<石垣山城>
陣城としては贅沢すぎる総石垣の城。築城主である秀吉は、北条征伐の時に約3ケ月のあいだここで陣中生活を過ごしましたが、後は奥州征伐の帰り道で立ち寄っただけ。その後は使用されず、廃城となりました。天下人の威光を示すための城。本当に一炊の夢でしたね。
ただその短い夢の間に、かなり濃厚な出来事が起こっていました。天皇の勅使を迎えたり、側室や千利休を招いての豪華で悠々たる暮らしもさることながら、その後の日ノ本の行く末を左右する出来事も同時に起きていました。有名なところを二つご紹介します。
■関東の連れ小便■ 秀吉と家康
ちょっと汚い言葉で恐縮ですが、こういう言い伝えがあります。
徳川家康を石垣山城へ招いた秀吉は、小田原城が見下ろせる場所で並んで立ち小便をしながら「小田原城が落ちたら関東八州を与える」と言ったそうです。
<石垣山からの眺め>
こういう景色を見ながらでしょうか。どうせなら、公園のトイレをそういうコンセプトで設置したら人気も出るのではないでしょうか?(男性専用になってしまいますが)
この二人のシーンは2016年の大河ドラマ真田丸(第23回:攻略)でも登場しましたね。
●秀吉 (わりと軽い口調で)
「関八州をやる代わりに江戸に移ってもらうから。駿河や三河はもういらんだろ?」
●家康 (困惑した顔で)
「はぁ?」
つまり連れ小便の最中に「国替え」を命令したわけです。このいわば転勤命令、自分の領地にしっかりとした基盤を築いている家康にとって、決して喜ばしい内容ではありませんでした。秀吉にしてみれば、領民ともども強い結束力のある徳川の勢力を衰えさせるとともに、自分が拠点としている京都・大坂から更に遠ざける狙いがあったのでしょう。
ただ、この時点で150万石の徳川家康が、関東のほぼ全てである250万石の領地を得たことは、秀吉亡き後の歴史に大きく影響することになりますね。
秀吉の思惑、家康のこの時の苦悩、そしてその後の運命。いろいろ考えると、ただの連れションでは済まない深いシーンですね。その舞台がこの石垣山城と言われています。
■伊達政宗の白装束■ 秀吉と政宗
秀吉の小田原征伐に対し、奥州の伊達政宗の参陣が遅れていた話はとても有名ですね。最後は白装束で秀吉の前へ。このシーンも石垣山城です。
いろいろと悩んだ上での決断だったのでしょうね。ドラマなどでは省略されることが多いのですが、実は政宗は決意してすぐに秀吉に合わせてもらったわけではなく、箱根の底倉(そこくら)というところで足止めされ、秀吉からの沙汰を待っていました。「ちょっと遅すぎたか」「命はないな」「俺はいいからせめて伊達の家だけでも・・・」いろいろ不安に思ったことでしょうね。その間、同行している重臣の片倉小十郎(この名参謀がまだ若い政宗に参陣を決意させました)に励まされたり、心配した前田利家(役割として伊達氏や南部氏との外交窓口でした)が合いに来たり、さぞ長く感じたことでしょう。
拝謁を許された政宗は、死の覚悟を見せかけるために白装束で秀吉の前に現れます。名だたる大名が見守るなか、秀吉は持っていた杖で政宗の首を軽くつつきました。
「もう少し遅れていたら、おぬしのここは無かったのだぞ」
実際にはどんな台詞だったか分りませんが、そういう趣旨の言葉だったようです。この時、秀吉55歳、政宗24歳。後に仙台藩の初代藩主となる男は、この石垣山で人生最大の危機を乗り越えました。
たくさんの武将がここ石垣山城に出入りしているのですから、諸々の思惑が交錯する場所だったのでしょう。陣城でありながら戦闘そのものはありませんでしたが、歴史的にとても深い意味のある城ですね。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:石垣山城
[神奈川県小田原市早川]
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