<北畠親房が入城した関城跡>
関城跡です。この付近が城の中心だったと思われます。
当時、関城の関宗祐・宗政親子は南朝方でした。北畠親房は同じく南朝方の小田城に入城していましたが、北朝方の激しい攻撃で小田治久が降伏したのをきっかけに、関城へ逃れます。関城は北朝方の標的となりながら2年にもわたって抵抗を続けます。北畠親房はその籠城期間に、既に取り掛かっていた神皇正統記を完成させました。
<説明板>
関城に関する説明板です。最後のほうに、北畠親房が『小田城で書いた日本史の「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です』と記されています。
神皇正統記は日本の神国としての成立からはじまり、歴代天皇の事績を第97代天皇・後村上天皇までをまとめあげ、南朝の正当性を記した歴史書です。後醍醐天皇から信任を受けた北畠親房は、状況が厳しい環境下でこれを書きあげました。
<関城土塁跡>
のちの時代の日本の歴史観に大きく影響した歴史書が、ここ茨城県筑西市で書き上げられたわけですね。
やがて関城は北朝側からの総攻撃を受けて陥落。関宗祐・宗政親子は討死しました。北畠親房親房は、落城寸前に落ち延び吉野に逃れ(1343年)、その後も南朝方の中心人物として活躍を続けました。
<宝篋印塔>ほうきょういんとう
こちらの宝篋印塔は関宗祐の墓と伝えられています。
<つわものどもが夢の跡>
南朝の公家・北畠親房が関東武士・関氏とともに籠城した城跡です。
■訪問:関城跡
[茨城県筑西市関館]
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■参考及び出典
・現地説明板(筑西市)
・筑西市HP
国指定文化財>関城跡
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
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