<城跡入口付近>
城跡は「石垣山一夜城歴史公園」として整備されています。最寄駅はJR早川駅ですが、距離がありますので(徒歩40分以上)、車の利用がお薦めです。駐車場(無料)から城跡へ近づこうとすると、まず入口の左手のこの光景が目に飛び込んできました。
相当崩れています。しかし、隅石が何とか石垣の秩序を保っています。このギリギリの状態に鳥肌が立ち、まずこの付近から探索を開始しました。南曲輪付近。遺構が豊富な城跡ですが、これはまだまだ入口付近に過ぎません。
<南曲輪付近の斜面>
この斜面の上が曲輪になっています。つまりここから侵入しようとすると、上から容赦なく矢とか石が降ってくるという構造ですね。この石垣で覆われている斜面の手前は、現在では道となっていて、そのまま進んで行くと、南曲輪より更に高い位置に設けられた西曲輪付近へ出ます。進めば進むほど、この石垣の斜面がますます高くなり、どんどん城内が遠くなる気がして入口へ引き返すことにしました。
この辺りは明らかに尾根を削った跡。当時の堀切のなごりではないでしょうか?(状況から勝手に想像しているだけで検証してません)。実際、斜面を隔てた区画には、別の曲輪(出丸と推定されています)がありました。曲輪と曲輪の間に堀切があるのは自然なことですよね。
■一夜城■
城が築かれた山は、北条氏の居城である小田原城の西約3km(標高は262メートル)。もともと名は笠懸山(かさがけやま)でしたが、豊臣秀吉が小田原征伐の本陣として総石垣の城を築いたことにより、後に石垣山と呼ばれるようになりました。その山の頂上に、ある日突然現れたことから、城は「一夜城」と呼ばれるようになりました。
そりゃ小田原城に籠城している城兵にしてみればビックリしますよね。朝起きたらすぐ近くの山頂に敵の城が出現したのですから。
実際には、小田原城から見えないように秘かに築かれ、完成後に一気に山の斜面の木々を伐採したと言われています。この秀吉の企ては、北条側の戦意喪失に拍車をかけたといわれています。
■総石垣の城■ 関東初
この一夜城について、私は長年にわたり勘違いをしておりました。
心理戦のために造ったのだから、城といっても「はりぼて」のようなもので、実用性はあまりなかったのだろう。せいぜい見張り役を配置できる程度の構造で、小田原城側から見えるところだけ城らしく造ったのであろう・・・
どころが、実際は全く違っていました。関東で初となる本格的な総石垣の城。まだ土の城がメインの時代です。いくらおカネがあるとは言え、陣城としては豪華すぎますね。石垣は近江の穴太衆(あのうしゅう:石工のプロフェッショナル集団です)を呼び寄せ完成させました。
いきなり横道にそれましたが、再び公園入口へ。案内板(縄張り図あり)が設置してあります。そこでだいたいの構造を頭に入れ、いよいよ城内へ侵入です。
<散乱する石>
入ってすぐ、こんな状態と出会います。地震の影響ですね。石垣が崩れてしまっています。荒れているようにも映りますが、夏草の緑のせいでしょうか、散乱した大きな石が妙に愛おしく感じられました。この姿も、つわものどもが夢の跡。完璧に修復せず、このままでも良いような気がしました。
やや危険を伴うので、探索する方は大人の常識の範囲で道を選んで欲しいと思います。事故が起きれば、きっとこの姿も失われてしまいますからね。
ここもまだ入り口付近に過ぎず、ずっとこんな光景が続くわけではありません。上へ登っていけば、公園として良く整備された曲輪へ出ます。遺構は豊富、ゆっくりと探索することができます。
<南曲輪>
ここは比較的小規模な曲輪ですが、本丸・二の丸といった広い曲輪も同様に公園として整備されています。あちこちに遺構が確認できますが、ただのんびりと散歩したい方にもお勧めです。
■短期工事■
本格的な城郭です。とても「一夜」では造れません。ただ、工事期間は相当短かったそうです。のべ4万人以上を動員して80日程度。簡素な砦ではなく、総石垣の城ですよ!これは凄いことです。規模も考慮すると、普通は数年以上はかかる仕事です。
この陣城、築城者ははっきりしていません。しかし城の構造から、黒田官兵衛とする説があります(こういうのを研究している皆様には本当に感謝します)。あの官兵衛の城かぁ、、、その説を信じきって城内を見回すと、凝った造りの全てが、軍師官兵衛の思惑に見えてきます。秀吉と官兵衛の人間関係すら、感じられる気がします(当然ですが、いつもの思い込みとして)。
■権威の城■
この城は単なる「陣城」ではなく、秀吉の権威を敵にも味方にも見せつけるためのものだったようですね。
本人が実際に滞在していたのは3ケ月くらいでしょう。その間に、天皇の勅使を迎えたり、千利休を呼び寄せて茶会なども開きました。わざわざ淀君(側室・いわゆる茶々さま)も呼びよせたようですが、えっと奥様は呼ばなかったようですね(正室・ねねさま)。まぁいろいろあるのでしょう。他に、参陣する諸大名もこの城に招いたそうです。豪華な造りに、訪れた人は皆驚いたことでしょうね。
■縄張り■
山城です。まず本丸(および天守台)を最も高い位置とし、南北に走る尾根を軸に、北に二の丸他の主要な曲輪を配置。南側にも曲輪を配置して、更に堀切で隔て、その先に出丸を配置しました。これは大筋の構造で、他にも適所に小規模な曲輪(冒頭の石垣付近の南曲輪など)を配置したようです。
■遺構は沢山■
関東大震災で大きなダメージを受けましたが、現在も石垣、曲輪、堀切といった遺構が健在です。遊歩道の整備など、公園として良く管理されていますが、過度に手を加えているわけでもなく、城跡の雰囲気はそのまま。いろいろ配慮してもらっている気がして、感謝したくなる城跡です。
<城内の谷>
地図に従って「井戸曲輪」を目指していたのですが、行き先は谷。城の中の谷?あまり予習してなかったので、こんな先に本当に曲輪があるのか半信半疑でした。小田原城につづき、ここも友人二人と探索。だんだん私以上に熱くなってきた友人が、タオルを首にかけて谷を下って行きます。
<井戸曲輪>
凄い…。ただの谷ではありませんでした。ここは山中の湧水地。そしてその四面を石垣で囲むという大掛かりな曲輪です。下まで降りてみると、ちょっと異様な雰囲気。別世界のように感じます。この石垣に囲まれた空間は、当時はどういう雰囲気だったのでしょうか?
<貴重な石垣>
井戸曲輪の石垣は、関東大震災でも崩れませんでした。関東大震災は相模湾一帯を震源とする巨大地震です。小田原の地でありながら、中世末期の石垣が原型を留めています。野面積み(あまり加工しない状態の石を積み上げる方法)です。プロフェッショナルの仕事は凄いですね。
■石垣山頂上付近■
<石碑>
画像は山頂付近の石碑です。
<眺め>
小田原城は中央の緑が多い部分です。小田原市の様子から相模湾まで一望できます。小田原征伐の際には、城を取り囲む天下軍、海上は船が見えていたのでしょうね。
北条側は約三ヶ月籠城しましたが、やがて秀吉に降伏を願い出ます。壮大なスケール、そして長期戦となった小田原征伐ですが、これで幕引きです。
つわものどもが夢の跡
城の役目もこの時に終わりました。贅沢を尽くしたこの陣城。
一炊の夢のために築かれたような城です。
--------■ 石垣山城 ■--------
別 名:石垣山一夜城
築城年:1590年(天正18)
築城者:不明(黒田官兵衛)
城 主:豊臣秀吉
廃城年:1590年(天正18)
[神奈川県小田原市早川]
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