもんやぐら
Sanjikken-Nagaya-Kanazawa-Castle.JPG
形状で分類すると多聞櫓(石材等の土台の上に乗せるように築く細長い櫓)です。かなり細長いです。幅3間に対し、長さは26間半とのこと。ん?30間ではないのですね(少なくとも今は)。1間182pとして、幅は約5.4mで長さは約48mということになります。

<金場取り残し積み>かねばとりのこしづみ
Sanjikken-Nagaya-Ishigaki.JPG
土台には多彩な石材。あまり詳しくないのですが、石は酸化する時間によって色がまちまちになるようです。近世の城らしく、積み方はいわゆる「打込みはぎ」と受け止めましたが、現地説明板には『金場取り残し積み』という技法が紹介されていました。簡単に言えば、これは石材の加工具合が違うようです。表面の縁取は揃えて内側はわざと粗く残した石材を積む。これを金場取り残し積みと呼ぶそうです。


建物は1759年の「宝暦の大火」で焼失し、長らく土台だけだったようです。それはちょっと寂しい光景ですね。この付近、本丸の中心からはずれている(本丸附段と呼ばれる場所)とはいえ、大枠では本丸の一部です。それにも関わらず長いあいだ放置された理由は分かりかねますが(城の中心が既に二の丸御殿に移っていたから?)、1858年になってようやく再建されました。安政5年なので、ギリギリですが江戸時代です。貴重な遺構であり、石川門と並んで国の重要文化財に指定されています。

石川県のホームページによれば、金沢城にはこの他に計14の長屋があったと伝えられているとのこと。繰り返しますが防壁も兼ねています。金沢城内はかなり重厚な構造だったことが想像できますね。

■訪問:金沢城三十間長屋
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考及び抜粋
・現地説明板(金沢市)
・石川県HP
>建造物(国指定)>金沢城石川門・三十間長屋

https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kenzoubutu/9.html

タグ:石川
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2023年11月11日

石垣に空いた巨大な穴(金沢城)レンガ造りのトンネル

金沢城跡では石垣も見どころです。ただ、一か所だけ、異様な光景となっている場所があります。

<石垣に大きな穴>
Stone-walls-hole-Kanazawa-Castle.JPG
なんだあれ?

下調べなしで訪問してたるので正直驚きました。

<レンガ造り>
Brick-tunnel-Kanazawajo.JPG
よく見ればレンガ造り。これはかつて金沢城跡に旧陸軍が駐屯した時のなごりです。トンネルは弾薬庫の通路でした。

<説明板>
Military-facility-Kanazawa-Castle.JPG
明治から大正期に作られてと記されています

石垣が崩れかけていたり、草木に埋もれているのは見慣れていますが、人工的で大きな穴というのはかなり不自然な光景。加賀百万石の城跡になんてことを!城好きの目には、ちょっと痛々しく映りますね。 

金沢城に限らず、日本にあった城の大半は、明治以降は廃城処分、または陸軍所轄となって再利用となりました。当時は城を文化遺産として残すより、優先しなくてはならないことがあったのでしょう。これは仕方ないことですね。

<明治以降の城の運命>
Brick-tunnel-Kanazawa-Castle.JPG
軍の施設を造るために、土塁は削られ、石垣は取り除かれ、堀は埋め立てられる。そういう城跡をたくさんみてきました。石垣に空いた巨大な穴は、見慣れない光景ではありますが、それと同じですね。いや、見方を変えれば、明治以降の城の運命を、今に伝える貴重な遺産なのかもしれませんね。

■訪問:金沢城戌亥櫓付近
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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■参考
現地説明板
「レンガ造りのトンネル」
タグ:石川
posted by Isuke at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]

2023年11月06日

隠し狭間(金沢城)海鼠壁と鉄砲狭間

金沢城の石川門で、こんな狭間を見かけました。

<鉄砲狭間>
Kanazawajo-Ishikawamon-Masugata.JPG
ここはいわゆる枡形門の内部です。鉄砲用の狭間が設けられています。門に迫ってくる外敵を、内側から狙い討ちするための仕掛けですね。決して珍しい構造ではありません。

ただよく見ると

<狭間の構造>
Hole-for-shooting-Ishikawamon.JPG
穴が開いていないのかぁ

向こう側が見えません。城壁の狭間と言えば穴が開いているものが多いですよね。ここは櫓など建物内部で見かける狭間と同じで、蓋がされているようです。外からはどんな風に見えるのですかね?

<石川門>
Kanazawajo-Castle-Gate-Ishikawa-mon.JPG
あれ?狭間はどこたろう?

石川門を外側から見るとこんな感じです。ちょっと変わった城壁ですね。よく見かける土壁を漆喰で仕上げた壁ではなく、なまこ壁。平らな瓦を、壁に貼り付けて仕上げています。

瓦が並べて貼ってある…

<海鼠壁>なまこかべ
Kanazawajo-sea-cucumber-wall.JPG
もうお察しと思われますが、いざという時は、この平瓦を内側から割り、狭間の穴とします。ただ、ここまで整然と並んでいると、どの瓦が狭間の蓋となっているのか見分けがつきませんね。


ここ石川門に限らず、なまこ壁は金沢城のあちこちで見ることができます。あくまで防火・防水などが主な目的だったと思われますが、どこに「隠し狭間」が仕組まれているのか分かりにくいという恐ろしい仕掛けになっています。

<石川櫓>
Kanazawajo-Castle-Ishikawayagura.JPG
なまこ壁だらけ…どこから狙われるのか分かりませんね

以上です。
金沢城石川門の追記でした。

■訪問:金沢城石川門
(金沢城公園内)
[石川県金沢市丸の内]


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タグ:石川
posted by Isuke at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[北陸]
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